ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

フランツィスク・スカルィナについて

2017-05-08 | ベラルーシ文化
 以前の投稿「スカルィナの詩も日本語になりました」でも少し書いたのですが、ベラルーシの偉人、フランツィスク・スカルィナについて、日本語で検索してもほとんどヒットしないので、このブログでご紹介することにしました。<私のつっこみ入り。(笑)>

 ベラルーシ人の偉人の中ではダントツ1位なのですが、びっくりするほどスカルィナに関する日本語の情報がないです。

 ちなみに、苗字の表記ですが、いろいろあります。ロシア語表記だとスコリナ。
 ここではベラルーシ語表記のスカルィナに統一しておきます。

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 フランツィスク・スカルィナがベラルーシの偉人になったのは、ベラルーシ語の聖書を翻訳、出版したからです。それが今からちょうど500年前。1517年のことです。
 ちなみにロシア語の聖書が出版されたのは、それから約50年後。

<だから、当時はロシアよりベラルーシのほうが「進んでいた」と、以前日本人に話したことがあります。そしたら、「へえええええーーーーー。」と驚かれたので、こっちもびっくりした。そんなに意外なの? 
 その日本人はフランス在住の人でしたが、ヨーロッパの地理とキリスト教の普及の歴史を考えれば、ベラルーシ語の聖書がロシア語の聖書より早い時期に完成した、というのは、当たり前だと私は思うのですが。
 どうも日本人の頭の中では、ロシアが文明国で、ベラルーシはロシアから文明とか文化をもらってばかり、という方向の矢印がイメージされているみたいですね。でも昔はロシアがヨーロッパの辺境国で「遅れていました」・・・が、これはロシア人があほだった、というわけではなく、地理的条件によるものです。今とちがって地表をじわじわ伝って文明とか技術とかが伝来してくるのだから、当然。>

 さて、スカルィナはどのような生涯を送っていたのでしょうか。

 生没年ははっきりしていませんが、生年は1490年ごろ、と考えられています。
 生まれた場所は現在のベラルーシの街、ポーロツク。ポーロツクは、当時はリトアニア大公国の街でしたが、分かりやすく言えば、もっと昔のベラルーシの首都。当時はとても栄えていた都市でした。理由は河のほとりにある町で帆船を使った貿易が盛んだったからです。つまり交通と商業の要所。
 日本で言うと大阪みたいなところです。ポーロツクには海はないですが、バルト海や黒海につながる貿易を行っていました。

 そこの裕福な商人ルカ・スカルィナの息子としてフランツィスクは生まれました。
 父親はかなりやり手の商売人だったらしく、ずる賢いこともやっていたようです。
 でも、父親がお金持ちだったことは、息子のフランツィスクにとっては大きなプラスでした。
 その当時のベラルーシはなんだかんだ言っても、金持ちの子どもに生まれないと教育が受けられなかったのです。平民は字も読めず、キリスト教はすでに入って来ていましたが、聖書を読めるベラルーシ人はほとんどいませんでした。

 ちなみにリトアニア大公国時代 <・・・とあえて言っておきます。これを「ベラルーシがリトアニア大公国に支配されていた時代」と日本語で紹介されているのをたびたび目にするのですが、そもそも支配される『ベラルーシ』という国が当時はありませんでしたので、支配できなかったはず。>、リトアニア人はリトアニア語で会話をし、ベラルーシ人はベラルーシ語で会話をしていました。要するに話し言葉ですね。
 しかし、リトアニア語の公用語、厳密に言うと公式文書の記録に使われる「書き言葉」は、ベラルーシ語でした。
 だからリトアニア人の貴族はベラルーシ語で文章を書いたり、読んだりできていたはず。

 それ以外にも中世ヨーロッパの国の貴族の一般教養であるラテン語を身分の高い方々は勉強していました。
 しかし身分の低いベラルーシ人はベラルーシ語の話し言葉で会話するだけで、書き言葉のほうは分かってなかったのです。
 そんな中、お金持ちの商人の息子に生まれたフランツィスクはポーロツクでラテン語を勉強できる恵まれた環境にありました。もちろんベラルーシ語の書き言葉もばっちり。

 頭がよくて向上心があり、実家がお金持ちのフランツィスクは、ポーランドの古都、クラクフの大学に入学。入学したのは、1504年。卒業したのは2年後の1506年。
<え、生まれたのは1490年とすると、14歳で大学入学、16歳で卒業?! 早すぎない? それとも天才なの? ・・・というわけで、スカルィナの生年は1480年代だと主張する歴史家もいます。>

 そこで、当時のヨーロッパの主要七科目を習得。卒業証書をもらいます。
 さらに5年間この大学の医学部で勉強。医師免許も取得。
 平行してイタリアのパドヴァ大学で試験を受けていました。これは何かと言うと、イタリアへ留学するのは大変なので、勉強はポーランドの大学でしておくけど、イタリアの大学の卒業試験を受けさせてほしい、卒論も書いておくし。で、イタリアの大学の卒業試験をパスしたら、イタリアの大学の卒業証書もください・・・ということだったそうです。

 そのころ、フランツィスクの父親は死去しており、リトアニア大公国の地方都市出身の息子が、イタリアのパドヴァまでてくてく試験を受けに行くのは、資金面で大変だったようです。
 しかも、イタリア人からすると、
「何か聞いたこともないような町の出身で、しかも貴族ではなく商人の息子で、貧乏そうなのが来た。」
と思われていたようです。
 一方、
「こんな遠くからわざわざ試験を受けにやって来るなんて、うちの大学もたいしたもんだ、有名大学っていう証拠だね。」
とも思われていたらしく、試験を受験する許可をスカルィナはもらっています。

 そして1512年、パドヴァ大学医学部の卒業試験に合格。通学はしていませんでしたが、イタリアの大学の卒業証書も取得。
 優秀な医者になることに決めたスカルィナに大学はベレー帽(当時はこれが医者の印だった。)そして、すごく大きい指輪(これも医者の印)を卒業証書とともに贈っています。
<だから、スカルィナの肖像画とか銅像を見ると必ずベレー帽かぶっているのね。>

 ちょうど卒業証書をもらったころ、リトアニア大公国の公子2人が法律を勉強するためにイタリアの大学へ留学に来ました。スカルィナは公子、つまり王子様兄弟とお近づきになることに成功。このつてで後に1520年代はリトアニア大公国のセレブ、つまり貴族のための薬剤師、そして秘書官も務めるという出世をスカルィナはします。

 でも、その前に1517年、<ということは、27歳?> スカルィナはベラルーシ語の聖書を出版します。
 あれ、医者になるはずがどうしたの? と思われますよね。
 どうしてなのか、と言うと、スカルィナは当時のベラルーシ人としては珍しく、高い教育を受けることに恵まれ、いろんな外国にも行って、さまざまなことを見ていました。
 特にイタリアに行った後は、自分の故郷を比べて愕然としたと思います。そのころイタリアではルネサンスの時代。ベラルーシ(と今呼ばれている地域)はキリスト教が入ってきていたものの、特に農村部ではまだまじないや呪術などが幅をきかせ、同時に魔女狩りなども行われていた「遅れていた」国、聖書が読めないから、キリスト教の教義などもよく理解できていない者も多く、もちろん文学なんてものも発達しない。こう言ったら何だけど、スカルィナの目から見ると身分の低い平民のベラルーシ人は「暗愚」「文盲」「開かれていない」というイメージ。
「早く目を覚ませー。賢くなってくれー。世界は広いんだー。」
とベラルーシ人に言いたくなったにちがいありません。
 あと、自分がせっかく外国で最先端の医療を学んで来ても、故郷の病人を科学的に治そうとしている横から、
「いや、おまじないで治すから、医者なんかいらん。」
と治療させてもらえない。そしてまじないが効かず、病人が死亡・・・という光景に何回も出会ったにちがいありません。
「こういう原始的な考えが平民の間にしみついているんだったら、自分が医者をする余地がない。基本的に間違ってるから、そこから改善しないと話にならん。」
と思ったことでしょう。

 そして、そのためにはどうしたらいいのか考えた結果、聖書を翻訳してたくさん印刷することを思いついた、というわけです。
「これで暗愚な平民の目も開くんじゃないかな。文明開化だ!」

 と言っても、当時のベラルーシには印刷所はもちろん、印刷技術そのものがなかったので、チェコのプラハの活版印刷所で、初のベラルーシ語の書籍を印刷することにしました。これは最初に活字になったキリル文字の本でもあります。
 スカリナは聖書の中でも、旧約聖書の詩篇をチェコ語からベラルーシ語に自ら翻訳して出版しましたが、これで、リトアニア大公国のリトアニア人貴族たちも読めるようになる、と思ってベラルーシ語に訳したわけです。

<厳密に言うと、現代で使われているベラルーシ語とは微妙にちがう古いスラブ教会語に訳しています。そして、元になったチェコ語の聖書は、チェコではなく、イタリアのベニスで出版されていました。何か複雑ですけど、チェコ語もできたスカルィナさん、コスモポリタンだったのね。>

 聖書って長いですからね、その後もいくつかの部分に分けて、スカルィナは聖書をベラルーシ語に訳して次々と出版。3年間で23種類に分けた聖書を作りますが、活版印刷なので、手書き写本とちがってたくさん印刷できるものの、完成品は馬車でチェコからリトアニア大公国へ運ぶので、大変だったようです。
 
 しかも、そのころのベラルーシは、ポーランドの支配下だった地域もあり、勢力を広げたいポーランド、つまりカトリック教徒で、ポーランド語人口を増やしたいと思っている人々から、
「ベラルーシ人はベラルーシ語なんかよりポーランド語の本でも読んでポーランド語を勉強しろ。」
あるいは
「ベラルーシ人は暗愚なままでいいんだ。そのほうがポーランド人が支配しやすい。」
と言われており、当然の事ながら、ベラルーシ語の聖書をベラルーシ人が読むようになるのは嫌がられていました。
 こんな状況下、国境を越えて、馬車でえっちらおっちらポーランドを通過してベラルーシ語の聖書をベラルーシへ(厳密にはリトアニア大公国へ)運ぼうとすると、ポーランドの関所で咎められ、せっかく印刷した聖書を没収、はては焼き捨てられることもありました。

 さて、スカルィナは出版した聖書に、自分が考案した太陽と月が重なったマーク(ブランドのロゴのようなもの。)を印刷しており、これが今でもベラルーシにおける、啓蒙活動、文明開化のシンボルマークになっています。
 どうしてこんなマークなのかと言うと、スカルィナが生まれたときに日食があったので、スカルィナは日食と言う現象に興味があったらしい。で、その頃日食があった年を計算したら、1490年に日食があったはずなので、生年が1490年説の理由になっているとか、いないとか聞いたことがありますが、実際には、太陽と月が合わさったマークは「人間の肉体的、精神的癒し」という意味があったので、スカルィナは採用したようです。
<でも、それでも「なんで太陽と月が人間の肉体的、精神的癒しの意味になるのか。」とつっこみを入れたくなりますが。>

 聖書にはたくさんの挿絵も入っており、かなり豪華な作り。やっぱりキリスト教を敬するため、そしてベラルーシ語の聖書だって立派なんですよ、と世の中に知らしめるためスカルィナさんは努力したようです。

 自分でも相当がんばったと思っていたのか、聖書の中に自分の肖像画まで印刷。
「私、フランツィスク・スカルィナ、ポーロツクの息子(出身)、専門は医者が古いスラブ語に旧約聖書の詩篇を訳しましたよ。」という有名な序文も挿入しています。
 そんなわけで、この聖書は「スカルィナの聖書」と呼ばれておいて、ベラルーシ人の間では別格扱い。オリジナルはベラルーシ国立図書館で厳重に保管されています。

 この聖書のおかげで、まずベラルーシ語で聖書を読む人が増えた、ベラルーシ地域におけるキリスト教の布教に役立っただけではなく、書き言葉としてのベラルーシ語の普及、発展にもつながりました。
 つまり、ベラルーシ人にとっては、スカルィナはお医者さん、ではなく、ベラルーシ語、というベラルーシ民族の文化のレベルを上げて、さらには宗教的にも文明的にもベラルーシ民族を啓蒙した偉大な人物、という位置づけです。

 ありがとう、スカルィナさん!
 一方で、当時書籍を出版するのは、ほとんど手作業でしたから、大変手間隙がかかり、本というものはコストがかかる物でした。
 自分のお金で聖書を印刷することができなかったスカルィナは、聖書出版のためにたくさんのスポンサーを見つけていました。
 その中にはリトアニア大公国の貴族も名を連ねていましたから、スカルィナがベラルーシ語の聖書を出版することにリトアニア大公国も意義を見出していたことになります。

 1920年には、チェコのプラハの印刷所で使われていた活版印刷機、その他もろもろの用具をリトアニア大公国の首都、ビリノ(今のビリニュス)に持ってきて、ついにリトアニア大公国初の印刷所を設立。
 このようにリトアニア大公国というと、リトアニア人の国、というイメージですが、実際には数多くのベラルーシ人が活躍、国家の繁栄に寄与していました。

 こうしてスカルィナは今度はリトアニア大公国で、聖書の翻訳と出版を続けつつ、薬剤師と秘書官の仕事をしていました。
 しかし1925年から次々とスポンサーが死去。
 スカルィナの出版作業はスピードが落ちていきます。

 ちなみに、スカルィナは、スポンサーの一人が死んだ後、その未亡人と結婚しています。
<そのとき35歳(?) 私の頭の中では、スポンサーつまりお金持ちが死亡 → その妻は多くの遺産を相続 → お金持ちの未亡人 → スカルィナ求婚 → 妻のおかげでスカルィナはお金持ちに → 逆玉の輿 → 「私、フランツィスク・スカルィナはうまくやりましたあ!」・・・という図が浮かんだのですが、うちの中学生の娘にこれを話すと
「中世の時代だよ・・・。夫が死ぬ前から、その奥さんとスカルィナは愛人関係だったんだって・・・。」
とどろどろなことを言っていました。敬虔なキリスト教信者で、黙々と聖書を訳してた人が不倫なんかするか?!>

 スカルィナの妻は、運悪く結婚して4年後に火事のため、幼い次男といっしょに死んでしまいます。
  
 そのころ、ドイツのプロイセン公アルブレヒトは、出版所をケーニヒスベルグ(今のカリーニングラード)に設立するため、スカルィナに協力を要請。スカルィナは単身、ドイツへ渡りました。

 ところが、スカルィナのお兄さん、イワンが借金を残したまま死亡。お金を貸していた人たちは、弟が代わりに借金を返せ、と迫ります。スカルィナは急いでビリニュス(リトアニア)に戻りますが、そのとき、どういうわけかプロイセン(ドイツ)でいっしょに働いていた印刷工と、(たぶん友だちになった)医者を連れて行きます。
 それを知ったプロイセン公アルブレヒトは激怒。「人泥棒!」というわけです。優秀な人材はいつの時代でも貴重。これが1530年前後の出来事。
<このあたり、ベラルーシの国語の教科書には載らないスカルィナの黒歴史。>

 さて、お兄さんの借金を代わりに返せと言われたスカルィナは、「それは私が払うものではない。」と拒否。お金を貸していた人たちは、リトアニア大公に直訴。スカルィナは牢に放り込まれます。<このあたりも教科書には載らない黒歴史。>
 結局兄のイワンの息子、ロマンがリトアニア大公に、
「父の借金は息子の私が返しますので、叔父さんを牢から出してください。」
と願い出たのが聞き入れられ、スカルィナは釈放されます。
<当時の法律では死んだ親の借金は家督を継いだ子どもが返すことになっていて、兄弟に返済義務はなかった。つまりスカルィナは悪くない。>

 1934年、スカルィナは自分が出版した書籍を持ってモスクワ大公国(正教の国)へ行きますが、この本はカトリックの教えが書かれているとされ、焼き捨てられてしまいます。
 ロシア人はロシア人でカトリック勢力が近づいてくるのを警戒していました。
 
 スカルィナはその翌年、最初の聖書を出版した思い出のプラハへ行きます。そこでチェコの国王に雇われ、宮廷付きの庭師となりました。そしてプラハ城の庭園で死ぬまでおよそ20年間働きました。

「歴史初のベラルーシ語の聖書を翻訳・出版した偉人が、庭師として異国で死ぬってどうよ?!」
と憤慨するベラルーシ人も私の周りにはいるけれど、実際には、単なる庭師ではなく、薬草を育てて、薬を作ったり実験したり、王様に薬を処方したりして、もともと医者だったスカルィナさんからすれば、理解あるチェコの国王のお膝元で研究三昧の楽しい生活を送っていたんじゃないかなあ、と私は思います。

 スカルィナの没年ははっきりしていませんが、1552年には死去していたことは間違いないようです。というのも、プラハで死んだ後、遺産を相続するようにと言われて、長男のシメオンが(おそらくリトアニアから)プラハにやってきて、相続税を支払った記録が残っているからです。それが1552年のこと。
 ちなみにシメオンは父の跡を継いで、医者になっています。

 推定年齢62歳で死去したスカルィナですが、埋葬されたのは故郷のベラルーシではなく、聖書を出版したチェコのプラハだったというのが、運命ですね。スカルィナの墓の場所は不明です。
 宮廷庭師の扱いで埋葬されていますし、息子はチェコに住んでいなかったはずなので、お墓の守りをする人がいないのですから、ベラルーシ人のスカルィナの墓はチェコの大地に戻ったのだと考えられます。

 生まれ故郷への思慕を歌った詩を書いていたスカルィナさんなので、かわいそうな感じもしますが、今ではベラルーシを代表する偉人。今年はスカルィナの聖書が印刷されてちょうど500年ということで、国をあげて祝っています。
 ベラルーシではベラルーシのために尽力した人に与える国家最高の勲章として、スカルィナ勲章というものが設定され、日本人の間で有名なところでは、医師で松本市長の菅谷昭さんが受賞しています。<日本語訳では「フランシスコ・スカリナー勲章」と表記されるみたいですが。> 
 ・・・というわけで、日本人のみなさんが「縁もゆかりも接点もないわ」と思っていたベラルーシの偉人、フランツィスク・スカルィナについて、今回日本語で知っていただければ・・・と思います。

 最後にスカルィナが残した言葉(ことわざ)を日本語に訳しておきます。
「人を落とそうとして落とし穴を掘るな。自分がそこへ落っこちる。」
<スカルィナの人生を振り返った後にこのことわざを読むと、含蓄あるように思えてきますね・・・。>