お米を食べなくなって、どのくらい時間がたつか。
米櫃に、米びつ、こめびつである。金属製で、一体いつのものかわからないが、ここにもう3年以上前の
お米が入っていて、想像したくない。中がどうなっているか。
10kg入れていて、一体どのくらい残っているか、7割くらいか。この古びた金属、これは父と母の時代のもの。
ここのいえは、父の生まれたいえで、母はもちろん富山に縁はある。もともと母の父は、高岡の戸出の生まれ
である。長男だが、いえを出ている。それで東京の田舎で、母は5人兄弟の真ん中として生まれた。
伯母は比較的近くにいる。この前、何年ぶりかで電話した。叔母は、1年に一回は来るが、私とは二周りはなれて
いる。叔父は、これまた近くだが、歳は叔母よりは上だ。2歳上だといっていた。
叔父は母のことを姉さんと呼び、母は叔父のことをひろちゃんといった。私の名前も、似た様なものである。
母が亡くなったあと、もう一回会っておきたかった、とポツリといった。やはり兄弟なのだな。
こうゆうことを書いていると、さすがにウルウルっとしてくる。
食い物の話。食欲ないけど。それゆえ富山の食い物にまったく興味はない。たまに白いご飯とインスタントの
レトルトカレーで、即席のカレーを食べたいと思う。いまさら鮨などとくに食べたいと思うことはない。たぶん
そこにあっても、一個くらい「にぎり」は食べるかも知れない。
むかし話だった。
米は白い米。ここのいえのむかし話で、ときは昭和で私が学生のとき。一体いつまで親と一緒に来ていたか。
一人で一番初めに来たのは、高校生のときかな。分からない。冒険心はなかった。高校と言うと歩いていって
いる。電車通学が、うらやましくも思えたが、のちに通勤地獄に似たものは5年は経験したので、あんなものは
長い時間経験するものではないな、とも思う。それゆえか、電車にはあまり縁はなかった。面白い電車にも
乗っていない。
父の祖父母は、明治生まれで、てっきり33年だと思っていた。しかし正しくは、35年だった。
私とどれくらい年齢差があるか、はっきりとしない。祖父は、昭和62年に亡くなっている。
で、食べ物の話である。わたしがここの昔のいえに来たのは、豪雪地帯でもある富山なので、多いのは夏だ。
で、夏休みだから、ここに来ることも出来たのだが、何もやらなかったが、食事は三度とった。
若いから何もしなくても腹は経る。朝はご飯と、それと味噌汁と、漬物か、野菜の煮物。
夏で、米にカビが生えないか、これは後々私が経験したことだ。その当時カビなど気にしたこともないが
実際に、そうゆうご飯を見たことはない。これは朝から不思議と一杯するりと入っていく。でも二杯は食べ
なかった。そのとき、祖父がどのくらい食べたか、ただ夜は少なくても二杯は食べていて、ご飯、という
あの独特の言葉のなまりのようなものはいまも覚えている。
板の間である。真っ黒けの板の間、囲炉裏にかまど。ということは毎日か、2日に一回か、ご飯は炊いて
いたのだろう。スギの葉、スンバ、これは風呂だったかな、薪でご飯を炊いていた。最初は新聞紙を燃やし
ていたか。マッチはあった。原始的な道具はそうはなかった、と思うが今考えるとあの時代にあった
ものはもうない。
タンパク質をどうしていたか、これはたまに行商の人が魚やイカを売りに来ていた。たまにではなく、
毎日だったかも知れない。あと、これは不思議だが当時すでに牛乳はとっていた。私に飲めともいった。
その当時の牛乳の味は、あまり記憶にはない。
味噌とかは祖母が作っていた。漬物も同じ。醤油はわからないが、これはむつかしい気がする。
梅干しはもちろん。
野菜は生は少なく、煮物が多く、味は濃い目で、同じものがなくなるまで食べていたと思う。
祖父母とも、長生きをしたほうだと思う。栄養の概念はなかった。
ご先祖様をどのくらい大切にしていたか、これはわからないが、墓掃除は一回だけ祖母といった。
食い物としては、当時は別に不満はなかった。母の作るものはそれはそれでおいしく、祖母の作る
ものは、あるものはものすごくおいしく、でもまずいものはなかった。高級な感じは当時は
持たなかったが、いまはそうゆう食事、メニューは恐らくだれも作ることは出来ないだろう。
お米と野菜と、それと魚介類。程ほどで、和食らしさはあって、精進料理ではなかった。
あの食事を食べることが出来たら、恐らく間違いなくもう少し元気に生きていた。
祖父が亡くなって、すでに父と母はここに帰ってきていたが、母とはなかなかうまくゆかず
これまたよくあることだが、別々に住むようになった。もう祖母もだいぶ高齢になっていて
父は苦労したようだ。が、もちろん父にとって祖母のゆうことは絶対だった。私が米を余っているので
もらいに来たときがある。釜が3、4個、囲炉裏のそばに出ていて、中に白いご飯は入っていた。
みな祖母が炊いたものだろう。父はどうしようもなかったはずだ。捨てるしかないはず。
食べ物の話は、これは楽しいものだが、食欲もないと、思い出だけが脳裏を横切る。
10月の空、朝、日の出前、日の出た後。これは10月6日と、今日8日。
10月6日。
その一。これだけ晴れていると、やはり朝は気温は下がっている。
その二。
その三。
その四。羊雲、さば雲、いわし雲、好きなものを言えばいい。
その五。山は晴れていると撮っているはずだが、画像はないなー。
10月8日、今朝。
その六。これは日が出たあとだが、何しろ午前6時を過ぎないと出ない。
その七。雨の後である。
その八。
その九。
その十。
午前中、雲が多いながら晴れ。気温は上がっていた。風がないので、外も比較的暖か。
雨予報だが、どの程度というところ。
米櫃に、米びつ、こめびつである。金属製で、一体いつのものかわからないが、ここにもう3年以上前の
お米が入っていて、想像したくない。中がどうなっているか。
10kg入れていて、一体どのくらい残っているか、7割くらいか。この古びた金属、これは父と母の時代のもの。
ここのいえは、父の生まれたいえで、母はもちろん富山に縁はある。もともと母の父は、高岡の戸出の生まれ
である。長男だが、いえを出ている。それで東京の田舎で、母は5人兄弟の真ん中として生まれた。
伯母は比較的近くにいる。この前、何年ぶりかで電話した。叔母は、1年に一回は来るが、私とは二周りはなれて
いる。叔父は、これまた近くだが、歳は叔母よりは上だ。2歳上だといっていた。
叔父は母のことを姉さんと呼び、母は叔父のことをひろちゃんといった。私の名前も、似た様なものである。
母が亡くなったあと、もう一回会っておきたかった、とポツリといった。やはり兄弟なのだな。
こうゆうことを書いていると、さすがにウルウルっとしてくる。
食い物の話。食欲ないけど。それゆえ富山の食い物にまったく興味はない。たまに白いご飯とインスタントの
レトルトカレーで、即席のカレーを食べたいと思う。いまさら鮨などとくに食べたいと思うことはない。たぶん
そこにあっても、一個くらい「にぎり」は食べるかも知れない。
むかし話だった。
米は白い米。ここのいえのむかし話で、ときは昭和で私が学生のとき。一体いつまで親と一緒に来ていたか。
一人で一番初めに来たのは、高校生のときかな。分からない。冒険心はなかった。高校と言うと歩いていって
いる。電車通学が、うらやましくも思えたが、のちに通勤地獄に似たものは5年は経験したので、あんなものは
長い時間経験するものではないな、とも思う。それゆえか、電車にはあまり縁はなかった。面白い電車にも
乗っていない。
父の祖父母は、明治生まれで、てっきり33年だと思っていた。しかし正しくは、35年だった。
私とどれくらい年齢差があるか、はっきりとしない。祖父は、昭和62年に亡くなっている。
で、食べ物の話である。わたしがここの昔のいえに来たのは、豪雪地帯でもある富山なので、多いのは夏だ。
で、夏休みだから、ここに来ることも出来たのだが、何もやらなかったが、食事は三度とった。
若いから何もしなくても腹は経る。朝はご飯と、それと味噌汁と、漬物か、野菜の煮物。
夏で、米にカビが生えないか、これは後々私が経験したことだ。その当時カビなど気にしたこともないが
実際に、そうゆうご飯を見たことはない。これは朝から不思議と一杯するりと入っていく。でも二杯は食べ
なかった。そのとき、祖父がどのくらい食べたか、ただ夜は少なくても二杯は食べていて、ご飯、という
あの独特の言葉のなまりのようなものはいまも覚えている。
板の間である。真っ黒けの板の間、囲炉裏にかまど。ということは毎日か、2日に一回か、ご飯は炊いて
いたのだろう。スギの葉、スンバ、これは風呂だったかな、薪でご飯を炊いていた。最初は新聞紙を燃やし
ていたか。マッチはあった。原始的な道具はそうはなかった、と思うが今考えるとあの時代にあった
ものはもうない。
タンパク質をどうしていたか、これはたまに行商の人が魚やイカを売りに来ていた。たまにではなく、
毎日だったかも知れない。あと、これは不思議だが当時すでに牛乳はとっていた。私に飲めともいった。
その当時の牛乳の味は、あまり記憶にはない。
味噌とかは祖母が作っていた。漬物も同じ。醤油はわからないが、これはむつかしい気がする。
梅干しはもちろん。
野菜は生は少なく、煮物が多く、味は濃い目で、同じものがなくなるまで食べていたと思う。
祖父母とも、長生きをしたほうだと思う。栄養の概念はなかった。
ご先祖様をどのくらい大切にしていたか、これはわからないが、墓掃除は一回だけ祖母といった。
食い物としては、当時は別に不満はなかった。母の作るものはそれはそれでおいしく、祖母の作る
ものは、あるものはものすごくおいしく、でもまずいものはなかった。高級な感じは当時は
持たなかったが、いまはそうゆう食事、メニューは恐らくだれも作ることは出来ないだろう。
お米と野菜と、それと魚介類。程ほどで、和食らしさはあって、精進料理ではなかった。
あの食事を食べることが出来たら、恐らく間違いなくもう少し元気に生きていた。
祖父が亡くなって、すでに父と母はここに帰ってきていたが、母とはなかなかうまくゆかず
これまたよくあることだが、別々に住むようになった。もう祖母もだいぶ高齢になっていて
父は苦労したようだ。が、もちろん父にとって祖母のゆうことは絶対だった。私が米を余っているので
もらいに来たときがある。釜が3、4個、囲炉裏のそばに出ていて、中に白いご飯は入っていた。
みな祖母が炊いたものだろう。父はどうしようもなかったはずだ。捨てるしかないはず。
食べ物の話は、これは楽しいものだが、食欲もないと、思い出だけが脳裏を横切る。
10月の空、朝、日の出前、日の出た後。これは10月6日と、今日8日。
10月6日。
その一。これだけ晴れていると、やはり朝は気温は下がっている。
その二。
その三。
その四。羊雲、さば雲、いわし雲、好きなものを言えばいい。
その五。山は晴れていると撮っているはずだが、画像はないなー。
10月8日、今朝。
その六。これは日が出たあとだが、何しろ午前6時を過ぎないと出ない。
その七。雨の後である。
その八。
その九。
その十。
午前中、雲が多いながら晴れ。気温は上がっていた。風がないので、外も比較的暖か。
雨予報だが、どの程度というところ。