―二つ目のエピソード―
1年と少し経ったが、菊竹事務所のOB・来間直樹さんに招かれて村野藤吾の設計した「米子公会堂」(鳥取県米子市)のシンポジウムに参加した折、菊竹清訓の代表作、骨格の明快な「東光園」に泊まり、「出雲大社庁の舎」に案内してもらった。村野の建築を語りに行って菊竹の代表作を視る。ふと何かに導かれていたような気がしてくる。
改めて「WA100」を紐解くと中川武教授の、早稲田を飛び越えて日本の建築を築いてきた村野と菊竹という二人の建築家へのオマージュがひしひしと伝わってくるのである。中川は「スカイハウス」を例にとって「メタボリズム」の問題作という範疇にはとどまらないのだと書く。
「4本の壁柱によって空高く持ち上げられた大空間には、日本の上流住宅の中にあった『九間(ここの間)形式』の伝統を、注意深く継承する其の身振りの中に、過酷さを増していくだろう日本の現代社会の行く末に、雄々しく立ち向かう夫婦像の叫びがこめられている」。
そしてそれは「すべての菊竹作品の核心部分に込められる菊竹個人のオブセッシオンとしか言いようのない強度を持っているように思われる」。
更に村野のときと同じく丹下健三を持ち出して「この点が丹下にない菊竹のわかりにくさであり独創性」だろうとする。
米子の隣町島根県になる松江には魅力的で完成度の高い菊竹の図書館がある。しかし東光園と出雲大社庁の舎という二つの建築は住宅ではないとはいえ、中川の過剰とも思えるその思いに触れると、そのままスカイハウスの記述に置き換えてもよいかもしれない、ということになるのだ。
しかしスカイハウスを「雄々しく立ち向かう夫婦像の叫び」と記述をする中川武教授に、よくも格好よく言ったものだと驚くが、僕の視るスカイハウスは、松江の図書館のように品格とそれを支えるバランスの良さに満ちていて、とりわけ2階の居間空間に「艶」を見出す。子供が生まれたら子供室をぶら下げるというメタボリズム・新陳代謝思潮の表現も威張ってはいない。
さて初項(Ⅰ)で記述したように、編集者石堂はこういう菊竹を総括してアンビルド「国立京都国際会館競技設計優秀案」に置き換える。まさしく石堂ワールドである。
僕は2005年に行ったDOCOMOMO100選「文化遺産のモダニズム建築展」での自作を語ると題したシンポジウムを思い返している。
パネリストは林昌二、槇文彦それに菊竹清訓という夢のような3人の巨匠だった。菊竹さんは「出雲大社庁の舎」を語り、庁舎を覆うPC(プレキャストコンクリート)が傷んできたので今度は木造架溝でつくり直したいと述べた。
休憩を挟んで始まった後半の冒頭で司会を担った大森晃彦(当時は新建築誌の編集長)が会場に質問のある方と投げかけたが誰も手を挙げず、困って僕を名指した。楽屋落ちになるかもしれないがと断って僕は、控室で槇さんが、つい最近出雲に行ってきたがまだまだ大丈夫ですよ!と菊竹さんに述べた事を紹介して、この舎の存続について問うた。
菊竹さんはしばし瞑目して考え込んだが、僕の質問には答えず前半の続き、稲の波打つ自然の姿をとらえた写真を写しながらこの地の自然環境に触れ風土と建築の話を続けた。
6年を経てもその時の稲穂の姿と学生時代(明治大学)、堀口捨巳先生が一抱えもある資料を教壇に持ち込んで、そのほぼ1年間巨大だったという出雲大社の姿の福井訛りの堀口論を息をつめて聞いていた僕自身を即座に思い出す。
このシンポジウム時の菊竹の姿がエピソードのⅡなのだが、当時は僕もコンクリートでなくてはいけなかったと思ったし、一昨年訪れた時のPCの姿が木造の大社に呼応していて、コンクリートも味わいが深まるのだと感じ入った。が、この一文を書き進めていてじわじわと感じ始めているのは、菊竹はこの巨大な稲穂掛けを木造でやるべきではなかったのかと自問し、それにトライしたかったのではないだろうかということだ。
新陳代謝という理論を超えて「つくる建築家として」。その姿を僕は見たかったとも思うのである。
<写真、スカイハウスと出雲大社庁の舎>
1年と少し経ったが、菊竹事務所のOB・来間直樹さんに招かれて村野藤吾の設計した「米子公会堂」(鳥取県米子市)のシンポジウムに参加した折、菊竹清訓の代表作、骨格の明快な「東光園」に泊まり、「出雲大社庁の舎」に案内してもらった。村野の建築を語りに行って菊竹の代表作を視る。ふと何かに導かれていたような気がしてくる。
改めて「WA100」を紐解くと中川武教授の、早稲田を飛び越えて日本の建築を築いてきた村野と菊竹という二人の建築家へのオマージュがひしひしと伝わってくるのである。中川は「スカイハウス」を例にとって「メタボリズム」の問題作という範疇にはとどまらないのだと書く。
「4本の壁柱によって空高く持ち上げられた大空間には、日本の上流住宅の中にあった『九間(ここの間)形式』の伝統を、注意深く継承する其の身振りの中に、過酷さを増していくだろう日本の現代社会の行く末に、雄々しく立ち向かう夫婦像の叫びがこめられている」。
そしてそれは「すべての菊竹作品の核心部分に込められる菊竹個人のオブセッシオンとしか言いようのない強度を持っているように思われる」。
更に村野のときと同じく丹下健三を持ち出して「この点が丹下にない菊竹のわかりにくさであり独創性」だろうとする。
米子の隣町島根県になる松江には魅力的で完成度の高い菊竹の図書館がある。しかし東光園と出雲大社庁の舎という二つの建築は住宅ではないとはいえ、中川の過剰とも思えるその思いに触れると、そのままスカイハウスの記述に置き換えてもよいかもしれない、ということになるのだ。
しかしスカイハウスを「雄々しく立ち向かう夫婦像の叫び」と記述をする中川武教授に、よくも格好よく言ったものだと驚くが、僕の視るスカイハウスは、松江の図書館のように品格とそれを支えるバランスの良さに満ちていて、とりわけ2階の居間空間に「艶」を見出す。子供が生まれたら子供室をぶら下げるというメタボリズム・新陳代謝思潮の表現も威張ってはいない。
さて初項(Ⅰ)で記述したように、編集者石堂はこういう菊竹を総括してアンビルド「国立京都国際会館競技設計優秀案」に置き換える。まさしく石堂ワールドである。
僕は2005年に行ったDOCOMOMO100選「文化遺産のモダニズム建築展」での自作を語ると題したシンポジウムを思い返している。
パネリストは林昌二、槇文彦それに菊竹清訓という夢のような3人の巨匠だった。菊竹さんは「出雲大社庁の舎」を語り、庁舎を覆うPC(プレキャストコンクリート)が傷んできたので今度は木造架溝でつくり直したいと述べた。
休憩を挟んで始まった後半の冒頭で司会を担った大森晃彦(当時は新建築誌の編集長)が会場に質問のある方と投げかけたが誰も手を挙げず、困って僕を名指した。楽屋落ちになるかもしれないがと断って僕は、控室で槇さんが、つい最近出雲に行ってきたがまだまだ大丈夫ですよ!と菊竹さんに述べた事を紹介して、この舎の存続について問うた。
菊竹さんはしばし瞑目して考え込んだが、僕の質問には答えず前半の続き、稲の波打つ自然の姿をとらえた写真を写しながらこの地の自然環境に触れ風土と建築の話を続けた。
6年を経てもその時の稲穂の姿と学生時代(明治大学)、堀口捨巳先生が一抱えもある資料を教壇に持ち込んで、そのほぼ1年間巨大だったという出雲大社の姿の福井訛りの堀口論を息をつめて聞いていた僕自身を即座に思い出す。
このシンポジウム時の菊竹の姿がエピソードのⅡなのだが、当時は僕もコンクリートでなくてはいけなかったと思ったし、一昨年訪れた時のPCの姿が木造の大社に呼応していて、コンクリートも味わいが深まるのだと感じ入った。が、この一文を書き進めていてじわじわと感じ始めているのは、菊竹はこの巨大な稲穂掛けを木造でやるべきではなかったのかと自問し、それにトライしたかったのではないだろうかということだ。
新陳代謝という理論を超えて「つくる建築家として」。その姿を僕は見たかったとも思うのである。
<写真、スカイハウスと出雲大社庁の舎>