松尾睦のブログです。個人や組織の学習、書籍、映画ならびに聖書の言葉などについて書いています。
ラーニング・ラボ
神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました
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(使徒言行録10章34節)
(使徒言行録10章34節)
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死の恐怖と生の欲望
森田療法の創始者である森田正馬によれば、人間は「死の恐怖」と「生の欲望」から逃れることはできない。
では、どうすればよいのか?
『はじめての森田療法』の著者、北西憲二先生は次のように言う。
「それは「死の恐怖」と「生の欲望」のダイナミックな調和をそのまま生活世界の中で体験することです。生活世界に関わりながら、そこで感じていく苦悩、すなわち死の恐怖をありのままに受け入れていくことと、生きる力(生の欲望)を実感しそれを行動的に発揮していくこととの、関係の中で私たちが生きていくことです。恐怖はそのまま恐怖になりきるしかなく、それと同時にわれわれの欲望はつきることなく、またそれをあきらめることはできないのです。この二つの事実が森田の治療論の中心的概念です」(p.204)
この考え方は「目から鱗」である。
どうしても、恐怖から逃れたいし、生の欲望を抑えたいと思ってしまい、その結果、悩んでしまうのだが、「恐怖と欲望はそのまま放っておきなさい」という考え方に感銘を受けた。
森田療法を通して、「ありのままを生きる」ことの大切さを学んだ。
では、どうすればよいのか?
『はじめての森田療法』の著者、北西憲二先生は次のように言う。
「それは「死の恐怖」と「生の欲望」のダイナミックな調和をそのまま生活世界の中で体験することです。生活世界に関わりながら、そこで感じていく苦悩、すなわち死の恐怖をありのままに受け入れていくことと、生きる力(生の欲望)を実感しそれを行動的に発揮していくこととの、関係の中で私たちが生きていくことです。恐怖はそのまま恐怖になりきるしかなく、それと同時にわれわれの欲望はつきることなく、またそれをあきらめることはできないのです。この二つの事実が森田の治療論の中心的概念です」(p.204)
この考え方は「目から鱗」である。
どうしても、恐怖から逃れたいし、生の欲望を抑えたいと思ってしまい、その結果、悩んでしまうのだが、「恐怖と欲望はそのまま放っておきなさい」という考え方に感銘を受けた。
森田療法を通して、「ありのままを生きる」ことの大切さを学んだ。
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『はじめての森田療法』(読書メモ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/47/eb/cfa957a5202829fbc27c7a10b52d8f8f_s.jpg)
森田療法に関する本は3冊目であるが、もっともわかりやすかった。
ところで、森田療法とは何か?
勝手な理解によれば、次のような考え方である。
「悩まないようにしよう」と思うほど悩んでしまう悪循環に陥ってしまうので、まず悩んでしまう自分の状態を放っておくこと。その上で、自分にできる作業に集中し、創意工夫をすればよい。そのうちに、悩みはどこかに消えていく。人間が精神病になる主な理由は、「かくあるべし」という理想の自己が肥大化してしまい、現実の自己と乖離してしまうことにある。
著者の北西先生は言う。
「「できないこと」をありのままに受け入れて、「できること」に注目し、それに取り組み、没頭することが問題の解決の鍵となることです」(p.88)
この考え方は、一般の人にとっても示唆に富む。
実は、デカルトも『方法序説』において近いことを述べていることに気づいた。デカルトは研究を進めるために4つの規則を提案しているのだが、第2と第3の規則が森田療法の考え方に近いのだ。
「第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、段階を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識に昇っていき、自然のままではお互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと」(p.28-29)
まず目の前の「できること」から始め、ステップ・バイ・ステップで昇っていけば、結果的に「あるべき地点」に到達できるのである。
当たり前のようだが、これが実行できるかどうかが成長のカギとなるように思った。
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あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる
あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる
(詩編55章23節)
(詩編55章23節)
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精神、物体、神
「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という真理を、哲学の第一原理として定めたデカルトは、次のように述べている。
「ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と」(p.47)
たしかにその通りである。
どんな状況にあっても、考えている限り、人間は人間として存在する。
次に強調されているのは神の存在である。
「自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのかを探求しようと思った。そしてそれは、現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない、と明証的に知った。(中略)その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている、つまり一言でいえば神である本性だ」(p.48-49)
精神と物体の二元論を打ち立てたデカルトだが、同時に神をその根本に置いている点はあまり知られていないように思った。
出所:デカルト(谷川多佳子訳)『方法序説』(岩波文庫)
「ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と」(p.47)
たしかにその通りである。
どんな状況にあっても、考えている限り、人間は人間として存在する。
次に強調されているのは神の存在である。
「自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのかを探求しようと思った。そしてそれは、現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない、と明証的に知った。(中略)その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている、つまり一言でいえば神である本性だ」(p.48-49)
精神と物体の二元論を打ち立てたデカルトだが、同時に神をその根本に置いている点はあまり知られていないように思った。
出所:デカルト(谷川多佳子訳)『方法序説』(岩波文庫)
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『方法序説』(読書メモ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/54/a2/7bef0de5eeb11853edaa5dc23062a697_s.jpg)
「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(p.46)で有名な哲学者デカルト。
本書を読んで驚いたのは、哲学に限らず数学や医学といった自然科学も研究していた幅の広さ。
そして感銘を受けたのは、学問に対する真摯さである。
「自分の発見したことがどんなにささやかでも、すべてを忠実に公衆に伝え、すぐれた精神の持ち主がさらに先に進むように促すことだ。(中略)先の者が到達した地点から後の者が始め、こうして多くの人の生涯と業績を合わせて、われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにするのである」(p.83-84)
自分という存在だけでなく、世代を超えた他者との協働も意識している点が素晴らしい。
「今までわたしが学んだわずかばかりのことは、わたしのまだ知らないことに比べればほとんど無に等しい、しかもわたしはまだ学びうるという希望を捨てていない、このことを知っていただきたいと思う」(p.88)
たとえ自分の貢献がわずかなものであっても、そこには意味があるし、少しでも先に進むことができると信じているデカルト。このとき41歳である。
本書を読み、仕事に対する姿勢を学んだ。
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人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい
(ルカによる福音書6章31節)
(ルカによる福音書6章31節)
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夫婦の絆、親子の絆
堀辰雄の『風立ちぬ』(ハルキ文庫)では、主人公が婚約者・節子との愛の生活を送るために八ヶ岳のサナトリウムで暮す。
しかし、節子の最後の時、思わぬ本音を聞いてしまう。
「お前、家へ帰りたいのだろう?」
(中略)
「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」
(p.85)
この箇所を読み、なんだかんだ言って、夫婦の絆よりも、親子の絆の方が強いのかな、と思ってしまった。
しかし、節子の最後の時、思わぬ本音を聞いてしまう。
「お前、家へ帰りたいのだろう?」
(中略)
「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」
(p.85)
この箇所を読み、なんだかんだ言って、夫婦の絆よりも、親子の絆の方が強いのかな、と思ってしまった。
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『風立ちぬ』(読書メモ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/46/99/bcb29f5ce888b2684ec85c08030ce0fc_s.jpg)
肺病の彼女につきそい、八ヶ岳のサナトリウムで暮らす主人公。堀辰雄の実体験に基づくリアルな作品である。
どこか自己中心的な理想の愛を求める前半より、彼女が亡くなった後に、一人山で暮らす後半の記述がすばらしい。
「そうしてはあはあと息を切らしながら、おもわずヴェランダの床板に腰を下ろしていると、そのとき不意とそんなむしゃくしゃした私に寄り添ってくるお前が感じられた。が、私はそれにも知らん顔をして、ぼんやりと頬杖をついていた。そのくせ、そういうお前をこれまでになく生き生きと―まるでお前の手が私の肩にさわってはいましまいかと思われるくらい、生き生きと感じながら……」(p.97)
病から死、そして再生の物語を堪能した。
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