美術家で美術史評家でもある彦坂尚嘉さんのコメントを聞いていて、心が騒ぎ出した。騒ぐというよりむしろもっと切迫した、都城市民会館を絶対に壊してはいけないと、居ても起ってもいられない気持ちになったのだ。
宮崎県都城市の、都城総合福祉会館の大会議室で行ったシンポジウムでのことだ。
このシンポジウムは、7月24日より29日まで、市立美術館で行われた「DOCOMOMO選記念展」の企画のなかで「DOCOMOMOフォーラム都城」として27日(土)の午後開催された。
主催は「南九州の文化と建築を考える会」。
都城の建築家ヒラカワヤスミさんと市民でつくった`都城市民会館を残したい`と願う会である。僕はこのフォーラムで「風景となる建築」と題した基調講話を行い、引き続いて行ったシンポジウムで、コーディネータを担った。
彦坂さんの論旨はこうだ。
欧米では、美術と建築は欠かせないものとして認識して論考するが、日本では建築を、美術との関連で検証することがほとんどない。しかしこの菊竹清訓さんの設計した『都城市民会館』を視て、黙ってはいられなくなった。
これは「ダビンチ」だ.
一流という作品がある。例えば丹下健三の「香川県庁舎」。
この庁舎は日本では珍しい建築と美術を融合させた素晴らしい建築である。でもこの建築はいわば「ラファエロ」。
ラファエロは優しくて居心地がよく大勢の人に愛された。だがレオナルド・ダビンチの作品は、何処か不穏で人の心を悩ませる。あのダビンチの描いた「モナリザ」の笑みとはいえない笑み。覗き込んでいると居心地が悪くなり、心がもぞもぞと騒ぎ出す。
しかし時を経ると、レオナルド・ダビンチは別格となった。一流を突き抜けた「超一流」。つまりモナリザは天才の作品なのだ。
菊竹さんの都城市民会館は、異形の建築とよく言われる。シンポジウムで、磯達雄さんは「キメラ」だといった。言い得て妙だが、ハリネズミという人もいるしヤマアラシという人もいる。
僕の講話の論考は、ppで映した2枚の写真、母校千葉県立東葛飾高校校舎の主玄関前で卒業するときに撮った、文学部の連中と顧問の先生との集合写真と、1973年に美術出版社から発行された「菊竹清訓作品と方法」の中の、写真家小山孝の撮った都城の瓦屋根の街中に、扇型のオーデトリアムの建つ魅力的な写真からスタートした。その2枚が、僕の原風景として何時までも心に留まっているからだ。
卒業写真を見ると、天井の高かった教室の空間ととともに、友人や先生の忘れえ得ない一言一言が浮かび上がる。人研でつくられた階段手すりの肌触りもぼんやりと思い出す。母校が解体されて僕のアイデンティティがなくなった。あるはずのものがない、というのは恐いのだ。
新建築に発表されたときにその姿が心に焼きつき、34年前に作品集を手に入れたときに建築家としての志が確立した。この建築の存在が僕の建築家としてのアイデンティティといってもいいのかもしれない。何故この建築が僕の心に触れたのだろうか。その答えが都城に行けばある。
そして今回の企画について、都城のヒラカワさんと、何度も電話やメールでやり取りしているうちに、都城の人々の気持ちがだんだん気になってきた。それも確認したかったのだ。
しかし彦坂尚嘉さんの論考を聞いていて、そういう想いや思索がふっとんでしまうほど心が動かされた。
もしかしたら人類の遺産「都城」にあるダビンチを、失ってしまうのではないかという焦燥感に襲われたのだ。
彦坂さんは言う。
都城市民会館は異形という言葉では言い顕せない「超一流」。
そして若くしてなくなったロッククイーンといわれた、類型の無い、不世出のジャニス・ジョプリンに触れながら述べる彦坂さんの、涙している心をも垣間見てしまったからだ。
天才のつくった超一流を、多数決で壊していいのだろうか!
「ただ、そんな素晴しい建築にも全国各地で解体の危機が迫っている。保存や使用継続に繋がるかどうかは分からないが、何か新しい要素を考えてみるのは意味があるはずだ。」と学生達に告げました。
「なくしてもいいのか」この焦燥感を感じたくありません。
追伸:因みに2年生は、毎年恒例のポケットパークを持つビルの模型のプレゼンです
とても難しい課題ですね。母校明大の教授が大学院生に同じような課題を出しました。僕はその中間発表の時講師として講評を頼まれたのですが、ユニークな提案もなくはなかったものの、何故そうしなくてはいけないの?と問うと、皆一様に困惑します。
従いまして(笑)皆様のお手並み拝見。楽しみです。何故そういう課題を提示したのか?と先生についつい聞いてしまうかもしれませんよ(笑)
これからもよろしくお願いいたします。
【天才の作った超一流を多数決で・・・いいのか?】
誠にそのとおりで御座います☆ いい訳が無い!
世界人類の共通財産とも言える【C・チャップマン】の名車や【C・チャップリン】の名作のように【超一流】を「旧くなった」・・・と捨てるみたいな愚行ですよね。
作品集や送っていただいた近影を見て、その形などが頭にこびりついていたので、こういう場所に建っていたのかと感慨を覚えたものの、異景という感じではなく、違和感なく街に存在しているなあと思いました。この形はオーディトリアムの機能を率直に表現していることも確認できましたが、しかし類型がないということは、凄いことだと改めて、ものづくりの原点に触れた得た気がしました。
会場からもご意見がありましたが、都城の人たちは、者心がついたときから建っていて、あるのが当たり前。あまり褒められたりすると困惑されるのでしょう。本当カナなんて(笑)
でもいわれたように率直に見たくて来たのは間違いなく、格好よく言えば市民会館に引き寄せられたといいたいところですが、やはりヒラカワサンたちの活動があったので、それに触れ得たのだと感謝しています。どうしても残したい!
明日から韓国に行き、DOCOMOMO Koreaの方達と一杯やりますが、この続きは帰国してからになりそうです。
伊勢原には太田道灌。都城に市民会館。我が海老名には?何があるのだろう(涙)。いや地元に根付いてない僕だけが知らないのか!あの赤いやつが1970年とか。都城市民会館が4歳の時。なくして言い訳ありませんよね。
それはともかく(笑)海老名には県内最大の遺構を誇る国分寺と国分尼寺の遺跡があるではありませんか!
現在、私が設計監理中の分譲地造成現場(15区画。エド〇ード鈴〇氏と仲良しの某住宅メーカーにて施工中)は「国分尼寺跡」に近く、且つ「国分寺」造営時に相模川上流から大型の材木を運ぶ為に使われた運河(もともと自然河川なのか人工的に作られた運河なのか詳細は知りませんが)跡に面しています。(ですから今でも現場近くには湧水池があります)
追伸:海老名と言えば文化会館より隣の蕎麦屋の方が形態的に面白い(まるで文化会館に食い込んだ、或いは文化会館に切り取られたかのような)ですよね?笑
感性鈍い私「m」にはどーしても理解出来ないのでお尋ねします。 あの「兵舎」と「新国立美術館」は有益な、或いは有機的な、意義深い「対話」をしているのですか?? あんなにも中途半端な距離を隔てて。 背景もプロポーションもテクスチャーも含め、私にはあの二つの建築が(少なくとも同じ建築家の手によって)有機的関係になるべく設計されたとは思えないのです・・・。 悲しいけれど。
一昨日の夜韓国から帰ってきたのですが、東京に劣らない猛暑、猛湿。好奇心がいたく刺激され、気力に満ち満ちてはいたものの、何とも情けなく体力が追いつかず昨日は終日自宅で寝てしまいました。ご返事がおそくなって申し訳ありません。
(m)さん
国分寺ねえ!なんていうと叱られそうですね(笑)。
海老名の文化会館に食い込んでいる木造屋根の蕎麦やさん、なんだか変な風景だと思っているのですが?どうしてああなったのでしょうね!
兵舎と新国立美術館の関係は微妙ですね。形も建物の役割も異なるほんのひとかけら残った建築と、巨大な美術館との融合性、有機的な関係をどう捉え、どう表現すればいいのか、正解を打ち出すのはなかなか難しいのではないでしょうか。(正解ってあるのでしょうか?)あれは黒川さんの一つの回答だと思います。それが必ずすもいいとは思いませんし、ではどうすればよかったのかといわれると困惑します。
残し方の問題や、残す運動はどうだったのかまで問われる課題ということになるのかもしれません。
少なくとも建築家や、歴史研究者の評価は厳しいものです。ブログでは書きがたい難問です。イズレ機会がありましたら・・・僕の保存戦記の写真のキャプションは僕の評価ではありません。ある種の解説(苦笑)というと変ですかね?
(MOROさん)
弘前ですね、今頃。弘前便りを楽しみに・・・