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相手の力を引き出しながら勝つ

『プロレスという生き方』の著者・三田佐代子さんは、プロレスの本質について次のように語っている。

「プロレスは相手があってはじめて成り立つ競技だ。相手が全力でぶつかってくる技を逃げずに受け止め、怪我をしないように受け身を取る。相手の良さを存分に引き出した上で、凌駕する。ただ自分のやりたいことだけをやって早く試合を終わらせればそれはいいレスラーなのか、いい試合なのかといったら全然違う。それがプロレスの面白さであり奥深さだ」(p.44)

ただ勝てばよいというものではなく、その勝ち方が問題となる。相手の力を引き出しながら勝たなければならない、ということだ。

敵を尊重しながら戦う」というプロレスの考え方に魅力を感じた。
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『プロレスという生き方』(読書メモ)

三田佐代子『プロレスという生き方』中公新書クラレ

プロレス専門チャンネルのキャスター三田さんがまとめたプロレス論。本書を読み、プロレスの奥深さを感じることができた。

一番衝撃を受けたのは「飯伏幸太vsヨシヒコ戦」。飯伏さんはDDTというプロレス団体の人気レスラーであり、ヨシヒコとはなんと人形である。

実際の闘いをユーチューブで見たのだが、ちゃんとプロレスになっている。プロレス界の番人と呼ばれる名レフリー・和田京平氏は次のように述べている。

「あれも面白いよね。でもあれはプロレスの原点だよね」(p.189)

相手が誰であろうと、相手の力を引き出し、ストーリーのある戦いを構築していくところにプロレスの本質がある。このことは、プロレスにとどまらず、友人や家族との関係にも共通するのではないか、と感じた。



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わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば

わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい
(ヨハネによる福音書8章54節)


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自分は何者であるのか?

『おかしな男 渥美清』(ちくま文庫)の中から。

著者の小林信彦氏のところに、渥美清さんから電話があった。そのときのやり取りが以下の通り。

「その時、ぼくは、あなた方コメディアンは・・・・・という言い方をした。
電話の向う側に、暗い沈黙があった。
間を置いて、
おれは自分をコメディアンだと思っていないんだよ
(中略)
じゃ、何なんだ、と言い返したかった。
役者だと思っているんだ、自分では
あ、そうか、とすぐにわかった。
Comedianというのはぼくにとって最上級の誉め言葉なのだが、渥美清にとってはそうではないらしい。カタカナのコメディアンは彼にとって蔑称なのである。」(p.124-125)

芸人ではなく、役者。そう思われたかった渥美さん。

自分のアイデンティティをどこに求めるかは本人次第である。だから、周りがとやかく言う筋合いはない。しかし、この箇所を読んで、なんとなく寂しい気がした

改めて「自分は何者であるのか?」について考えさせられた。


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『おかしな男 渥美清』(読書メモ)

小林信彦『おかしな男 渥美清』ちくま文庫

以前、色川武大さんが『なつかしい芸人たち』の中で渥美清さんに触れて次のように述べていた。

「しかし、私も、彼が今日のような大きな存在になるとは少しも思わなかった。むしろマイナーの中の光った存在になってくれ、と願っていたのだった」

これを読み、僕は「もしかしたら渥美さんも、そうした道を歩みたかったのかもしれない」と書いた。

しかし、本書を読んで、それが大きな間違いであることがわかった。

著者の小林さんは、若いころから渥美さんと交流がある作家・編集者。この本を読むと、おもいっきりリアルな渥美清が感じられて、ある意味ショックである。なぜなら、「男はつらいよ」の寅さんとはかなりイメージが違うからである。

渥美さんは、メジャー志向、出世欲があり、個人主義で、猜疑心が強く、他人の評判を気にする人であったようだ。

寅さんと全く違うかというとそうではなく、言うなれば「ブラック寅さん」という感じか。

はじめはギャップが大きいので戸惑ってしまうが、渥美さんの生き方は、それはそれで迫力がある。読み終わって感じることは、「メジャーで生きるのがはたして幸せなことなのだろうか?」ということ。

色川さんが言うように、渥美さんはマイナーの中で光る存在であったほうがよかったのかもしれない、と思った。



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主の御心が行われますように

主の御心が行われますように
(使徒言行録21章14節)


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『日本人と日本人と日本文化』(中公文庫)の中で、司馬遼太郎さんは「禅」に触れている。

「日本人の場合は、いろんな宗教が入ってきたわけですが、日本人にいちばんうまく適合した宗教は、これもほんとうの禅とどれだけ関係があるかどうかは別として、私は禅だと思います。禅は日本人とウマが合ったという感じです。私はいまのアメリカの場合は知りませんが、日本でも直観的なところとか、煩瑣な理屈がないということがひじょうによかったんでしょうね」(p.57)

まえに、横尾忠則さんの『坐禅は心の安楽死:ぼくの坐禅修行記』を読んだときにも、日本人は禅の影響を受けていると感じた。

他力本願のはずの仏教であるが、禅だけは自力でなんとかしようとしているからだ。禅寺のお坊さんのしごきも、戦前の軍隊や体育会部活のしごきととてもよく似ている。

日本には「自分で考えろ!」「つべこべ言わずにやれ!」「屁理屈いうな!」といった風習があるような気がするが、これも禅の影響ではないだろうか。
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『日本人と日本文化』(読書メモ)

司馬遼太郎、ドナルド・キーン『日本人と日本文化』中公文庫

日本の歴史や文化をよく知る司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談である。

微妙に異なる二人の見解がぶつかり、新たな発見がもたらされている点が興味深い。

その一つが、仏教・儒教・神道の関係。

儒教が日本文化の基盤となっていると主張するキーンさんに対し、司馬さんは、仏教でも儒教でもなく、神道が日本人のベースにあるという。

「私の結論から言いますと、日本人というのはやっぱり神道ですね。非常に古い形の神道、神道ということばもなかったころの神道というものが、いまだにわれわれのなかにあるのじゃないか。(中略)前に私がお皿という比喩で言いたかったのもこのことなのですが、一つの神道的な空間というものが日本人にあって、その上に仏教がやってきたり、儒教がやってきたりするけれども、神道的な空間だけは揺るがないという感じじゃないでしょうか」(p.203-204)

僕も司馬さんの意見に賛成である。

仏教や儒教は確かにわれわれの中に沁み込んでいるけれども、それが中心かと言われると違うような気がする。何でも受け入れてしまい、自分たちなりに消化する日本人の底には「神道というお皿」がある、という考えがとてもフィットする。

理論化された宗教ではなく、原始的な宗教が日本文化の基盤にあると感じた。



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あなたの命令に従う道を見分けさせてください

あなたの命令に従う道を見分けさせてください
(詩編119章27節)

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女房は家そのもの

蛭子能収さん著『ヘタウマな愛』(新潮社)の中で印象的だったのは、次の箇所。

俺にとって、女房は家そのものだった。
戻るところがあるから、寄り道ができる。
灯りを頼りに、迷わず帰れる。
女房は、そんな存在だった。
」(p.109)

これは、日本のお父さんにかなり共通している心情ではないか(自分も含めて)。

ある意味、奥さんに母親を求めているのかもしれない。

「これでいいのか?」と思う反面、これが日本の文化なのかな、とも感じた。

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