松尾睦のブログです。個人や組織の学習、書籍、映画ならびに聖書の言葉などについて書いています。
ラーニング・ラボ
『箱男』(読書メモ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/04/7e/84f3b80fda1ebce0ad9fe42a32b8cc9d_s.jpg)
伝記に触発されて『箱男』を読んでみた。はじめは前衛的すぎて何を言いたいのかよくわからなかった。どちらかというとストーリーが明確な『砂の女』の方が好きである。
箱男というのは、冷蔵庫を入れるくらいの大きさの段ボールをすっぽりかぶったホームレスの人である。箱には小さな窓がついていて、中からは見えるが、外からは箱の中が見えないようになっている。ただし、箱男が街を歩いていても、多くの人は気づかない。
読みながら「この箱男は何を意味しているのだろうか」とずっと考えていたのだが、最後の方になって何となくわかった(もちろん人によっていろいろと解釈があるのだろうけど)。
テーマは、「見る側と見られる側」「覗く側と覗かれる側」である。
人から見られると緊張するし、プレッシャーも感じる。しかし、自分は見られず、ただ見るだけの側であれば気楽である。
ところで、花粉の季節にマスクをすると、なぜか匿名性が高くなり、気が楽になるというか、解放された感じになることがある。それを思い出して「これが箱か」と思った。日本では花粉の季節になるとたくさんの人々がマスクをするが、これは箱男(あるいは箱女)になりたいからかもしれない。
生きていると箱をかぶりたくなるときがある。周りをみても、箱をかぶっている人(本当の自分を出さない人)が意外と多いのかもしれない、と思った。現代社会の本質を鋭く描いた安部公房。さすがである。
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国際人の条件
安部公房さんは、どうも英語がしゃべれなかったらしい。友人の作家・安岡章太郎さんは、次のように回想している。
「なぜか僕に、君、英語できんだろうって言うから、できないよって言ったら、へえっ!これはやばい、なんて言い出してね。『ライフ』の社長夫人が安部公房にインタビューに来ててさ、それで彼、僕を誘ったわけだ。僕が全然できないなんて言ったら、そんな手はないよ、とか言ってさ。安部はできるかと思ったら、全然できないってわけね」(p.292)
しかし、安部さんの『砂の女』は世界30カ国以上で翻訳され、ノーベル賞候補者でもあった。大江健三郎さんは言う。
「僕の感じだと、日本的な作家ということで、たとえば谷崎、川端、三島が知られていたとしてもですね、ほんとうに現代作家として外国の知識人に読まれた作家は、安部さんが最初だった。そしていちばん強い印象を与えたのが安部さんだったと思うんですね」(p.302)
要は、英語ができるかどうかではなく、世界の人々に感銘を与える仕事を成し遂げたかどうかが国際人としての条件である、と感じた。
出所:安部ねり『安部公房伝』新潮社
「なぜか僕に、君、英語できんだろうって言うから、できないよって言ったら、へえっ!これはやばい、なんて言い出してね。『ライフ』の社長夫人が安部公房にインタビューに来ててさ、それで彼、僕を誘ったわけだ。僕が全然できないなんて言ったら、そんな手はないよ、とか言ってさ。安部はできるかと思ったら、全然できないってわけね」(p.292)
しかし、安部さんの『砂の女』は世界30カ国以上で翻訳され、ノーベル賞候補者でもあった。大江健三郎さんは言う。
「僕の感じだと、日本的な作家ということで、たとえば谷崎、川端、三島が知られていたとしてもですね、ほんとうに現代作家として外国の知識人に読まれた作家は、安部さんが最初だった。そしていちばん強い印象を与えたのが安部さんだったと思うんですね」(p.302)
要は、英語ができるかどうかではなく、世界の人々に感銘を与える仕事を成し遂げたかどうかが国際人としての条件である、と感じた。
出所:安部ねり『安部公房伝』新潮社
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『安部公房伝』(読書メモ)
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もう少し長生きしたらノーベル賞をとっていたであろうと言われる安部公房について、娘のねりさんが記した伝記である。
ふつう伝記を読んでいくと、その人のイメージというものが出来上がっていくものだが、この本を読んでも、安部公房がなかなかつかみきれないので不思議に思っていた。
本書の最後のほうで、親しかった大江健三郎が次のように語っているのを読んで「やっぱり」と思った。
「安部さんはやはり他の人間から見ると、それは僕も含めてですが、よく分んないところのある人だったと思うんですね」(p.302)
東大医学部を出た秀才で、論理的な人間である一方、イマジネーションに満ちているところが印象に残った。次は、父と娘の会話である。
「「ねり、手って何か特別な感じがしないか」と父は私に話しかけた。私が「どう特別なの?」と言うと、父は「たとえば道に、手が落ちているとするだろう。そうしたら、とてもびっくりするじゃないか」と脱線をし、「それなら足首が落ちてたってびっくりするし、首が落ちていたらもっと驚くじゃない」と、親子らしいすれ違いをしてしまった」(p.196)
また、安部さんが育てた劇作家の清水邦夫さんも次のように語っている。
「言っちゃなんですけど、かなりバカバカしい話をされるんですね。たとえば飛行機の夢、電信柱が邪魔してどうしても着陸できないっていう夢とかね、そういうのを、なんか、ヒントにならないか、とかね。それでね、なんか夢用のメモなんか手帳みたいなのがあって、書き留めてるんだって」(p.286)
たぶん、左脳と右脳が発達していて、そこを行ったり来たりする中で、凄い作品が生まれてくるのだろう、と感じた。
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読書の危険性
ニーチェは著書『この人をみよ』の中で、読書の持つ危険性を次のように指摘している。
「ただ書物を「ひっかきまわして検索する」ことだけしかしない学者は ― 並みの文献学者で日に約二百冊は扱わねばなるまい ― しまいには、自分の頭でものを考える能力をまったくなくしてしまう。本をひっかきまわさなければ、考えられないのだ」(p.72)
「読書は、わたしを、まさにわたしの本気から休養させてくれるのだ。仕事に没頭しているときは、わたしのそばに一冊の本もない」(p.56)
極端な物言いであるが、かなり鋭い指摘である。
読書をしていると頭を使った気になってしまうが、よく考えてみると、自分の頭で考えていないことが多い。特に、次の発言は過激である。
「本を読むこと ― それをわたしは悪徳と呼ぶ」(p.73)
本にのまれて考えなくなる人と、本を道具として使って考える人。この二タイプの人が存在するように思う。読書の持つ危うい側面に気づかされた。
出所:ニーチェ『この人をみよ』(手塚富雄訳)岩波文庫
「ただ書物を「ひっかきまわして検索する」ことだけしかしない学者は ― 並みの文献学者で日に約二百冊は扱わねばなるまい ― しまいには、自分の頭でものを考える能力をまったくなくしてしまう。本をひっかきまわさなければ、考えられないのだ」(p.72)
「読書は、わたしを、まさにわたしの本気から休養させてくれるのだ。仕事に没頭しているときは、わたしのそばに一冊の本もない」(p.56)
極端な物言いであるが、かなり鋭い指摘である。
読書をしていると頭を使った気になってしまうが、よく考えてみると、自分の頭で考えていないことが多い。特に、次の発言は過激である。
「本を読むこと ― それをわたしは悪徳と呼ぶ」(p.73)
本にのまれて考えなくなる人と、本を道具として使って考える人。この二タイプの人が存在するように思う。読書の持つ危うい側面に気づかされた。
出所:ニーチェ『この人をみよ』(手塚富雄訳)岩波文庫
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『この人を見よ』(読書メモ)
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ニーチェが狂気の世界に入る前に書きあげた最後の著書である。まずびっくりするのは、はじめの3章のタイトル。
・なぜわたしはこんなに賢明なのか
・なぜわたしはこんなに利発なのか
・なぜわたしはこんなによい本を書くのか
かなり変な人である。しかし、さすが天才ニーチェだけあって、その内容にぐいぐい引き込まれた。
牧師の息子であるのに(あるいは牧師の息子であるがゆえに)キリスト教が大嫌いなニーチェは、神に寄り頼む生き方、理想主義、隣人愛を否定する。
なぜか?
それらが「我欲」「自然な本能」を否定し、「自己を喪失する」ことにつながる(と彼が考えた)からである。この本でニーチェが強調するのは「わたし自身への復帰」(p.128)「わたしになること」(p.197)である。
ニーチェは言う。
「われわれはしっかりと自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ」(p.95)
ただ、ニーチェが否定しているのは、人々を支配し縛りつけてきたキリスト教会や宗教指導者層であるような気がした。なぜなら、本書の序で、次のように述べているからだ。
「『一切の価値の転換』の第1巻、『ツァラストゥラ』の緒歌、『偶像のたそがれ』(鉄槌で哲学しようとするわたしの試み)―これらはすべて、この一年に、しかもその最後の三カ月にわたしに贈られた贈り物なのだ!」(p.15)
神を信じない者が自分の業績を「贈り物なのだ」とは言わないだろう。また、本書のいたるところに「わたしの使命」という言葉が出てくる。
ニーチェがいう「自分自身になること」とは、西田幾多郎のいう「個人性(個性のようなもの)」に近いだろう。西田は、個人性を持っているだけでは不十分であり、社会や神を意識しなければならないと言っている点で、ニーチェよりスケールが大きいと思った。
「大いなるのもを信じること」と「自分に帰る、自分自身になること」は必ずしも矛盾するものではなく、両者を統一することが大切になる、と感じた。
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ぼく、アホやし
広中平祐さんは、他者から学ぶ達人である。
大学時代、ある小学生の男の子の家庭教師をしていたときのこと。その子は頭がいいのに、復習しないために、教えたことをすぐ忘れしまうことが多かったらしい。あるとき「この前はちゃんと理解していたのに、どうしたんだ」と尋ねたところ、その子は非常に素直な明るい顔をして次のように答えたという。
「ぼく、アホやし」
これを聞いた広中さんは返すことばをなくし、怒ることもできなかった。しかし、この言葉は、その後の広中さんを助けるようになる。
「数学という仕事をしていると、問題を九割がた解けながら、あとの一割が解けずに行き詰ることがよくある。それは、一歩間違えば神経衰弱に陥りかねないほど、数学者には危険な状況なのであるが、といって九割までこぎつけたのだから、おいそれとその仕事を放棄することはできない。ここは一番、ねばり強く勝負をかけてみる必要がある。そのような時、私は、かの男の子の名言を声に出して唱えるのである。「ぼく、アホやし」と。すると、頭がすっと楽になる。憑きものが落ちたみたいに目の前が明るくなって、心にゆとりができてくるのだ」(p.99-100)
よい意味での「開き直り」である。心にわだかまる偏見や執着心をそぎ落とし、「素心(素朴な心)」になるとき、創造力が湧きあがるのだろう。
出所:広中平祐『いきること学ぶこと』集英社文庫
大学時代、ある小学生の男の子の家庭教師をしていたときのこと。その子は頭がいいのに、復習しないために、教えたことをすぐ忘れしまうことが多かったらしい。あるとき「この前はちゃんと理解していたのに、どうしたんだ」と尋ねたところ、その子は非常に素直な明るい顔をして次のように答えたという。
「ぼく、アホやし」
これを聞いた広中さんは返すことばをなくし、怒ることもできなかった。しかし、この言葉は、その後の広中さんを助けるようになる。
「数学という仕事をしていると、問題を九割がた解けながら、あとの一割が解けずに行き詰ることがよくある。それは、一歩間違えば神経衰弱に陥りかねないほど、数学者には危険な状況なのであるが、といって九割までこぎつけたのだから、おいそれとその仕事を放棄することはできない。ここは一番、ねばり強く勝負をかけてみる必要がある。そのような時、私は、かの男の子の名言を声に出して唱えるのである。「ぼく、アホやし」と。すると、頭がすっと楽になる。憑きものが落ちたみたいに目の前が明るくなって、心にゆとりができてくるのだ」(p.99-100)
よい意味での「開き直り」である。心にわだかまる偏見や執着心をそぎ落とし、「素心(素朴な心)」になるとき、創造力が湧きあがるのだろう。
出所:広中平祐『いきること学ぶこと』集英社文庫
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『生きること学ぶこと』(読書メモ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/38/42/7fccc7b8b8fd131db46b7930558f13d1_s.jpg)
数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を受賞した広中平祐氏の自伝である。あまり期待せずに読んだのだが、かなりのインパクトを受けた。
何かを創造する上で最も大切なものは何か?広中氏によれば「素朴な心」である。
広中氏は、ある研究テーマに2年間没頭したが、若い競争相手に先を越されてしまった苦い思い出がある。そのときのことを次のように振り返っている。
「ハーバード大学のセミナーで研究発表した時、マサチューセッツ工科大学教授から「美しい(ビューティフル)!」と賞賛されたことがある。これに非常に気をよくした私は、以後、自分の方法に固執するようになったのである。そして、固執は偏見を呼び、その偏見にまた固執して、そういう悪循環をくり返すうちに、ついには、物事を新しい角度から態度が妨げられて、つい自分の偏見で一方的に観てしまい、「この方法で解かなければ、現代数学で解けるはずがない」という、巨大な偏見が私の中に形成されていったのだ」(p.104-105)
で、広中氏はどう考えたのか?
「人は一つの成功経験によって、ともすると素朴な心を失ってしまう。(中略)素朴な心、「素心」を忘れないこと。創造の方法の基盤となるのはそれではないか」(p.105)
ところで、素心になるにはどうしたらいいのか?
「数学の問題を一つ解くにも、その問題という「相手」の立場に立って考え、あげくには「問題」が「自分」か、「自分」が「問題」かわからないような、互いに融け合った状態になってはじめて、解決の糸口となる発想をつかんだり、法則をみつけたりすることができるのである」(p.134)
これはチクセントミハイのいう「フロー状態」であり、西田幾多郎の「主客合一」である。
何かを創造できるかどうかは、素朴な心を持ちながら、「課題の気持ち」になって取り組む姿勢を持てるかどうかによって決まる、と感じた。
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