日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(8) 青夏集の父

2006-08-17 13:04:09 | 生きること

父のことを書きたい。
しかしどう思い起こそうと思っても父の姿、つまり抱いてくれた感触や、話し声とか笑顔が現れない。父は僕が満4才になったばかりの3月17日に召集令状が来て、20日に出征した。終戦の前年だ。
子煩悩で優しい父だったと皆言う。書かれた文字や文章と、母やおばや僕の従兄弟たちが語るその姿は、写真があるので想像はできる。しかし『吾児の生立ち』には僕の一才の誕生日の後に父の文字はない。

父は明治42年9月13日、百馬とすみの長男として長崎市古町に生まれた。
あるとき仏壇の引き出しを開けたら、思いもかけない手紙や手帳、それに僕の臍の緒が出てきた。母が大切に保管していたのだ。僕の大学時代の成績表もあった。このエッセイを書くために取り出してみたら、あまりの不成績に愕然とした。一言いいたいがそれは別の機会に・・・

昭和17年9月3日付の、藤森晋さんという学友から来た封書が入っている。第四種郵便とゴム印が押してあり切手は4銭の軍人の肖像画だ。
神山と丸い印鑑が押してある謄写版(ガリ版)刷りの手紙と共に折りたたんだ「青夏集(1)」が出てきた。手紙はこういう書き出しだ。
「藤森からトーシャ版の通知が来た時、なんかしらポーっと眼頭が熱くなったのは俺一人じゃないだろう。皆んなは近来多忙なのに、みんながいつも考えているみんなの消息を知らせてやりたい気持ちが一杯なのだ」「人生はボーっとしているほうがいいですね・・・と一緒に働いている女の子が初めて相当強度の眼鏡をかけた日につくづくとこう云うのを聞いて、ハッと胸を突かれた」純情を失いたくないという学生時代からの夢を、女の子に先に行かれたと書いている。「どうだ、ワイフは元気かい。みんな生活を生き抜いていることだろうな」

父について神山さんはこういう。
「兼松はメトロの資材を引き受けてこの戦争の裏の辛さを味わっている。ないない尽くしは米や味噌ばかりではない。生産財もみんな事業を運営すべくものだが余りにも少ない。それだけに担当者の労苦は、そんななまやさしいものじゃあない。現在は資材こそ会社の事業の運営を決定するものだ」なんて当たり前のことを言っても仕方がないと付け加えるが、そういう思いによって「青夏集」が作られたようだ。
角谷さんや坂本さんなど数名の文章の最後に父の記述がある。

兼松新 父の名前が飛び込んでくる。33歳の父だ。
『あれからもう七年余り経過してしまった。この七年余りの年月は、俺達にとって決して短かったとは言ひきれない程の大きな変転があった事を否むことは出来ない。
あの時は誰でもが皆当時の流行の言葉を以って言えばチョンガーであったのに、今奥さんや子供を持っている。そしてそれを扶養している。偉くなったもんだと思う。
然しその当時の俺たちがかくなろうと話し合っていた理想と現在の俺たちの姿とを比較した時、余りにもはかなかった現実の悲壮感に転じた、感慨無量たらざるを得ない。

俺たちの学生時代に盛んに論じ合った統制経済が、今日の計画的統制経済の濫觴となっているのを感じたとき、俺たちも何かしら経済史の一齣の役目を果たしたことを思い、心中いささかの感慨を持つことが出来る事は果たして幸か不幸か?そしてそのことが何かしら俺たちの・・・少なくとも俺の現在の仕事に従事すべく運命付けられている事を思い、ジョウダンから(ひょうたん?)駒が出た感が深い。今まで何かしらやってみたいとずいぶんあせってもみたが、現在では事の善悪は暫く問わぬとして一応納まってしまった感じだ。

七年前の俺だったら南方へでも飛んで行っただろうに、子供が二人もあってはちょっと考えてしまって飛び出す元気もない。この頃はいいお父さんだ。
長男(紘一郎)といってもまだ三歳なんだが、朝出勤のときイッテラッシャイの声におくられてなにを土産に買って帰ろうかなんて考えている。次男(庸介 一才)がこの頃、おきかえる術を覚えて、うんうんうなり乍ら運動している。這うようになったら危ないなあと思い、二階のない家に引越ししたいと考えている。
この頃は仕事が忙しくて考える時間なんてない。だんだん馬鹿になっていくような気がして淋しい。但し仕事の上では今の会社では誰にでも負けない自信だけは持てるのは、八馬鹿グループのお陰か?』

父のアルバムがある。
ハードカバーの表紙をめくると、「贈 兼松君 東京商大専門部会講演部 昭和10年」と筆で書いてある。しっかりした楷書だ。講演部?弁論部のようなものなのだろうか。卒業時に贈られたようだ。

父はボート部にいた。身体が小さいのでスキッパーだったと母に聞いたことがある。伝統のある一ツ橋のボート部だ。それが何故講演部なのだろう。何故アルバムを贈られたのか。教えてくれる人はいない。
でも貼ってある写真、兼松講堂の前での集合写真や、料理屋で先生を真ん中にして徳利を持っている女性もいるし笑っている学生のいる写真、大勢の仲間と旅館の前で浴衣を着て肩を組んでいる写真もある。楽しそうだ。
日本の近代史を考えると微妙な時代だが学生時代を謳歌したのだ。「八馬鹿グループ」とは、勝手なことのいえる仲のいいグループだったのだろう。

<写真 中央のフラグを持っているのが父>