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知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる
(コリント人への手紙Ⅰ・8章1節)

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逃げ出すことができないでいる

自伝には多かれ少なかれ、自慢めいたことが書かれている。しかし、先日紹介した『ガンジー自伝』には、そうした個所があまりない。

「はしがき」に書かれた次の言葉を読んで感動した。

「わたしの意図していることは、サッティヤーグラハ(注:真実の力、愛の力)学に照らして実験を述べることであってわたしがどれくらい善良であるかを述べることではない。私自身を判断するに当たって、できるだけきびしく誠実であることに努めよう。わたしはまた、他人にもそうであることを望んでいる。」

「そのような規準に立って私自身を測定しながら、わたしは叫ばなければならない。

われのごとく 小賢しく
いやしき者ありや
造り主を見捨てたるわれ
われはかく 不信の徒なりし

というのは、わたしの生命の一呼吸一呼吸をつかさどっており、私自身を生んでくれた神、その神からわたしがいぜんとして遠くにとどまっていることは、わたしの不断の苦しみであるからである。このように私を神から遠く引き離しているものが、内心に宿る邪悪な欲情であることはわたしも知っている。しかし、それから逃げ出すことができないでいる。」(p.20)

ガンジーほどの人がそう感じているのを読んで少しホッとした。

出所:マハトマ・ガンジー(蝋山芳郎訳)『ガンジー自伝』中公文庫


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『ガンジー自伝』(読書メモ)

マハトマ・ガンジー(蝋山芳郎訳)『ガンジー自伝』中公文庫

インド独立の父、ガンジーが政治家になる前までの自伝である。

ガンジーというと聖人のイメージがあるが、本書を読むと人間ガンジーが伝わってくる。もちろんタダ者ではないのだが、かなり人間くさい部分を感じることができた。

特に、ロンドンに留学したときなどは、ふつうの気弱な青年である。しかし、外国で差別を受けるうちに、気高いインド人としての誇りがムクムクと大きくなる。それが非服従運動につながり、やがてインド社会を変えていく。

本書を読み、ガンジーを作ったのは三つの要素であるように思った。

一つめは、外国から自国を眺める経験。ロンドンや南アフリカで、差別される同郷の友を目の当たりにし、インド人としてのアイデンティティに目覚める。

二つめは、弁護士としての技術。ロンドンで弁護士資格を獲得したガンジーは、法廷という場を活用しながら、社会運動を展開する。やはり、気持ちだけでは社会を変えることはできず、何らかの技術が必要となる。

三つめは、宗教心である。ヒンドゥ教のガンジーであるが、その信仰はヒンドゥ教を超えているように思えた。いたるところに「神の導き」という言葉が出てくる。

「ものの見方」「技術」「信念」。これら三つがそろったとき、組織や社会を変えることができるのかもしれない。

なお、基本的にガンジーは清く正しいのだが、本書から感じたことは、ガンジーもやはり政治家である、ということ。

非殺生を強調するが、イギリスの戦争に参加する。そうした方が、インドにとって有利であるからだ。言い換えれば、理想だけを追うのではなく、実際に世の中を変えることを重視している、ともいえる。

理想と現実の両方を考えながら、新しい道を切り開いていったガンジーのパワーを感じた。

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人が神より正しくありえようか

人が神より正しくありえようか
(ヨブ記4章17節)

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まず短所に目をつぶる

先日紹介した平井氏の指導論で心に残ったのは「まず短所に目をつぶる」ということ。

北島康介選手は、レースの前半は得意だけれど、後半は苦手だったという。ふつうは、苦手の後半を何とかする練習をしそうなものだが、平井氏は「100の前半を29秒で入ろう」と前半強化策をとる。

「そんなことしたら、後半どうなるかわかりません」と言う北島選手に対し「それはかまわない」と答える平井氏。29秒で泳げるようになったら「じゃ、つぎは28秒を目指そう」と目標を引き上げた。

そして、前半がかなり強化された時点で「いいか、おまえは前半がいいときは後半もいい。前半が早いときはいい泳ぎだから、後半もその泳ぎをつづけられれば、いい記録が狙えるよ」と励ます。

上手い指導法である。

平井氏いわく「人間だれしも長所もあれば短所もある。だが、最初から短所のことを言うと、長所を伸ばせなくなる。まずは、長所を伸ばしておいて、短所が長所のじゃまになっているかもしれないと感じはじめた頃に、短所を直してやったらどうかと考えたのだ。」(p.99)

長所を伸ばすことはよく言われるが、「短所が長所のじゃまになる頃に短所を直す」という点がポイントだ。「まずは短所に目をつぶる」という「まずは」というところが大事である。

ある期間、短所を我慢できるかどうか。そこが指導者の器の大きさだと思った。

出所:平井伯昌『見抜く力:夢を叶えるコーチング』幻冬舎新書.

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『見抜く力』(読書メモ)

平井伯昌『見抜く力:夢を叶えるコーチング』幻冬舎新書

北島康介選手のコーチだった平井氏の指導論。教えられるところの多い本だった。

印象に残ったのは「選手の感性を磨いていかなければならない」という点。感性とは、自分の練習をきちんと意味づける力である。平井コーチは言う。

「「今泳いでどんな感じだった?」などと尋ねるようにしている。選手はつねに考えながら泳いでいるわけではないが、水をつかめたか、つかめなかったかは感じている。そこを意識して泳げるかどうかで、練習の意味合いが変わってくるのだ。最初のうちは「よくわかりません」「あまり感じませんでした」などという答えが返ってくるだけだが、なんども質問を繰り返しているうちに、「今日はすごくお腹に力が入って、水がちゃんとかけています」とい返事が返ってくるようになる。こうなると、コーチから言われたとおりに半ば強制的にやらされていた練習が、きちんと意味づけられ、何倍もの密度の濃さになってくる。」(p.70-71)

コーチの問いかけによって、選手が自分の練習を「振り返り」、その内容を「言葉」にして、練習を「意味づける」。これが感性を磨くことになる。

子どもの勉強を教えるときでも、後輩や部下に仕事を教えるときでも、感性を磨くことを意識すべきである、と思った。
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わたしが与える水は

わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る
(ヨハネによる福音書4章14節)

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底辺を引き上げる

既存売上高が34カ月連続でプラスだった「餃子の王将」の快進撃が止まった。

店長に権限を委譲し、独自のメニューや「ジャンケンで勝てば餃子無料」「皿洗いすれば飲食が無料」など、店ごとで独自のサービスを打ち出すことで、顧客を増やしていた王将だが、さすがに前年割れとなる。

では、どうすればいいのか?

社長の大東さんは、次のように言う。

人材育成ですよ。接客、味、サービス、店の清潔さ。それをどう改善するかで全然違う。(中略)僕は王将に入って40年以上が経つけど、ずっと人を柱にやってきました。人、人、人。軸はずっとぶれてへんで。」

「僕は「1・2・3・4」と言っている。1はどの店に行っても売り上げをあげる店長、2はそれに次ぐ店長、3はある程度の水準まで行っている店長で、4はまだまだなてんちょうやね。足して10.これを「2・3・3・2」か「2・4・3・1」まで持っていきたい。底辺の4を引き上げないと、企業全体が強くならないからね。」

ふつうは2・6・2といって、中間の6を引き上げることを指摘する人が多いけれども、「底辺」を引き上げることが大事だと指摘する大東社長はちょっと違う。

たしかに、底辺の店長の下で働いている社員やアルバイトはつらい。底辺のレベルで、その企業の格が決まるのかもしれない、と思った。

出所:日経ビジネス2011年6月13日号、p.84-87.
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読書会から生まれた実践

北海道常呂郡置戸(おけと)町は、材木産地として栄えた町。この町には「オケクラフト」と呼ばれる木工作品をつくる職人さんがたくさんいる。

木肌が美しいコーヒーカップや、鍋にやさしい木製のヘラなど、陶器にはない肌感覚があるオケクラフトは全国的に人気があるという。

どういう経緯でオケクラフトが生まれたのか?

それは読書会である。戦後、「二度と戦争の過ちを犯さないためには本を読まねばならない」ということから集会所で住民は本を読み始める。この集会所が図書館兼公民館となり、やがて「木に親しむ会」という木工教室が開かれるようになった。

しかし、木工の専門家がいないため本を集めて読んでいると、同じ著者の本が多いのに気づく。「じゃあ、この著者を呼ぼう」ということになり、工業デザイナーの秋岡芳夫さんから木工の指導を受けるようになる。

その後、置戸に住むことを条件に木工の研修生を募集したところ大きな反響があり、現在では20名の職人が工房を運営するまでに発展した。

読書会から始まったオケクラフト。「みんなで本を読んで、考え、教えを請いながら、実践する」。こうした地道な「まなび」の積み重ねが、新しいものを生み出すことにつながるのだろう。

出所:『翼の王国』No.505 (2011, July), p.70-84.


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『つゆのあとさき』(読書メモ)

永井荷風『つゆのあとさき』岩波文庫

「女々しい」という言葉は、女性の方にとって失礼な言葉だが、よく考えると、男の方が女々しいような気がする。永井荷風の『つゆのあとさき』を読んで、このことを痛感した。

本書を読んだきっかけは、ドナルド・キーンさんが永井荷風の日本語の美しさを絶賛していたから。まず『つゆのあとさき』という題名が美しい。

さまざまな男と経験することを何とも思わず、淫蕩の日々を送る銀座のカフェの女給・君江が主人公。この君江のパトロンの作家・清岡がしょうもない奴で、奔放な君江に嫉妬して、いろいろな悪さをする。

あるとき、君江は次のようにつぶやく。

「男っていうものは女よりもよほど執念深いものね。」

この箇所を読んで、ある大手下着メーカーの女性マネジャーが「男のほうがよっぽど嫉妬深いですよ」とおっしゃっていたのを思いだした。

本書を読むと、「男らしさ」にこだわる男が、実は「女々しい」ことがわかってくる(自分も含めて)。

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