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すなおな感情、はっきりとした思考、かんたんな言葉

『飛ぶ教室』の訳者・丘沢静也さんは、解説においてケストナーを次のように評している。

「「すなおな感情、はっきりとした思考、かんたんな言葉」にこだわった。言葉の綱渡りや、ものごとの神秘化を嫌った。深さよりは浅さを、鋭さよりは平凡を、曖昧さよりは明快さを大切にした。軽いジャブをくりだした。カフカのように日常のなかに非日常を見ることはなく、日常的なものを日常的に見た」(p.224)

『飛ぶ教室』という小説は、まさにこのような作品である。

しかし、日常の出来事を素直に簡単な言葉で語っているにもかかわらず、深い人間の本質をも描いているケストナー。さすがである。
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『飛ぶ教室』(読書メモ)

ケストナー(丘沢静也訳)『飛ぶ教室』光文社

3年前くらいに買ったのだが、読む気がしなくて積んでおいた本の中の一冊。

舞台はドイツの寄宿学校。少年たちのやりとりや、先生との交流が描かれており、前半はよくある学園ものなのだが、後半になると感動の嵐に巻き込まれる(20回くらい泣きそうになった)。

人間、友情、家族とはどうあるべきかについて教えられる名作である。

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わたしたちは自らの道を探し求めて主に立ち帰ろう

わたしたちは自らの道を探し求めて主に立ち帰ろう
(哀歌3章40節)

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私的間主観性

木村敏先生による『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫)の中でインパクトがあったのは、「間主観性」という概念。

個人の見方や感じ方を主観性と呼ぶが、この主観性は人によって違う。しかし、ある現象の見方・感じ方が人によってバラバラだと、集団や組織の活動が不可能になる。木村先生は次のように述べている。

「それぞれの個人が周囲の人たちからかけ離れた自分だけの独善的な「主観」を振り回していたら、科学的な真理の認識はおろか、個人どうしの相互理解も不可能になるでしょう。また、めいめいの「主体的」な行動がどこかで共通の志向性によって統一されているのでなかったら、社会の秩序などは成立しません。わたしたちがそれぞれの個性をもった個人でありながら、認識の面でも行動の面でも他人たちと共通の基盤に立ちうるのは、めいめいの主観/主体をひとつにまとめて客観性を保証する「間主観性」のおかげだ、というわけです」(p.24)

ちなみに、この間主観性には、「公共的」なものと「私的」なものの2種類あるという。

公共的間主観性とは、一定の教育や訓練を受ければ、その一員になれる公共的な認識や行動であるのに対し、私的間主観性は、親密な関係性にある者同士が感じる主観性である。

「たとえば痛みの感覚、喜びや悲しみの感情などはとりあえず純粋にその当人だけにしか感じられない、私的な主観的体験ですが、これがごく親密な―「共生的な」―関係にある人どうしのあいだでは完全に共有されることがあります。子どもの怪我を目撃した母親が自身激しい痛みを感じるとか、親しい人たちのあいだでは喜びや悲しみが「伝染」するということは、だれでも知っている事実です」(p.24-25)

いわゆる「共感」は、私的間主観性が存在するがゆえに可能になるのだろう。

チームや組織を強くする上で、私的間主観性を育てることが欠かせない、といえるかもしれない。


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1日8時間が限界

オリックスグループCEOの井上亮氏は、入社以来、定時退社しなかったことは3回だけだという。

なぜか?

「リース事業は、どうリスクを軽減し、利ざやを稼ぐか。大まかな契約モデルはありますが、細かな条件は案件ごとに違います。創造性とアイデアの勝負です。長い時間働いた分、成果が上がるわけではありません。脳をフル稼働していれば1日に働けるのは8時間が限界でしょう。定時退社は生産性を高めるための心得でした」(日本経済新聞2017年6月19日, p.25)

「脳をフル稼働していれば1日8時間が限界」という言葉が刺さった。

時間を短くする努力より、いかに集中するかを考えることが大切になる、といえる。



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あなたがたに平和があるように

あなたがたに平和があるように
(ヨハネによる福音書20章19節)

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『からだ・こころ・生命』(読書メモ)

木村敏『からだ・こころ・生命』講談社学術文庫

精神科医として京都大学で教授をされていた木村敏氏は哲学者でもある。その木村先生の講演録が本書である。

木村先生いわく、「各個体は、集団の構成員として集団的な主体性を生きるのと同時に、各自の個別的主体性をも生きている(p.43-44)」という。

だから、「家族、友人、強い思想的、宗教的、政治的なきずなで結ばれた同志たちからなる「われわれ」集団では、それぞれの個人は自分自身が生きることそれ自体を通じて、集団全体の生命を分有している(p.87)」のだ。

次の箇所が心に残った。

「仲間のだれかが死んだとき、それはたんにその人が死んだというだけのことではなく、その集団全体の生命が ということはその集団を構成しているメンバー一人ひとりの生が それによって痛切な変化をこうむるということなのです。そこでは死は死んでゆく個人の出来事ではなくなって、仲間たち全員に分有される、この上なくアクチュアルな出来事になります。「死の連帯性」という言いかたをしてもよいでしょう」(p.87-88)

生命には、個人としての生命だけでなく、集団としての生命もある、という考え方に感銘を受けた。



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ヨーロッパ文化の基盤

歴史家ジャック・ル・ゴフによれば、「ヨーロッパの基盤は、古代ギリシャ文明」だが、それを広めたのはローマ帝国である。

ギリシアの遺産はローマ人によって広まりました。ローマ人はイベリア半島、ガリア、ブリタニア(大ブリテン島)、ゲルマニア西部、現在のハンガリーとギリシアのあいだにある国々を征服しました」(p.46)

これらの国々はちょうど現在のヨーロッパと重なる。

ギリシャ、ローマ、キリスト教。これらがミックスされたものがヨーロッパ的な文化なのだろう。

出所:ジャック・ル・コフ(前田耕作監訳・川崎万理訳)『子どもたちに語るヨーロッパ史』ちくま学芸文庫

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あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない

あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない
(申命記8章17節)

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『子どもたちに語るヨーロッパ史』(読書メモ)

ジャック・ル・コフ(前田耕作監訳・川崎万理訳)『子どもたちに語るヨーロッパ史』ちくま学芸文庫

歴史とは何なのか?なんのために歴史を学ぶのか?

著者のコフは言う。

「歴史は担うべき重荷でも、暴力を正当化する危険な助言者でもありません。歴史は時代に真理をもたらし、進歩に役立つものであるべきなのです」(p.115)

「歴史は公正な記憶をさしだすためにあり、そうした記憶こそが過去を通してみなさんの現在と未来を照らし出すのだということを」(p.147-148)

つまり、歴史は真理や事実を知り、良き未来をつくるためにあるということだ。

本書は、ヨーロッパというものを造った中世に焦点を当て、その光と闇を描き出している。ただ、この本を読んで一番印象に残ったのは、ヨーロッパの基盤となっているのが、古代ギリシャ文明だということ。

「哲学者は神々を崇拝していたにもかかわらず、人間を宇宙の中心に置きました。彼らはヨーロッパ人に、徳を深め人間の可能性を高めること、すなわち人間中心主義者(ユマニスト)であることを教えました。なによりも神を信仰する人間であるようにとキリスト教がヨーロッパ人に説いたときも、ヨーロッパ人はギリシャ人の知恵の教訓、すなわち理性と批判的精神の大切さを忘れませんでした」(p.44-45)

「ヨーロッパ=キリスト教の国々」というイメージがあるが、今まで、どこかキリスト教の教えと異なる考え方が根強くあるように感じていたが、本書を読み、その理由がわかった。


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