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『バッファロー'66』(映画メモ)

『バッファロー'66』(1998年、ヴィンセント・ギャロ監督)

抜群に面白い、シュールな映画である。

以前観たことあるのだが、もう一度観たくなった。

刑務所を出たビリー(ヴィンセント・ギャロ)は、分裂気味のやばい雰囲気を漂わせながら、ニューヨーク州バッファローの実家に帰る途中で、行きずりの娘レイラ(クリスティーナ・リッチ)を拉致する。

なぜか?

それは親にフィアンセを連れて帰ると嘘を言ったからである。「家では俺を立てろ」と命令されたレイラは恋人を演じるうちにビリーに好意を寄せるようになる。ちなみに両親はかなり自分勝手な人たちで、ビリーが歪んでいるのはそのせいであろう、と思わせる設定。

よくわからない理屈の復讐心に燃えるビリーは、元アメフト選手でストリップ劇場オーナーを殺そうとするのだが…

日本版キャッチ・コピーは「最悪の俺に、とびっきりの天使がやってきた」。上手い文句である。

人生は、出会いによって変えられる。そう感じさせる映画である。








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人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません

人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません
(使徒言行録5章29節)


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自分らしい仕事

今日、スポーツニュースを見ていたら、負けてしまった鶴竜が「勝とうという意識が強すぎて、自分の相撲がとれなかった」と言っていた。

最近、「本当の自分」「自分らしさ」といった意味のAuthenticityという概念に注目しているのだが、鶴竜のコメントはまさに「自分らしい仕事ができなかった」ということである。

勝とうとするあまり、自分らしい相撲がとれないお相撲さんと同じように、「売ろうとするあまり、自分らしい売り方ができない営業マン」もいるだろう。

長い目でみると、結果よりもプロセスに注目し、自分らしい仕事をしている人のほうが成長できるのではないか。

相撲のニュースを見て、そんなことを感じた。





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『ドグラ・マグラ』(映画メモ)

『ドグラ・マグラ』(1988年、松本俊夫監督)

夢野久作の小説を映画化したもの。

まず、冒頭シーンの歌が不気味である。

胎児よ
胎児よ
なぜ踊る
母親の心がわかって
おそろしいのか


舞台は大正末期。九州にある大学病院の精神科に収容されている呉一郎は記憶喪失なのだが、実は恐ろしい事件を起こしていた。なぜか?それは「」である。

呉一郎の祖先・呉青秀は、中国唐時代の画家だったのだが、皇帝をいましめるために、自分の奥さんを殺し、死体が腐ってゆく様子をスケッチしていた。その後、日本に渡った青秀の異常性欲が一郎に「心理遺伝」したのだ。そこに、教授たちの出世欲が絡んで事態が発展してゆく。

なんとも不思議な雰囲気のこの作品を見て、人間の持つ「原罪」の恐ろしさを感じた。

ちなみに、大学教授役で出てくる桂枝雀の怪演が凄かった。



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わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください

わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください
(ネヘミヤ記13章31節)


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『星条旗の聞こえない部屋』(読書メモ)

リービ英雄『星条旗の聞こえない部屋』講談社文芸文庫

著者のリービ英雄は、ユダヤ系アメリカ人。日本人の血は一滴も入っていないにもかかわらず、日本語で小説を書いてしまったすごい人である(ちなみに「英雄」というミドルネームは、父親の日系の友人からとった名前らしい)。

本書は、著者の経験(横浜のアメリカ領事館に勤務する父親と暮らしていた頃のこと)を基にした自伝的小説である。

日本語が話せない主人公ベン・アイザックは、大学生・安藤と交流しながら、少しずつ日本の世界に入ろうとする。最も印象的なのは、家出をして、新宿の喫茶店「キャッスル」でバイトをする場面。

バイトの先輩「ますむら」に冷たくされながら、一生懸命「ますむら」の真似をし、接客を覚えようとするベン。

「ベンが中二階に背を向けた瞬間、たくさんのささやき声が起きたという気がした。階段を下りる途中で、トレイにコーヒーをのせて上がってくる「ますむら」とすれ違った。「ますむら」は黙っていた。ますむらさん、あなたになってやるぞ」(p.141)

新しい世界に飛び込むとき、腰が引けてしまうことがある。そんなときでも、一歩前に出る姿勢が大切になる、ということが伝わってくる作品である。













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『俺はまだ本気出してないだけ』(映画メモ)

『俺はまだ本気出してないだけ』(2013年、福田雄一監督)

ラストがイマイチだったが、途中まではとても良かった作品。
(ちなみに、山田孝之が上手かった)

42歳のサラリーマン大黒シズオ(堤真一)が会社を辞め、自分探しをしていたところ、漫画家になる決意をする。父親(石橋蓮司)の家に居候し、高校生の娘(橋本愛)に小遣いをねだり、おさななじみ(生瀬勝久)にたかりながら、ファースト・キッチンでバイトをしつつ、出版社に作品を持ち込むものの、ボツの嵐。やっとデビュー寸前までこぎつけたが…

本作品で一番ささった言葉がある。それは、「将来のこと考えないんですか?」という(山田孝之からの)問いかけに対してシズオが放った一言。

将来なんて考えてたら、今をちゃんと生きれねえぞ

これは深い。

巷では「なりたい姿を追求しろ」という言葉を聞くが、むしろ「こうありたい(こう生きたい)」ということの方が大事なのではないかと感じた。

つまり、結果よりプロセス、ビジョンより理念が大切なのだ。

この映画を観て、今をしっかり見据えて生きたい、と思った。







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信じない者ではなく、信じる者になりなさい

信じない者ではなく、信じる者になりなさい
(ヨハネによる福音書20章27節)

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『小公女』(読書メモ)

フランシス・ホジソン・バーネット(畔柳和代訳)『小公女』新潮文庫

大富豪のお嬢さんセーラが一瞬のうちに孤児になり、奴隷のように働かされていたが、再び金持ちになるというベタなストーリー。

しかし、召使いとしてひどい仕打ちを受けるセーラが耐える場面は感動的である。意地悪な主人(校長)のミンチンというおばさんがとても憎らしいので、セーラのけなげさが強調される。やはり、小説やドラマにおける「悪役」は大切だと思った。

ところで、ろくに食事もできず、朝から晩まで働き詰めで、使用人にいじめられ、ねずみが出る屋根裏部屋に住むセーラは、なぜ耐えることができたのか?

それは「自分はプリンセスだ」と思い込むようにしたからである。

「何が起きても、変えられないものがひとつある。私がぼろをまとったプリンセスでも、気持ちはいつだってプリンセスでいられる。黄金の布のお洋服をまとっていたら、プリンセスでいることは簡単だけれども、誰にもしられずにずっとプリンセスでありつづけるほうが、よっぽど大きな勝利だわ」(p.185)

この小説の中で最も感動したのは、食事を与えられず飢えていたセーラが、手に入れたパンを乞食の少女にあげてしまう場面。

「「ほら」セーラは言って、ぼろで覆われた膝にパンを乗せた。「おいしくてほかほかよ。食べて。そうすれば、ひもじさが少しはおさまる」(p.212)

一見、子供向けのお話しのようだが、苦境にどのように立ち向かえばよいか、について書かれていると思った。











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『愛は静けさの中に』(映画メモ)

『愛は静けさの中に』(1986年、ランダ・ヘインズ監督)

原題「Children of a Lesser God(小さき神の、作りし子ら)」を考えると、邦題は(上手いのだが)やや軽さを感じる。

しかし、映画はとても良かった。

田舎の聾学校に赴任したジェームズ(ウィリアム・ハート)は、学校の掃除婦をしていた聾唖者のサラ(マーリー・マトリン)と出会う。自分の中に閉じこもり攻撃的なサラだったが、徐々にジェームズの愛を受け入れ、一緒に住むようになる。しかし、「話す訓練をしよう」と迫るジェームズに反発するサラ。

「あなたは、あなた好みの私を作ろうとしている」「本当の私を見ようとしない」(たしかこんなセリフ)というサラの言葉は響いた。

なぜなら、自分の中にもジェームズ的な性質があるからだ。

他者を本当に理解し、つながる難しさを感じた。



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