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主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる

主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる
(イザヤ書55章7節)

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『私の旧約聖書』(読書メモ)

色川武大『私の旧約聖書』中公文庫

天才・色川武大による、旧約聖書論。本質を見抜く目はさすがである。

「ただ一点、神と人間との契約、これが根幹になっておりますから、双方が、つまり神も人間も、その契約を守っているかどうか、これが問題なのです。人間は、神に対して違反し、その尊崇を捨て去ってはならない。それから、神も、人間と約束したことを履行しなければならない。もし忘れれば、神という存在もたちどころに無に帰してしまうのです。旧約が述べている道徳とは、これ以外にないのですね。これが、非常に気持ちいい。読んでいて、清潔感すら感じてしまいます」(p. 64-65)

「たとえば、アダムとイヴが、禁断の木の実を食べた、あれがどうして歓迎されないかというと、ただ一点、神との約束を破ったからなのですね。その他の心証は関係ないのです。そういうところが、旧約聖書というのは首尾一貫、みじんも崩れません」(p. 66)

おっしゃるとおりである。

旧約の中では、一見理不尽に思えることがたくさん起こるが、この点は一貫しているのだ。

「もっと大ざっぱにいうと、旧約の歴史は、(人間たちが)困って神に泣きを入れる、そして神に忠実になる時期と、困惑がのぞかれて神が不必要に近くなってしまう時期との反復だということもいえましょう。愚かだといったって、まるでそれでバランスがとれるかのように、長いことそうやってくりかえしてきたのだから仕方ありません」(p. 114)

まったくその通りで、あきれるほどこの繰り返しの連続なのである。よく考えると、ユダヤ民族に限らず、人間の一生も、この繰り返しであるような気がする。

とにかく、つながっていることが大事なのかな、とあらためて感じた。





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自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります
(ガラテヤの信徒への手紙6章8節)
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『ツァラトゥストラはこう言った』(読書メモ)

ニーチェ(氷上英廣訳)『ツァラトゥストラはこう言った(上・下)』岩波文庫

『この人を見よ』『道徳の系譜学』を経て、本書を読み、ようやくニーチェのすごさがわかってきた。

いちばん感銘を受けたのは「運命愛」「永遠回帰」の考え方。

「人生は偶然によって、良いことも悪いことも起きるが、それをまるまる感謝して受けとめよ。同じ人生が何回も繰り返されたとしても、それを受け入れることができるくらい、自分の人生を愛せよ」という考え方だが、それができるのが「超人」である。

ツァラトゥストラ(ニーチェ)は言う。

「わたしはしばしば自分を慰めるためにこう言った。『よし、よし、親愛なるわが心よ!おまえは不幸な目にあったな。その不幸をおまえの — 幸福として喜び味わうがいい!』」(上、249)

人生という贈り物を与えられたと考え、いつもこれに対して、何を報いたらいちばんいいかと考える!そしてまことに、つぎのように言うのが高貴な者にふさわしいことばである。『人生がわれわれを選んで、何か約束してくれるなら、— その約束を、われわれは守ってやろう』」(下、p. 97)

「わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ」(下、p. 139)

「陰気くさい人間や夢想家などではなく、どんな困難なことにもまるで自分の祭りに行くようにいそいそと応じる、健やかで明るい者でなければならぬ」(下、p. 252)

こうした「困難や不幸を含む人生=贈り物」という考え方には、神に感謝するニーチェの気持ちが込められているような気がした(表面上、ニーチェは神を否定しているが)。

気になったのは、「よろこび」についての次の箇所。

「すべてのよろこびは、万物の永遠を願う(中略)それは愛を欲する。それはあまりにも豊かであり、贈り与え、ほどこし、だれかによって奪われることを懇望し、奪う者に感謝し、好んで憎まれようとする。— よろこびはそのように豊かであるから、嘆きだろうと、苦労だろうと、憎悪だろうと、恥辱だろうと、畸形だろうと渇求する」(下、p. 326-327)

イエス・キリストをイメージさせる文である(表面上、ニーチェはキリスト嫌いであるが)。

しかし、永遠回帰を信じ、つらいことも喜ぶためには、どうしたらよいのか?

そのヒントは、第1部で語られる「精神の三段の変化」にあるような気がした。

「わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝(ラクダ)となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ」(上、p. 37)

「こうしたすべてのきわめて重く苦しいものを、忍耐づよい精神はその身に引きうける。荷物を背負って砂漠へいそいで行く駱駝のように、精神は彼の砂漠へといそいで行く。しかし、もっとも荒涼たる砂漠のなかで第二の変化がおこる。ここで精神は獅子となる。精神は自由をわがものにして、おのれの求めた砂漠における支配者になろうとする。(中略)しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん、獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか?どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。一つの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」(p. 38-40)

この箇所を読み、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイによる福音書18章3節)というイエスの言葉を思い出した。

ただ、「獅子マインド」から「幼な子マインド」への変化が難しい。究極のアンラーニングだな、と感じた。

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確かに、正しき人はあなたの名に感謝を捧げ まっすぐな人たちは御前に住まう

確かに、正しき人はあなたの名に感謝を捧げ まっすぐな人たちは御前に住まう
(詩編140章14節)

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『カモン カモン』(映画メモ)

『カモン カモン』(2021年、マイク・ミルズ監督)

2年前に公開された作品だが白黒の渋い映画である。

独身のラジオジャーナリストであるジョニー(ホアキン・フェニックス)は、妹の子供ジェシー(ウッディ・ノーマン)を預かることに。

このジェシーはかなり変わっているため、いつもお母さんを困らせているのだが、面倒をみることになったジョニーも振り回す。

しかし、普通とは違う感性を持つジェシーは、「なぜ独りぼっちなの?」といった鋭い質問をして、ジョニーが抱える問題を指摘する。

なお、アメリカの子供たちにインタビューするというジョニーの仕事が描かれながら物語が進行するという設定だが、これが深い。

「アメリカ社会」「大人の世界」「人生」について語る子供たちの声は哲学者のよう。

ジェシーも「起こると思うことは絶対起きない。考えもしないことが起きる」など哲学的なことを語る。

ちなみに、題名となっている「カモン カモン」は「先へ、先へ」(進むしかない)という意味らしい(ジェシーの語り)。

子供に限らず、どんな人も、それぞれの哲学を持っている、と思った。
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勇気をもって進め。あなたはなすべきことをわきまえ知れ。

勇気をもって進め。あなたはなすべきことをわきまえ知れ。
(列王記上20章22節)

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『幸福な王子』(読書メモ)

オスカー・ワイルド(西村幸次訳)『幸福な王子』新潮文庫

9編からなる、オスカー・ワイルドの短編集。

一番有名な「幸福な王子」は悲しいけれどもハッピーエンドなのに対し、「ナイチンゲールとばらの花」「王女の誕生日」は切なすぎる。

「忠実な友達」は悲惨だが、あるあるな話。

「すばらしいロケット」「星の子」は?という感じである。

一番響いたのは「若い王」

王様の贅沢品のために、貧しい人々がつらい目に遭っているのを知った若い王は、あえてみすぼらしい恰好になって町に出る。

すると、ひとりの男が王に忠告する。

「陛下、富める者の豪奢から貧しき者の生活が出てくることを、ご存じありませぬか?陛下の虚飾によってわれわれは養われ、陛下の悪徳がわれわれにパンを与えるのでございます」(p. 120)

ふーむ、深い。

全体的に、やや「ベタ」なストーリーが多いが、さまざまなバリエーションの作品を描ける力を持ったオスカー・ワイルドの才能と感性に感銘を受けた。
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まず、盃の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

まず、盃の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
(マタイによる風琴所23章26節)

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