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人の行いが正されずに済むであろうか

人の行いが正されずに済むであろうか
(サムエル記上2章3章)

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半生をリフレクションに費やす

宮本武蔵が実戦で戦ったのは、若いときだけである

「武蔵は二十代でその生涯のおもな勝負をしとげたが、三十代になると兵法というもののおそろしさを知った。そのおそろしさをどう克服すべきかということが彼の三十代以降の課題になるのだが、それほどに考えているかれからみれば、生兵法の剣客が軽々に勝負、試合ということばを吐くのが、殺してやりたいほどに腹だたしかったにちがいない」(p.42-43)

ということは、10~20代の実践を「リフレクション」していたのが30代以降ということになる。

13歳で有馬喜兵衛という兵法者を打ち殺し、62才で亡くなった武蔵。

ほぼ半生をリフレクションに費やし、そこから武蔵流の哲学をひねり出したのは凄いことだな、と思った。

出所:司馬遼太郎『宮本武蔵』朝日文庫


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『宮本武蔵』(読書メモ)

司馬遼太郎『宮本武蔵』朝日文庫

宮本武蔵の生涯を、司馬節で軽妙に描いたのが本書である。

一番印象に残ったのは、「兵法」(武道)というものが戦場ではあまり評価されていなかったという点。よく考えれば当たり前である。

「第一、戦争を左右するものは指揮者の指揮能力であり、そういう将才をもつ者は大いに貴重とされ、たとえ牢人しても千石、万石で召しかかえようとする大名が多い。が、刀をふりまわす技術はどうであろう。戦場で、徒歩で駈けて刀をふりかざしてすすむのは徒士か足軽である。その階級に必要な芸といっていい。もっともそれも、この芸が実際には必要といえるかどうか。戦場では敵はことごとく甲冑をつけている。鎧武者を打つにはごく単純な運動で十分であった。鎧のすきまを突く。それだけでいい」(p.88-89)

この状況が一変したのは、家康が武道好きだったことに加えて、戦国時代が終わり平和になったからだろう

そんな中で、武蔵は剣の修行に勤しむのだが、剣を哲学としてとらえていたようだ。

「たとえばかれは兵法を技術と見ず、「道(どう)」とみていた。道というのは、別の表現でいえば思想体系であろう」(p.135)

彫刻や絵の腕前も超一流であり、禅にも関心が高かった武蔵は、それらの諸芸と剣を融合しようとした。

では、孤高の求道者かというとそうでもなく、晩年は三千石以上で大名に召し抱えてもらうために盛んに運動していた。

凶暴性、哲学性、政治性が混じった複雑な人間であった武蔵。がゆえに多くの人を魅了するのだろう。



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人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。

人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。
(ルカによる福音書6章37節)

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見つめる

先日紹介した『生きる力』から。

森田療法では、「考えすぎる」ことを戒める。

その代わり「見つめる」ことを奨励するという。

「「見つめる」行為がいかに大切か。迷ったら「見つめる」。悩んでも、「見つめる」。苦しいときでも、「見つめる」。悲嘆にくれていても「見つめる」。ひたすら「見つめる」。その先には、何らかの光明が待っています。考えるのは二の次です」(p.39)

「正馬は不眠を訴える患者にも、悩まず、不眠を「見つめよ」と言います。悶々とするかわり、不眠そのものを見つめているうち、いつの間にか眠りについている自分がいます」(p.39)

考えずにただ見つめることで、方向性が示される。とてもシンプルな考え方である。

われわれは、原因や解決策を無理矢理考えようとするが、見つめかたが足りないのかもしれない、と思った。

出所:帚木蓬生『生きる力:森田正馬の15の提言』朝日新聞出版



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『生きる力:森田正馬の15の提言』(読書メモ)

帚木蓬生『生きる力:森田正馬の15の提言』朝日新聞出版

森田療法で有名な森田正馬氏が提唱する考え方を、作家で精神科医の帚木氏が紹介した本である。

フロイトが人間の深層心理に精神病の原因を求めたのに対し、森田は人間の内部を見つめすぎることを戒める

具体的にいうと

・悩んでいないで、まず目先の仕事にとりかかれ
・心の中を整えようとせずに、まず外面を整えよ
・気分はさておき、やるべきことをやれ
・生の欲望を原動力に、手足を動かせ
・「ねばならない」を捨て、「あるがまま」を受け入れろ

といった考え方である。

強引にまとめれば、「開き直って、やれることをやんなさい」ということだろうか。

積極的あきらめ」ともいえるかもしれない。

本書を読み、「ねばならない」にからみとられ、自分の心を見つめすぎている自分に気づいた。



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この僕に聞き分ける心をお与えください

この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください
(列王記上3章9節)

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意図せざる結果

大原孫三郎といえば、倉敷にある大原美術館を思い出す人が多いかもしれない。

しかし、孫三郎は、この美術館に対し、次のように語っている。

「心血注いで作ったと思っているものが案外世の中に認められず、ほかのものに比べれば、あまり深く考えなかった美術館が一番評判になるとは、世の中は皮肉なものだ」(p.165)

大原美術館の絵画は、友人である画家・児島虎次郎が中心となって収集したものであり、孫三郎はその資金的援助をしていたにすぎなかったのだ。

自分が重視していた仕事よりも、ついでの仕事が脚光を浴びたという点では、経済学者のシュンペーターも同じである。

彼は、最新の数学を駆使して、偉大な経済学理論家として認められたいという野望を抱いていたが、歴史に残ったのは、一般向けの「読み物的な本」であった。

後生に残る仕事は、本人の意思とは別に、意図せざる形で決まるのかもしれない。

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『大原孫三郎:善意と戦略の経営者』(読書メモ)

兼田麗子『大原孫三郎:善意と戦略の経営者』中公新書

クラレ、クラボウの創業者、大原孫三郎の評伝である。

「仕事を始めるときには、十人のうち二、三人が賛成するときに始めなければいけない。一人も賛成がないというのでは早すぎるが、十人のうち五人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ、七人も八人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」(p.62)と息子に語っていたという。

合意を重んじる日本企業には耳の痛い話である。

孫三郎は、企業家としてだけでなく、大原美術館、大原奨農会農業研究所、大原社会問題研究所、労働科学研究所などを設立した社会事業家としても有名だ。

しかし、孫三郎自身は社会事業家と呼ばれることを嫌っていたようだ。

「孫三郎は、一人ひとりの民衆の人間性を見る目と気配りを備えていたが、「何かを実行しようと思ったときに、算盤を持たずに着手したことはない」とも語っていた。また、社会事業家とみなされることを孫三郎は好まなかったという。孫三郎は、あくまでも経済性を追求する経済人の立場から、情と理を両立し、社会の中に共存共栄を実現しようと生涯にわたって尽力しつづけたのであった」(p.253)

情と理の両立」という考え方が響いた。

印象に残ったのは、大原奨学会。彼は、多くの有望な若者に奨学金を出し続け、人材を育成していた。そのコンセプトは「地下水づくり」である。

「地下水というものがある、雨が降ってそれが地下に落ちていればこそ、樹木や野菜、田んぼなどもみんなできるんである。ただ表面だけで流れておる川であったらそれはだめだ。かえって泥水になるより他にない。そのようなことはやめなければならない」(p.248)

これは企業の人材育成においても言えるのではないか。地下水を豊富にし、人材を育てることの大切さを感じた。
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今泣いている人々は、幸いである

今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。
(ルカによる福音書6章21節)

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