弥勒シリーズの第4作「東雲の途」(2012年2月初版1刷:光文社刊)を読み進め、`あさのあつこ`は男を描いてみたかったのだ、と読む僕を吹っ切らせた。その道のプロである・・三人の男を!
本編でその闇が解き明かされていく主人公は商人「遠野屋清之介」。そして清之介が居るから同心「木暮信次郎」が生きている。いや信次郎がいるから清之介が生まれたのかもしれない。清之介は最後にこう言うのだ。「木暮様は・・おもしろうてならぬお方でございますから」。信次郎は目を細める。
炭がはぜる。雪の音を伊佐治も聞いた。そうだ、岡っ引き伊佐治がいた。この雪の音を、刀の触れあう音に似ている、と感じる岡っ引きなのだ。その伊佐治は「あっしみてえな男が口はばってえことを言うようですがねえ、遠野屋さん、あんたきっぱりとけりをつけなきゃならねえんじゃ、ねえんですかね」。
主役は遠野屋清之介と木暮信次郎の二人だけではなくこの三人の男なのだ。プロフェッショナルの!プロフェッショナルでなくては男ではないと言いたいようだ。
1954年生まれのあさのあつこは「バッテリー」でブレークして児童文学の覇者として知られるようになったが、あるインタビューで藤沢周平に惹かれるんですってねと問われてこう述べる。
男性を書くなら時代小説、藤沢周平の捉えた「市井の中でかっこよく生きる男を書きたい」。その想いが「弥勒の月」(2006)、「夜叉桜」(2007)、「木練柿」(2009)に込められていて、男の僕の心を奮わせる。そして本編でその成果を問うのだ。
あさのあつこに聞いてみたいことがある。シリーズがスタートしたのが2006年、そして6年を経た「東雲の途」で解き明かされいく3人の男の本性を、6年前に構築していたのか?
つまりわくわくしながら読み進め、ふと生きるとは何かと考えてしまうどの作も本編を見据えて書いていたのかという、初歩的な?マークをそっと耳打ちしてほしいのだ。
ストーリーを記すことはできないが、ひとことを書き添えたい。
清之介の`おりん`や、伊佐治の`おふじ`という、会ってみたい女が目の前に、生き生きと悲しくつらく・・・思い浮かぶのでもある。