ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ソ連撤退20年

2009-02-18 | ベラルーシ生活
 2009年2月15日、ソ連がアフガニスタンから完全撤退して20年となりました。日本での報道はこちらです。
「米は教訓学べ」 元ソ連兵 アフガン戦争誤り ソ連撤退20年(産経新聞) - goo ニュース


【モスクワ=佐藤貴生】ソ連がアフガニスタンから完全撤退して20年となった。約10年に及ぶ駐留で総兵力60万人以上を投入、多大な出費を強いられたアフガン侵攻はソ連社会に断絶と国力の衰退をもたらし、結果としてソ連崩壊を早める役割を果たした。かつてのアフガンを知る元兵士の間では、かの地で復活したイスラム原理主義勢力タリバンの掃討作戦を進める米国に対し、「米国はアフガンで勝利することはできない。ソ連の教訓を学ぶべきだ」といった声も聞かれる。

 アフガン撤退から20周年にあたる15日には、ロシア国内のほかウクライナ、ベラルーシなど旧ソ連各地で記念式典が行われた。戦闘ではソ連軍兵士1万5000人以上が死亡したとされ、メドべージェフ露大統領は「母国の目的に命をささげた人々すべてのことを忘れない」などと弔意を述べた。

 ロシアの主要紙はこのニュースに関し、論評などはほとんど掲載していない。有力週刊誌ブラスチ最新号は、祖国に戻っても社会に適応できなかった「アフガンツィ」(アフガン帰還兵)と呼ばれる元兵士らの戦後を伝える特集記事を掲載。現地でイスラム教に改宗、結婚して家族を持った者もいるなど、「ソ連のベトナム戦争」として社会に大きな混乱をもたらした侵攻の実像を伝えている。

 「全ロシア世論調査センター」が最近行った世論調査結果によると、国民の47%が「侵攻は無責任な指導陣による政治的冒険」だったと回答した。また、58%は「侵攻する理由はなかった」と考えている。

 当時ソ連軍中将だったルスラン・アウシェフ元イングーシ共和国大統領はロイター通信に、「私たちの戦略はおそらく間違っていた。アフガンに兵を送るべきではなかった。安定を願うのなら、彼ら自身が国を作る機会を与えるべきだ」とコメントした。

 国土の大半が山岳地帯で、熱暑と酷寒から逃れる場所もないアフガンで、ソ連軍は地の利を熟知するゲリラに苦しめられた。そのアフガンでの「テロとの戦い」を、オバマ米政権は最重要課題のひとつに挙げ、夏までに約1万人を増派する方針とされる。

 こうした米国の姿勢に、フランス通信(AFP)は、「彼ら(米軍)は決して勝つことはできない。遅くなる前に行動すべきだ。(米軍はソ連軍の最大の教訓として)敗北を受け入れるべきだ」とするロシアの退役軍人の見方を伝えている。


・・・・・・・

 2月15日、ベラルーシでも記念式典がミンスク市内のアフガニスタン戦死者慰霊の島で行われました。
 アフガニスタン戦死者慰霊の島についてはHP「ベラルーシの部屋」内でご紹介しています。こちらをどうぞ。
http://belapakoi.s1.xrea.com/gh/city/minsk/menu.html

 2月15日には雪が降りしきる中、大勢の関係者が式典に参加しました。島にかけられている橋から人が落っこちそうなほど、ぎゅうぎゅう詰めになっていました。

 ベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作「アフガン帰還兵の証言 」などについてはこちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/9cf3f3f7eeb4ff96754527f70ff3c690


 ここから先はS夫の双子のお兄さんの話になります。お兄さんはアフガン帰還兵です。この間二人そろって50歳の誕生日を迎えました。
 2月15日、お兄さんは アフガニスタン戦死者慰霊の島での記念式典には行きませんでしたが、記念メダルの授与式には出席しました。
 何でも町ことに「うちの町内にはこれだけのアフガン帰還兵がいる。」という名簿があるそうです。
 数日前にはお兄さんの家に記念メダル授与式への案内が郵便で届いていたので、15日当日、役所に行ったそうです。
 すると18人ばかりの帰還兵が集まっていました。(私、お兄さんとは同じ町内に住んでいるのですが、18人というのは少なすぎますね。呼ばれても来なかった人のほうが多かったのかも。)
 すると、役所のお偉いさんが、「皆さんの勇気ある行動に敬意を表し・・・」とかおったお決まりの祝辞を述べ、(お兄さんは半分寝ながら聞いていたそうですが。)記念メダルがそれぞれに授与されました。それで散会。

 その後、お兄さんからその記念メダルを見せてもらいました。表にアフガニスタン戦死者慰霊の島の鐘楼がデザインされており、「撤退20周年記念」の文字がありました。
 しかしお兄さんが言うには
「表のデザインはだめだ。裏のほうだよ、裏。」
 メダルの裏側にはアフガニスタンの家並み、そしてその上空にはヘリコプター、道路には戦車がデザインされていました。

 お兄さんは高校卒業後、兵役義務についていました。S夫も双子なので、全く同じ時期に同じ経歴を歩んでいます。
 その後職業軍人となり、軍用飛行機の整備士をしていました。
 その頃お兄さんは結婚し、子どもも生まれたのですが、当時のベラルーシは慢性的な住宅不足が続いており、お兄さんの両親と同居していました。
 しかしよくある話ですが、姑と嫁の折り合いが悪い。別居したいと考えましたが、家がない・・・という状況でした。

 ちょうどその頃、
「アフガンに行けば、3DKのアパートがもらえる。」
という話が軍の中で持ち上がり、お兄さんはそれに飛びついてしまったのです。
 アフガンに行きたくなかったのに行かされた若い兵士もたくさんいますが、こういう甘い話に心動かされて、自らアフガンに行くことを希望した人もいっぱいいたのです。
 またこのお兄さんの世代の父親は戦中派なので、(しかも戦勝国。)親から勇ましい話を子どものときから聞いていて、戦争に行くのにもあまり抵抗がない人もたくさんいたのではないでしょうか。
 一方で、お兄さんのお母さんは、日本で言うところのお百度参りのようなことをしていたそうです。

 アフガンではお兄さんがいた部隊(軍用機の整備)にいた半分の人が死んでしまいました。
 お兄さんはマラリアにかかり、重症となったので、ミンスクの病院に送られました。
 知らせを受けて妻であるお義姉さんが病院へ行くと、マラリアにかかって帰還した兵士がずらっと並んだベッドに寝かされている。お兄さんはと言えば高熱で意識不明の状態でした。
 そのお兄さんの口元に何やら白い粉がふりかけてある・・・。これは熱冷ましの薬だったのです。定期的に看護師が病室にやってきて、意識不明の患者の口元に粉薬をパラパラふりかけて、はい、投薬完了。
 それを見たお義姉さんはぶち切れて、粉薬を水といっしょに飲ませないとは、何事か、いや重症で意識もないような患者に粉薬、というのがめちゃくちゃで、これでは治療をしているとは言えず、死ねと言っているようなものだ、と看護師や医者に言って回ったそうです。

 お兄さんは幸い、マラリアからは回復しましたが、後遺症で手が震えたり、病気がちになったり、アルコール依存症になったり、治ったり、を繰り返しています。
 お約束の3DKアパートはちゃんと支給され、現在でも家族で暮らしています。今では結婚した娘夫婦が同居していて「狭い。」とか文句を言っているんですが・・・。
 アフガン帰還兵に対する差別が存在すると、よく言われますが、少なくともお兄さんの周りにはありません。 
 記念メダルを見せるお兄さんにS夫は
「でも、行かされたわけじゃなくて、自分で志願したんだろ? 親戚全員が反対したのにさ・・・。」
と冷たいです。
 しかし、アフガニスタンから還ってきたお兄さんにそこで何を見たのか、親戚の誰もが、「怖くてきけない・・・。」と言っています。
 お兄さんもいまだに、アフガニスタンでの自分の体験談を、自分から話したことはほとんどありません。自分の父親は第2次世界大戦中の話を、今でも自慢していますが・・・。この世代のギャップ、ベラルーシ中になるのだろうな、と思います。