県道146号から一歩足を踏み入れると、きゅっと身の絞まるような気がした。
この感触は斎場御獄(セイファーウタキ)の石段を登ろうとしたときに受けたものと似ているが、ちょっと違うような気もする。
3年前のその時、昇り口の石がほんの少し盛り上がっているのを見て、同行した建築家藤本幸充さんがこれは結界ではないかと言い、僕もそうだと感じた。踏み込んでいいのかと一瞬ためらったが進むにつれ此処はまさしく神宿る場所、心を無にしようとしたりした。此処には嘗て男は立ち入ることができなかったのだ。
中城按司として座喜味城や中城城をつくった護佐丸の墓は、樹々を分け入るように造られた狭い急な階段を上っていく。ふと上を見ると大きな樹木の中に空間が開け、草木と一体となって南傾斜の山の懐に包まれるような形で現れる。正しく自然の気を受け止める風水原理を具現化したものだ。
この墓は1686年久米村の蔡応瑞に風水を見立てられて移築、石を組み合わせて改修された沖縄最初の亀甲墓(平敷令治「沖縄の祖先祀」)で、護佐丸の骨は519年間という長い時間此処にまつられてきたのだ。
按司は領主を指すのだが、世界遺産になった、それも弓矢などを避けるために地形を生かして見事な石組による二つもの城(グスク)をつくった護佐丸は、どういう人間だったのだろうか。
首里城を訪れたとき出会った`三ヶ寺参詣行幸`古式行列の、髯を生やし胸を張った筑佐事のきりっとした風貌を思い起こす。そしてなんとも琉球の潮風を感じさせるネーミングではないか。墓を前にして目を閉じ、王朝の悠久の古に想いをはせる。
写真を撮ろうと墓の左手から上り始めたら薮蚊に刺されてたちまち手や首が膨れ上がった。護佐丸の霊に叱られたような気がし思わず襟を正した。といってもTシャツだけど。
沖縄の墓は、原初的な自然洞窟墓や横堀墓のほか、破風墓、家型墓、それに中国に発祥した風水陰宅としての亀甲墓(かめこうはか)など、今は火葬制となって認められなくなったが、いずれも内部に洗骨された骨を入れた厨子を納める大きな空間が取られている。
座喜味城跡に隣接している読谷村民族資料館に亀甲墓の模型が作られていて、内部の様子がわかるし、陶製の厨子のコレクションも展示されている。魅力的な厨子が洗骨された骨を納めるものだったとは!ショックだ。
墓は近年ではコンクリートで作られることが多く、`コンクリート流し込み墓`と墓地販売業者の宣伝看板に書いてあったりする。何かしら沖縄は墓ブームといいたくなる有様だ。ちなみに沖縄の建売住宅は、鉄筋コンクリート造と言わずにコンクリート流し込み住宅だ。
首里城の近くにある「玉陵」(たまうどぅん)は、1501年に築かれた破風型の琉球王室の墓で、まだこの時代には風水が移入されていないことがわかる。墓の形式からも風水伝来の経緯が現れる。
「玉陵」は三つの部屋に分かれていて、中央は洗骨の場になっている。ということは、洗骨と風水は近しいにしても直接の関係にないといえるのだろうか。(中国史研究者の三浦國男氏によると沖縄への風水初伝は1629年、八重山の川平に漂着した浙江省台州府の人、楊明州によるとされる)
沖縄の人は多くを語らないが、僕たちが異様に思うのは、亀甲墓や破風型墓が市中の住まいに隣接して点在している風景だ。
僕たちが泊まったホテルに接して小さな森があり、よく見ると3基の破風型墓だった。東京では銀座の一角とも言える場所なのに。
嘗ては山林だったところが住宅地や商業都市として開発されていくことによって墓と都市が共存していくことになったのだろう。時代も変わり、都市の様相も変化して行くが、この現象に沖縄の人の祖先を敬う風水(無意識の)地理説、時を敬う気持ちが見え隠れするとはいえないだろうか。
墓を通して文化が見えてくる。
僕が護佐丸の墓の域に入りかけたとき受けた感触は、風水の「気」だったのだ。
流浪する神、いいなあ!
ケルトのマーグメルトってどういう神なのでしょうか。ケルトというとアイルランドの荒涼とした石のが散逸している光景を思い浮かべてしまうのですが。おや!ここはISLAY・WHISKYの里ではないか!
東松照明の沖縄まんだらにはハマりまして、白塗りの神と泥まぶれの神の姿には衝撃を受けました。
神が身をやつして人家を訪れたり海辺を流浪する。
そのナリ・サマをヒトが追体験する。
聖俗一如ですね。最愛の観念です。
どきどきします。
弥勒世報、ノタレシヌ神々…たまりません。
わたしは学生の頃から比較神話学などにのめっていまして、ニライカナイとケルトのマーグメルトの比較などして楽しんでいました。
何もかもが観念上の遊びなので、フィールドワークに出始めたのは大人になってからです。
そこから建築を見て回るようにもなるのですが。
迷信にも根拠がある。それらが成立した風土を調べる、というのがわたしの抱える研究のひとつでもありますが、怠惰で流されやすいもので、なかなか書き上げることも出来ず、やはり楽しむだけで終わりそうです。
ああ、すみません、次から次にまとまりのないコメントばかり出しまして、申し訳ありません。
またおじゃまさせてもらいます。
それはともかくコメントありがとうございます。洞察深き遊行さんとやり取りできるかなと、少々ためらいながらコメントをお返ししたいと思います。
亀甲墓は母体をかたどったものとよく言われるようですが、ではなぜ亀の甲羅の墓というのか、福建省に亀甲模様が刻印された墓があるそうでそこでヒヤリングすると、亀が好まれない中国であっても、亀は長寿の象徴で、祖先を大切にするつまり墓を大切にすることで子孫が繁栄する、この考え方は風水そのものです。屏風のある亀甲墓が今でも沖縄にあることからもそのことが考えられると渡邊教授は述べています。
しかし時の経過とともに風土や多分遊行さんの専門分野?の民俗学の視点からも考察できる様々な要素が混ざり合って、沖縄の文化が構成されてきて、沖縄独特の亀甲墓が形つくられてきたのでしょう。
お墓の前でお弁当を食べて供養するというのもよくわかります。そのためにお墓の前が広いのでしょうね。風水は迷信だといわれたりしますが、そうでもなくて奥の深い文化のどこかにいるのだと思うのですけど。
ニライカナイというと、写真家東松照明の「太陽の鉛筆」の西表島の海に向かって手を差し伸べている写真を思い出します。その先にハーリーが2艘いる。海の彼方のニライから滞在神である御獄の村を訪れ、豊年を約束して海に帰る、(御獄は村に一つずつあるのもそう考えると納得できます)その担い手は女性ですね。
東松照明は、基地問題の取材から沖縄に入って沖縄の原点に触れて移住までして沖縄にのめりこんでいった。僕も門外漢とはいいながら、今の視点で文化を考察する文化人類学に触れなが
ら・・・なーんて!大丈夫かな?
これからもどうかよろしく。
わたしは沖縄には一度しか行かず宮古島にも一度(しかも二度とも社内旅行)だけですので何も意見らしきものを言える立場にはありませんが、以前にかなりハマりまして、今でも斎場御嶽の写真など見てはどきどきしております。
今回、penkou様の紀行文に大変刺激を受けました。特にこのお墓の話には色々と思うこともありました。初めてお邪魔して長々書いてしまう非礼をどうかお許しください。
大阪人のわたしには、母親が沖縄人の友達が多いです。彼女たちのナマな感覚の話ですが、彼女らにとってお墓は母系そのものの象徴らしいです。
だから、形もそうだと言うのです。
そしてお彼岸やお盆にはそこでお弁当を広げるのが楽しみだし、供養にもなるそうです。
那覇の子も守礼門のそばの子も同じことを言いました。
『墓地でこけたら三年で死ぬ』などとおどかされていたわたしにとってはかなりの衝撃でした。
そもそもニライカナイの概念からしても非常に(本土者にとっては)不思議だと思います。
すみません、どうしても民俗学系に走りそうになりますので止めます。
沖縄の深さには、抵抗できない魅力を感じます。
まとまりのないコメントなどを出して失礼いたしました。なんだかどきどきしている遊行でした。
御獄での祭祀は、ノロ、ツカサと言われる神女によって営まれ、御獄空間への立ち入りは男子禁止になっています。(今でも)
嘗て岡本太郎がこの御獄に入って感動し、沖縄文化論に書きましたが、立ち入ったことについて地元から大きな批判が出ました。
僕は研究者ではありませんが、どうも沖縄に絡め取られそうです。