今年の訪沖も昨年と同じく、2月11日(建国記念日)の夕刻に行われた「聖クララ教会」でのコンサートを聴くために日程を組んだ。そして前日の早朝沖縄に向かった。コンサートでは例年と同じく一言挨拶を頼まれたが、僕自身この建築の見方が少し変わったことに気が付き、そのことを簡単に挨拶に盛り込んだ。
見方が変わったのは地に根付いて建築に取り組んでいる建築家赤嶺和雄さんに会い、自宅を拝見し、沖縄料理をご馳走になって一杯やりながら国場幸房さんや根路銘さん共々沖縄を語り合ったからなのかもしれない。
ところで2日目の午前中に読谷に向かい、大嶺實清さんのアトリエ(工房)に立ち寄って、念願の茶碗をきめていただいた。2014年10月、ほぼ1月に渡る大嶺實清「無垢の造形展」(於OISTメインキャンパス)に出展されたもの、その時頂いた陶芸展のチラシ自体が作品になっていて見惚れる。
そして根路銘さんと共に大嶺さんご自身の陶芸論(ご自身のスタンス)に聞き惚れた。「僕は利休ではなく織部だ」という論旨。
一つの理念を深く深く追求していくのではなく、次々に新しいことへのトライ(変幻自在・でもそれもまた理念追及には違いないと思うが)なのだ。だから僕の持っている大嶺さんの作品群とも一期一会、次に訪れた時には大嶺さんのギャラリーでも、読谷の販売所でも見ることができない。
僕の沖縄を訪れる喜びと楽しみ・そしてそれは僕自身のこういう感性を、自らが知らず知らずのうちに感じ取ることになるのだと、改めて実感 。
コンサートの前に、2つの取材を受けた。琉球TVと新聞社だった。
新聞社からは、「この教会の中で一番好きな場所!」というもので、TV局のは「この教会の建築としての魅力」。ところがそのどちらも取材者側の期待に添えるものにならなかった。
名刺の交換もなしにいきなりカメラが回り始めた、というのは初めての事。
一月半が経って振り返ると、新聞社の女性記者からの質問には、「会堂に向かう入口(教会の中での位置付けは裏口)の右手にある中庭との間の花ブロックを見ながらの少し上り坂になっている通路」(写真参照)と答えればよかったと思う。
ところがその前のTVの女性取材者のスタンスが、「新しい時代を築いたこの建築魅力を沖縄の人に伝えたい」と考えた設計者の理念を述べさせたがっていて、今思うとそれは当然なのだけど、今年の沖縄での僕の建築家としてこの建築に対する素朴な思いに冷や水を浴びられたようなことになってしまった。
前日に、沖縄のこの地に根付いて仕事をしている赤嶺さんに会い、午前中に大嶺實清さんとやり取りした。それが僕の中にこびりついていたのかもしれない。
聖クララ教会を設計した建築家片岡献は、米軍キャンプでの通訳をしながらこの沖縄の風土を実体験し、猛烈な台風や乾季での水不足が気になって、この形がごく自然に生み出されたものだという考えが僕の中に張り付いた。
質問者が引き出したいコトバ、時代を先取りした建築とは言い難くなってしまった。中庭をつくったのも台風対処。つくったのではなく生み出された建築!
僕はそんなことを述べたが、放映されたのはこの辺りの僕の論旨は全てカット、その前に、既に修道女にも取材がなされていたことも知らず(とてもいいメッセージだったが)その夕刻放映された番組を、親しい建築家と一杯やりながら見ていて苦笑したものだ。これは単に僕のぼやきだ。お粗末!
<写真 会堂への通路>
見方が変わったのは地に根付いて建築に取り組んでいる建築家赤嶺和雄さんに会い、自宅を拝見し、沖縄料理をご馳走になって一杯やりながら国場幸房さんや根路銘さん共々沖縄を語り合ったからなのかもしれない。
ところで2日目の午前中に読谷に向かい、大嶺實清さんのアトリエ(工房)に立ち寄って、念願の茶碗をきめていただいた。2014年10月、ほぼ1月に渡る大嶺實清「無垢の造形展」(於OISTメインキャンパス)に出展されたもの、その時頂いた陶芸展のチラシ自体が作品になっていて見惚れる。
そして根路銘さんと共に大嶺さんご自身の陶芸論(ご自身のスタンス)に聞き惚れた。「僕は利休ではなく織部だ」という論旨。
一つの理念を深く深く追求していくのではなく、次々に新しいことへのトライ(変幻自在・でもそれもまた理念追及には違いないと思うが)なのだ。だから僕の持っている大嶺さんの作品群とも一期一会、次に訪れた時には大嶺さんのギャラリーでも、読谷の販売所でも見ることができない。
僕の沖縄を訪れる喜びと楽しみ・そしてそれは僕自身のこういう感性を、自らが知らず知らずのうちに感じ取ることになるのだと、改めて実感 。
コンサートの前に、2つの取材を受けた。琉球TVと新聞社だった。
新聞社からは、「この教会の中で一番好きな場所!」というもので、TV局のは「この教会の建築としての魅力」。ところがそのどちらも取材者側の期待に添えるものにならなかった。
名刺の交換もなしにいきなりカメラが回り始めた、というのは初めての事。
一月半が経って振り返ると、新聞社の女性記者からの質問には、「会堂に向かう入口(教会の中での位置付けは裏口)の右手にある中庭との間の花ブロックを見ながらの少し上り坂になっている通路」(写真参照)と答えればよかったと思う。
ところがその前のTVの女性取材者のスタンスが、「新しい時代を築いたこの建築魅力を沖縄の人に伝えたい」と考えた設計者の理念を述べさせたがっていて、今思うとそれは当然なのだけど、今年の沖縄での僕の建築家としてこの建築に対する素朴な思いに冷や水を浴びられたようなことになってしまった。
前日に、沖縄のこの地に根付いて仕事をしている赤嶺さんに会い、午前中に大嶺實清さんとやり取りした。それが僕の中にこびりついていたのかもしれない。
聖クララ教会を設計した建築家片岡献は、米軍キャンプでの通訳をしながらこの沖縄の風土を実体験し、猛烈な台風や乾季での水不足が気になって、この形がごく自然に生み出されたものだという考えが僕の中に張り付いた。
質問者が引き出したいコトバ、時代を先取りした建築とは言い難くなってしまった。中庭をつくったのも台風対処。つくったのではなく生み出された建築!
僕はそんなことを述べたが、放映されたのはこの辺りの僕の論旨は全てカット、その前に、既に修道女にも取材がなされていたことも知らず(とてもいいメッセージだったが)その夕刻放映された番組を、親しい建築家と一杯やりながら見ていて苦笑したものだ。これは単に僕のぼやきだ。お粗末!
<写真 会堂への通路>
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