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『潜水服は蝶の夢を見る』(映画メモ)

『潜水服は蝶の夢を見る』(2007年、ジュリアン・シュナーベル監督)

実話に基づく映画である。

ファッション誌『ELLE』の編集長ジャン=ドミニク・ボビー(マチュー・アマルリック)は、脳梗塞のために「閉じ込め症候群」になってしまう。

意識はあるが身体全体が麻痺してしまった自身の身体を「潜水服」に例えるジャンドー。華やかな世界で大活躍し、プレイボーイだった彼は奈落の底に落とされてしまう。しかし、そこには一筋の光があった。

それは、「左目の瞬き」だけで意思疎通すること。

ジャンドーはサポートを受けながら、左目だけで自伝を書き上げてしまう。そのプロセスを描いたのが本作である。

想像力と記憶で、僕は「潜水服」から抜け出せる。想像力は無限に広がる」という言葉が響く。

とにかく、映像と構成が美しく、ひきこまれた。

どんな状態になっても人は成長できる。そのことが伝わってくる映画である。




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むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください

むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください
(詩編119章37節)

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有意義な人生と技能

『エリック・ホッファー自伝』の最後に、シーラ・ジョンソンによる「七十二歳のエリック・ホッファー」というインタビュー記事が掲載されている。

その中で、次の点が印象に残った。

有意義な人生とは学習する人生のことです。人間は、自分が誇りに思えるような技術の習得に身を捧げるべきです。技能療法の方が宗教的な癒しや精神医学よりも大事だと思います。技術を習得すれば、たとえその技術が役に立たないものでも、誇りに思えるものです」(p. 167)

技術や技能には、何かができるという「手ごたえ」がある。この手ごたえが、「誇り」となり、人生に「意味や意義」を感じさせるのだろう。

管理職ポストに限りがある今、「ワーキングパーソンは何らかの専門家になるべきではないか」と思っていたので、同じような考えに勇気づけられた。

あなたは何ができますか?」という問いに対して、「これができます」「やってみましょうか?」と言えるようになることが大事だと思った。

出所:エリック・ホッファー(中本義彦訳)『エリック・ホッファー自伝』作品社


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『エリック・ホッファー自伝』(読書メモ)

エリック・ホッファー(中本義彦訳)『エリック・ホッファー自伝』作品社

『ハンナ・アーレント』の中で「砂漠のオアシス」のような存在として紹介されていたので、読んでみた。

エリック・ホッファーは、7歳で失明し、15歳のときに視力が回復したものの、正規の学校教育は受けていない。10年間の放浪生活を経て、65歳まで港湾労働者をしながら著作活動をした「沖仲仕の哲学者」として知られている。

職業紹介所で仕事をもらいながら、自己学習を欠かさなかったホッファー。

「私はつましく暮らし、絶え間なく読書しながら、数学、化学、物理、地理の大学の教科書を読み、勉強をはじめた。自分の記憶を助けるためにノートをとる習慣も身につけ、言葉を使って物事を描き出すことに熱中し、適切な形容詞を探すのに何時間も費やしたりしていた」(p. 16)

そんなホッファーだが、あるとき自殺を考える。

「歩き、食べ、読み、勉強し、ノートをとるという毎日が、何週間も続いた。残りの人生をずっとこうして過ごすこともできただろう。しかし、金がつきたらまた仕事に戻らねばならないし、それが死ぬまで毎日続くかと思うと、私を幻滅させた。今年の終わりに死のうが、十年後に死のうが、いったい何が違うというのか。(中略)1930年の暮れが近づき、いよいよ金がなくなったらどうするかを決めなければならない時がきた。もう心は決まっている、自殺だ」(p. 40-41)

しかし、彼の服毒自殺は失敗する。

「私は自殺しなかった。だがその日曜日、労働者は死に、放浪者が誕生したのである」(p. 47)

最も印象に残ったのは、ホッファーがひょんなことから、大学の柑橘類研究所でバイトしていたときのこと。その研究所では、レモン産地で発生した病気の調査をしていたが、原因がわからない。すでに大学の理系の教科書をマスターしていたホッファーは、自主的に植物学の文献を調べまくり、解決してしまう

「教授は研究所の仕事を用意してくれていた。しかし、私は本能的にまだ落ち着くべきときではないと感じ、放浪生活に戻った」(p. 88)

これはすごい。研究機関で研究するのではなく、「働きながら思索すること」が自分の使命であることを直感的に理解していたのだろう。

その後、港湾労働者としてはたらきながら、48歳のときに『大衆運動』を出版し、80歳で亡くなるまで哲学者として活躍する。

多くの研究者は組織に「寄生」しないと研究ができないが、まさに「独力で研究」し続けたホッファーの生き方に感銘を受けた。


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『八月の狂想曲』(映画メモ)

『八月の狂想曲』(1991年、黒沢明監督)

原爆をテーマにした物語である。

長崎市街から少し離れた山村に住むおばあちゃん(村瀬幸子)と、夏休みに遊びに来ている孫たち(吉岡秀隆、大寶智子、鈴木美恵、伊崎充則)の交流がほほえましいのだが、その途中で挿入される原爆のエピソードが心にささる

強烈なインパクトがあったのは、爆風でグニャグニャに曲がったジャングルジム。記念碑となっているこのジャングルジムに、当時小学生で、生き残ったおじいさん、おばあさんが花をたむけるシーンが沁みる。

おばあちゃんの甥役で出たリチャード・ギアは、どう見ても日系二世には思えないが、まじめに演技している様子に好感が持てた。

これまで見た黒沢映画とはかなり印象が異なるものの、映画全体の質感が良くて、じわっとくる作品である。




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あなたがたは世の光である

あなたがたは世の光である
(マタイによる福音書5章14節)

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『ベストセラー』(映画メモ)

『ベストセラー:編集者パーキンズに捧ぐ』(2015年、マイケル・グランデージ監督)

作家トーマス・ウルフと彼を支えた編集者マックス・パーキンズについての実話である。

ウルフ(ジュード・ロウ)は天才ではあるが、作品が異常に長いため、どの出版社にも断られつづけていた。そんな中、彼の才能を見抜いた編集者パーキンズ(コリン・ファース)は、文章を削除しまくり、短くすることで、ウルフの小説『天使よ故郷を見よ』をベストセラーにする。

傑作を世に出すのが僕の仕事だ」というパーキンズの信念が伝わってくるのだが、すさまじい「添削プロセス」を見ると、ウルフの作品というよりも、ウルフとパーキンズの合作であるといったほうが正確であろう。

「編集者は黒子だ」といいながら「私が君の作品をゆがめた気もする」と本音をはくパーキンズ。

ウィキペディアで調べたところ、編集前のバージョンの方が編集後の作品よりも文学的なクオリティは高いという。しかし、オリジナルのままだと世に出なかったのは間違いない。

「世に広めること vs 自分の世界を守ること」「コラボ―レーション vs 単独活動」について考えさせられた。

ちなみに、コリン・ファースの演技はやっぱり上手かった。








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研究とつながり

当初、機械工学を勉強していたウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学のバートランド・ラッセルの下で哲学を学ぶようになる。ラッセルはウィトゲンシュタインの才能を買い、後には崇拝するようにまでなったようだ。

その後、第一次世界大戦を経て、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』を出版しようとしたが、無名の哲学者の本を出そうとする出版社はなかったために、完全にあきらめてしまう。

しかし、あきらめなかったのは師匠のラッセルである。さまざまな出版社に掛け合い、彼の解説をつけるという条件つきで『論考』が出版されることになる。

こうした経緯をみると、貴重な研究が生み出され、継承されていく上で、人との「つながり」が大切になることがわかる。

ただ、ウィトゲンシュタイン自身はラッセルの解説が気に食わなかったために、「出さない」と駄々をこねていたらしい。

20世紀哲学界のスーパースターといわれるウィトゲンシュタインの研究は、つながりの中から世に出た、といえる。

出所:ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)『論理哲学論考』岩波文庫(p. 215-216)




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『論理哲学論考』(読書メモ)

ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)『論理哲学論考』岩波文庫

5年くらい前に購入したのだが「この本はどう逆立ちしても読めないだろう」と思っていた。しかし、訳者の野矢先生の解説をたよりに、なんとか読み切った。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(p. 149)という有名な言葉で締めくくられる本書は、普通の構成で書かれているのではなく

3.5 使用されたーすなわち思考されたー命題記号が、思考である。
4 思考とは有意味な命題である。
4.001 命題の総体が言語である。

(p. 39)

というように、命題を列挙する形で書かれている。はじめは面食らったが、意外に読みやすく、読み返しやすいことに気づいた。上記の通り、ウィトゲンシュタインは、「言語」という観点から「哲学」のあり方や限界を議論している。

では、哲学の目的とは何か?

4.112 哲学の目的は思考の論理的明晰化である。(中略)哲学の仕事の本質は解明することである。(中略)思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。(p. 51)

物事の本質を「はっきりさせる」のが哲学だという。なお、「限界をはっきりさせる」という点が大事である。

4.115 哲学は、語りうるものを明晰に描写することによって、語りえぬものを指し示そうとするだろう。(p. 52)
5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(p. 114)


ここでいう「語りうるもの」とは、自然科学の命題であり、「語りえぬもの」とは、善・悪・価値・神のような倫理的なものを指す。言語の限界のため、こうした倫理的なものを「語ることはできない」ので、これまでの哲学者の言説は「ナンセンスである」というのがウィトゲンシュタインの主張である。

では、善・悪・価値・神のような倫理的なものはどうしたらいいのか?

6.52 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。
6.522 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。
7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない


うーん・・・。そうかもしれないけど、善・悪・価値・神のような事柄は大事だし、語りたいよね、と思った。ただ、ウィトゲンシュタインは「示される」と言っているわけだから、明晰に言語化できなくとも、なんとなく議論はできるはずである。そこに希望が残った。

ちなみに、ウィトゲンシュタインはお金持ちの家に生まれているのだが、4人いた兄のうち3人が自殺していて、本人も「自殺のことを考えなかった日はない」くらい「生の問題」に悩んでいたらしい。

たぶん、自分の悩みを解決したくて本書を書いたのではなかろうか。そして「沈黙せねばならない」という結論に至り、ほっとしたに違いない。

強烈な問題意識を持って仕事をするとき、迫力のあるものが生まれることがわかった。











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苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった

苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった
(ヨナ書2章3節)
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