日々・from an architect

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山陰建築小紀行(3) 出雲大社庁の舎と学生の計画案:想いを込めて追記・結界

2015-11-13 17:18:17 | 建築・風景
建築家菊竹清則は、山陰にいくつもの建築を建てた。そのどれもがその時代を象徴、先き掛けした形態と構法で、現在でも僕たちを魅了し続け、建築とは或いは建築家とは何者か!と問いかけている。

その一つ「出雲大社庁の舎」は1963年(昭和38年)に、工場で作られたPC(precast concrete:プレキャスト・コンクリート)を主体として建てられ時代を揺り動かした建築である。
2003年、DOCOMOMO100選を選定したのを機に、テーマと登場者の異なる3件のシンポジウムを行った。その一つ菊竹清則、林昌二、槇文彦という建築界の大御所を招いて各々の建築題材とした建築談議を行った。菊竹は、「出雲大社庁の舎」を事例として取り上げ、いずれ木造として建て変えたいと述べ、一瞬会場が溜息ともいえる空気に揺らいだ。

3人のパネルストの方々が一通り講話をし、休憩した後のやり取りで、進行役を担った新建築社の編集長(当時)大森晃彦から会場に「質問のある方!」と問いかけたが誰も手を上げなかった。困惑した大森は最前列にいた僕を名指して質問をと言われ、休憩時間に楽屋で、槇が「菊竹さん、出雲の庁の舎を壊したら駄目ですよ!」と述べたことを伝えて改めてどうでしょうか!と問うた。

その様は何年を経ても忘れ難く、むしろ(いまでは)質問した僕自身への問い掛けのような気がしているが、その時の菊竹はじっと瞑目しながらなかなか口を開かず、会場がざわめき始めたころ、やおら出雲の草原と稲穂が風になびくさまを語り始めて大社庁の舎には触れなかった。
しかし12年を経た今では、その菊竹の出雲への想いが理解できるような気がする。
菊竹は、太古の出雲を心に秘めて、さりげなく僕たちに稲穂と大社庁の舎の姿・存在を伝えていたのではないだろうか。

出雲大社には僕には忘れえないもう一つのエピソードがある。
数日前、札幌の諸澤さんに案内していただいて紋別への行き帰りの車中で建築談義を取り交わした時の一言。彼が高専の教師をしていた時に、学生の設計課題講評に招かれた僕が、極めて印象深く心に留まっている一つ、出雲大社参道のど真ん中に構築された庁の舎の計画案である。
 参道の真ん中を掘り下げて上り下りの階段を設け、屋根を木造による巨大な切妻とするその空間は、菊竹の庁の舎と重なり合って出雲大社への想いが伝わってくる。教師だった諸澤さんにとっても、忘れ難い教え子の提案だったようだ。

僕は密かにその学生の計画案を思い起こしていた。大樹の連なる参道を歩きながら、建ててみたたいものだと思ったりもしていた。

―追記―(20151118) この計画案の課題は、各自が気になる日本のモダニズム建築を選びだし、現地を訪れることのないままにその建築の資料を収集してイメージを膨らませて構築させるものだった。この学生は菊竹建築を視野に入れながらも、なぜこのような提案をしたのだろうかと十数年を経た今気になってきた。若き彼は言葉ではうまく表現できなかったようだが、遥かなる出雲大社を思い起こしながら「結界」を構築しようとしたのではないだろうか。

改めて一言。山陰と北海道が僕の内で繋がる。不思議なものだ! <文中敬称略あり>

<写真 左手が庁の舎>