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『丁稚のすすめ』(読書メモ)

秋山利輝『丁稚のすすめ:夢を実現できる、日本伝統の働き方』幻冬舎

入社したら、男も女も丸坊主。朝5時に起きて、みんなでマラソン。1日の睡眠時間は3~4時間。携帯電話禁止で、家族と会えるのは盆と正月のみ。褒めて伸ばすのではなく、叱って伸ばす。

まさに丁稚生活である。

家具職人を育てる秋山木工では、この生活を4年間耐え抜けば職人になれる。職人を4年勤めると、他の企業に就職するか独立するというルールがある。

この会社はよくテレビで報道されるので、知っている人も多いとは思うが、僕も初めて観たときには「やりすぎじゃないか」と感じた。社長の秋山さんもかなり「濃い人」なので、拒絶反応を示す人もいるかもしれない。

ただ、本書を読むと、秋山木工の徒弟制度は、かなり考えられていることがわかる。

第1に、徹底的に採用にこだわる点。倍率10倍を超える志望者の中から候補者を絞り込み、最終試験は両親との面接。実家を訪問して昼ごはんを食べさせてもらうという。その時、出前が出たら即面接中止。手料理でもてなす気持ちがない両親の子供は採用しないらしい。

第2の特徴は、徹底した内省とフィードバックの仕組み。丁稚は1日が終わるとその日の出来事をスケッチブックに書き込む。注目したいのは、そのあと、先輩全員がその振り返りに対してコメントすること。さらに、スケッチブックを両親に送り、定期的にコメントを書き込んでもらう。そして、職場ではノートの朗読会が開かれ、皆で涙する。

第3に、年に1回、丁稚は木工展で自分の作品を発表する。これは凄いと思った。丁稚というとガマンガマンの日々を送るのが普通だが、自分を表現する場が与えられているのだ。さらに、技能オリンピックにも出場するので、丁稚や職人のモチベーションも上がる。

このように、秋山木工は、伝統的な人材育成の方法に加えて、学習のメカニズムを合理的に取り入れているところが一味違う。

伝統を継承するだけでなく、そこに最新の知恵を盛り込むことで、日本ならではの人材育成が可能になると思った。


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知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げる

知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げる
(コリント人への手紙Ⅰ・8章1節)


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『イエスマン』(映画メモ)

ジム・キャリー主演『イエスマン』(ペイトン・リード監督)

銀行に勤めるカールは、離婚したばかりで、何に対しても否定的。うその理由で親友の結婚式に出席せず、銀行に来る客の融資の依頼も片っ端から断る。あらゆることにたいして「No!」という「ノーマン」だった。

それがある日、「YESは人生の成功の鍵」がキャッチフレーズの集会に参加してから、何に対してもYESと答えることを決意するカール。友達の誘いはすべて受け、銀行の融資もすべてにOKを出し、誘われた韓国語講座も受講する。

カールはどうなったのか?

友達の輪は広がり、職場では役員に出世し、素敵な恋人ができて、急に人生がバラ色になったのだ。

さすがにすべてにYESとは言えないが、人生で起こることすべてにポジティブに反応することは大事なことだと思った。

この映画を見て思い出したのが、バルセロナオリンピック400メートルで、日本人として60年ぶりのファイナリストになった高野進氏のモットー。

彼は、これまでの人生において、ほとんど自分で決めておらず、周囲の勧めに応じて、肯定的な無抵抗を貫き通してきたという。高野氏はこれを「ポジティブ・ノンレジスタンス(肯定的な無抵抗)」と呼んでいる。

すべてにYESと答えることは難しいが、起こることを「肯定的」に受け止めると、未来が開けてくるような気がした。




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『ヴィヨンの妻』(読書メモ)

太宰治『ヴィヨンの妻』ぶんか社文庫

「ヴィヨンの妻」「眉山」「美少女」「グッド・バイ」が収められた本書。どの作品も、とても読みやすい。

その中でも、やはり一番良かったのは「ヴィヨンの妻」だった。ちなみに、ヴィヨンとは、15世紀のフランスの詩人のようだ。

飲んだくれてなかなか家に帰ってこない作家・大谷は、ろくに給与を持って帰らない。あるとき、飲み屋から金を盗んでしまったため、子供を抱えた奥さんはその店で働くことになる。どんなに夫が酷いことをしても、怒りわめくことなく夫についていく奥さん

たぶん、太宰の理想の妻なのだろう。

この作品の夫と妻の世界観が真逆なのが印象的だ。ある時、夫は次のように愚痴る。

「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様がないんです。生まれた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」(p.50)

これに対し、妻は対照的な考え方をしている。

「私たちは生きてさえいればいいのよ

この一言は深いと思った。自殺してしまった太宰だが、こういう作品を書いていたということは、やはり生きていたいという気持ちがあったのだろう。彼は死んでしまったが、彼の作品を通して励まされる人がいることを考えると、太宰治はよい仕事をしたのだと思った。





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どのような悪もわたしを支配しませんように

どのような悪もわたしを支配しませんように
(詩編119章133節)

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教えないことで、教える

先日紹介した『日日是好日』の中で、印象的だったのは、お茶の先生が「教えない」こと。

お茶にはいろいろな作法があるらしいが、「なぜそうした動きをするのか?」と森下さんが聞くと、お師匠さんは「理屈なんか、どうでもいいの、それがお茶なの」と答えるという。

森下さんは言う。

「理解できないことがあったら、わかるまで質問しなさいと学校で教育されてきた私は、面食らったし、それがお茶の封建的な体質のように思えて反発を感じた。だけど今は、そのころわからなかったことが、一つ、また一つと、自然にわかるようになった。十年も十五年もたって、ある日、不意に、「あ~!そういうことだったのか」と、わかる。答えは自然にやってきた」(p.227)

もちろん、こうした教え方によって、結局理解できない人や、落ちこぼれる人もいる。しかし、自分で気づき、自分で体感することほど、その人を伸ばす方法はない。

森下さんいわく

「もし、初めから先生が全部説明してくれたら、私は、長いプロセスの末に、ある日、自分の答えを手にすることはなかった。先生は「余白」を残してくれたのだ」(p.227)

「先生は手順だけ教えて、何も教えない。教えないことで、教えようとしていたのだ。それは、私たちを自由に解き放つことでもあった」(p.227-228)

あえて教えないことで教える方法もある。これが日本独自の教育方法であるといえる。

出所:森下典子『日日是好日』新潮文庫


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『日日是好日』(読書メモ)

森下典子『日日是好日』新潮文庫

タイトルは「にちにちこれこうじつ」と読む。「毎日がよい日」という意味らしい。

著者の森下典子さんは、ルポライター・エッセイストとして活躍する方。大学時代からはじめた「茶道」について書かれた本書は、彼女の自叙伝でもある。

近所に住む「武田のおばさん」を師匠として始めた茶道。なんとなく始めて、なんとなく続けている茶道が、森下さんの人生のターニングポイントで気づきを与える。

本書を読んで一番印象に残ったことは、茶道をすると、季節の音や匂いに敏感になる(だろう)ということ。

6月のとある日に稽古をしていたときに雨が降ってきた。

「パラパラパラパラ…豆が当たるような音で、大粒の雨が、ヤツデの葉を打っている。ポツポツポツポツ… テントをつつくような音をさせて、今を盛りの紫陽花の葉や、丸く大きくなった山茱萸(さんしゅゆ)の葉っぱたちが、元気に雨をはね返している。熱帯雨林を感じさせる雨だった。「梅雨の雨だわね」先生が、誰にいうともなくつぶやいた。そのとき、気づいた。(そういえば、秋雨の音は違う…)十一月の雨は、しおしおと淋しげに土にしみ込んでいく。同じ雨なのに、なぜだろう?(あ!葉っぱが枯れてしまったからなんだ…六月の雨音は、若い葉が雨をはね返す音なんだ!雨の音って、葉っぱの若さの音なんだ!)パラパラパラパラ… ポツポツポツポツ…」(p.128)

梅雨と秋では雨の音が違う。忙しい私たちは、そんなことになかなか気づくことはできない。しかし、茶道によって心を静めると、その違いを肌で感じることができる。

もうひとつ印象に残った箇所がある。

著者が大学を卒業して3年が経った時。まだ正式に就職できずに、週刊誌のアルバイトをしていた森下さんは苛立っていた。

「(あー、また、お茶か)と、いらだった。悠長にお茶の稽古なんかやっている場合じゃない。私は先を急いでいる身なのだ。なのに毎週、お茶で足止めされる気がした。」(p.141)

こんな状態で稽古を積んでいると、先生が次のように森下さんをたしなめる。

「「あなた、今どこか、よそへ行っちゃっているでしょ」「?」私には、先生の言っている意味がわからない。「若いってことは、だめねえ。全然落ち着かない」先生は、独り言のようにつぶやいた。「ちゃんと、ここにいなさい」」(p.141-142)

この箇所を読んで、私たちは、「ちゃんと、ここにいる」ことがなかなかできない存在なのではなかろうか、と思った。

そして、本書の題名である「日日是好日」に関係するところ。

「私たちは、雨が降ると、「今日は、お天気が悪いわ」などと言う。けれど、本当は「悪い日」なんて存在しない。雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も「いい日」になるのだ。毎日がいい日に…。(「毎日がいい日」?)自分で思ったその言葉が、コトリと何かにぶつかった。覚えがあった。どこかで出会っていた。何度も、何度も…。その時、自然に薄暗い長押の上に目が行った。そこに、いつもの額がある。「日日是好日」(・・・・・!)(毎日がよい日)(p.217-218)

一日、一日を味わって過ごすこと。その日、その日の良さを感じながら過ごすこと。忙しい私たちが忘れていることを思い出させてくれた。









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わたしたちが互いに愛し合うならば

わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです
(ヨハネの手紙Ⅰ、4章12節)

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『武士道シックスティーン』(読書メモ)

誉田哲也『武士道シックスティーン』(文春文庫)

最近の流行作家の作品をたまに読むがイマイチのものが多い。そんな中で、ひさびさにヒットしたのが本書。誉田さんの作品を読むのがこれが初めてである。

本書には、自然体で剣道を楽しむ早苗と、武士が女子高生の皮をかぶっているような香織が出てくる。

インパクトがあったのは、武士・香織の方。

普段から「生きるか死ぬかの勝負の世界」に生きている香織は、昼休みはダンベルで筋トレしながら宮本武蔵の『五輪書』を読んでいる変わり者。中学の全国大会では2位になるが、決勝での負けをずっと悔いている。

「勝つ」ことのみを追求してきた香織だが、早苗と出会ってから何のために剣道をしているのかに悩むようになる。

香織は自問する。

「三年の春も、夏も秋も冬も、ずっとずっと勝ち続けて、大会実績を認められて推薦で大学にいって、その先も負けを許されず、勝って勝って勝ち続けて、大学を卒業したら警察に入って、そこでも特錬員になって大会に出て、全日本で優勝して、世界選手権を制して、それを何年も続けて―。それで、なんだ。だったらなんなんだ。死ぬまで勝ち続けるつもりか。そんなことができるとでも思っているのか」(p.303-304)

この独白は、現代の熱血ビジネスパーソンにも通ずるものがあるような気がする。何のために仕事をしているのか?ずっと勝つためなのか?

本書の答えは「好き」であること。好きだから剣道をする。それでいいじゃないか。香織はそのことに気づき、自分を取り戻す。

ちなみに、香織のお父さんも武士なのだが、彼の言葉も印象的だ。

「武士道・・・・・そう、言い換えてもいい。義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己・・・・集約すれば、世のためを思い、他人を敬い、精進を怠らない・・・・・そういう心得に行き当たる。最低、その三つを忘れなければ、人はどこでも、いつの時代でも生きていける。逆に、その一つでも欠いたら、そいつに生きる資格はない。社会に生きる人間とは、そうあるべきものだ。」(p.367)

すばらしい言葉だ。しかし、この通りだとすると、自分には生きる資格がないことに気づいた。

武士になるのは、なかなか難しいことである。

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『鬼龍院花子の生涯』(読書メモ)

宮尾登美子『鬼龍院花子の生涯』中公文庫

本屋で『鬼龍院花子の生涯』を見かけたとき、夏目雅子が主演した映画のセリフ「なめたらいかんぜよ!」を思い出したので買ってみた(ただ、このセリフはどこにも書いてなかったが…)

ちなみに、夏目さんが演じたのは鬼龍院花子ではなく、鬼龍院政五郎の養女・松恵。本書は、この松恵から見た「鬼龍院一家盛衰の物語」である。

本書を読んで強く思ったのは「環境」に流される人と流されない人の違い。

高知の侠客・鬼龍院政五郎の娘・花子は甘やかされて育ったため主体性を持つことなく大人になる。一時は隆盛を誇った鬼龍院一家も政五郎が衰えるにつれて没落していき、その運命にあらがうこともなく、花子も落ちるところまで落ちてしまう。

一方、12歳のときに無理やり養女にさせれた松恵は、横虐非道な政五郎の仕打ちに耐えながら、自分を見失わずに生きていく。手籠めにされそうなところを危うく逃れ、女学校を卒業して教師になるものの、騒動を起こした政五郎のために辞めさせられる。さらに、夫を戦争で失うが、再び別の学校で学び、洋裁の教師になる。

きびしい環境に置かれても、姿勢の違いによって運命は変わることを感じさせる内容であった。

ただし、生まれたときから甘やかされてきた花子と、養女とはいえお手伝いさん的な存在だった松恵では、少し状況が違う。その意味では「育てられ方」というものは怖い。

花子は、負の呪縛からどのように逃れたらよかったのか。この点を深く考えさせられた。

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