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『天災と日本人』(読書メモ)

寺田寅彦『天災と日本人』角川ソフィア文庫

物理学者(地震学者)であり随筆家・俳人でもあった寺田寅彦の随筆集である。

本書では、自然環境が文化を規定していることが繰り返して述べられている。特に日本の場合、頻発する台風や地震の影響が大きいという。

最も印象に残ったのは「災難の進化論的意義」という考え方。

「平たく云えば、吾々人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって、ちょうど野菜や鳥獣魚肉を食って育って来たと同じように災難を食って生き残って来た種族であって、野菜や肉類が無くなれば死滅しなければならないように、災難が無くなったらたちまち「災難飢餓」のために死滅すべき運命におかれているのではないかという変わった心配も起こしえられるのではないか」(p.97)

生きていると、いろいろな災難が襲ってくるが、それらは私たちを鍛えてくれる教師であるともいえる。





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あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない
(申命記5章8節)
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『万葉集』(読書メモ)

角川書店編『万葉集』角川ソフィア文庫

万葉集に収められている4500以上の歌の中から、約140首を選んで解説してくれているのが本書である。

さまざまな歌がある中で、心に迫ってくるのは、やはり人の死を悼む「挽歌」。旅人と憶良の歌を紹介したい。

若ければ 道行き知らじ 賄はせむ 黄泉の使 負ひて通らせ」(九〇五 山上憶良)
(まだ幼いから、道がわからないだろう、贈り物をいたしますから、黄泉(=地下の、死者の世界)の使者よ、どうぞこの子をおぶってやってください)(p.159)

世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」(七九三 大伴旅人)
(世の中は空しいものだと知る時こそ、いよいよますます悲しいのだった)(p.143)

このとき旅人は、自分の赴任先である九州で妻を亡くし、その後、妹の夫の訃報を聞いたらしい。

さらに、次のような酒の歌も詠んでいる。

なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ」(三四三 大伴旅人)
(中途半端に人間であるよりも酒壺になってしまいたいよ。そうすれば、たっぷりと酒に浸ることができるだろう)(p.121-122)

旅人のやりきれなさが伝わってきた。



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舵を切る

放送作家の鈴木おさむさんは人生のターニングポイントとして、大島美幸さんとの結婚を挙げている。

「人生で「こっちに進んでみよう」とみずから舵を切ってみることはとても大切なことだと思います。僕にとって大島との結婚が人生の大きな”舵切り”でした。「こっちに向かって船を進めてみよう」と自分から積極的に動かなければ、人生は変わっていかないんじゃないかな」(p.3)

人生には、何度か大きく舵を切る機会が訪れる。

しかし、結局、舵を切らずに進むことも多いのではないか。そこには不安があるからである。

舵を切ることができる人は、「こっちに行けばよいことがあるに違いない」という何らかの直観を感じているのかもしれない。

そうした直観を大事にしたいと思った。

出所:ビッグイシュー日本版Vol.307

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自分自身の内に塩を持ちなさい

自分自身の内に塩を持ちなさい
(マルコによる福音書9章50節)


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『コロンブスは何を「発見」したか』(読書メモ)

笈川博一『コロンブスは何を「発見」したか』講談社現代新書

アメリアを「発見」したコロンブスについて書かれた本である。

コロンブスはイタリアで生まれてポルトガルに渡り、スペイン王国に金を出させてアメリアに渡った人だが、実はユダヤ人であった、という点が本書のメインメッセージ。

この本を読んで改めて感じたのは、当時のヨーロッパがイスラム諸国に押されっぱなしであったとう事実。長い歴史を見ると、キリスト教を基盤とする西欧諸国とイスラム諸国はしのぎを削る関係にあり、そこにユダヤ人が絡んでくるという点は、昔も今も変わらない。

著者の笈川氏によれば、キリスト社会から迫害されていたユダヤ人の有力者が、自分たちの行き先として期待したのが「新大陸」アメリカである。コロンブスは運良く、その流れに乗れた、ということだろう。

最もインパクトがあったのは、西欧諸国の犠牲になって多大な犠牲を払った現地人「インディオ」と、奴隷として利用されたアフリカの人々の悲惨さである。

基本的な構造は、500年前も今も変わっていないな、と感じた。



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負の欲求と正の欲求を組み合わせる

『ひとはなぜ戦争をするのか』の中で、フロイトは、人間が持つ二つの欲動について説明している。

一つは、保持し統一しようとするエロス的欲動(愛に関する欲動)、もう一つは、破壊し殺害しようとする欲動(攻撃本能)である。フロイトは、どちらの欲動も人間になくてはならないものだという。

「二つの欲動が互いを促進し合ったり、互いに対立し合ったりすることから、生命のさまざまな現象が生まれて出てくるのです。一方の欲動が他方の欲動と切り離され、単独で活動することなど、あり得ないように思えます」(p.40)

この考え方には共感できる。

目標志向性には、他者の評価を気にする「業績志向」と、自身の成長を目指す「学習志向」があるが、これらも連動しながら人を動かしているように思うからである。

負の欲求と正の欲求をいかに組み合わせ、全体として建設的な方向にもっていくかが鍵になる、と感じた。

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わたしは悪人が死ぬのを喜ばない

わたしは悪人が死ぬのを喜ばない
(エゼキエル書33章11節)

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『ひとはなぜ戦争をするのか』(読書メモ)

アインシュタイン/フロイト(浅見昇吾訳)『ひとはなぜ戦争をするのか』講談社学術文庫

アインシュタインとフロイトの往復書簡である。

アインシュタインは、フロイトに対し「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」という問いを投げかける。

これに対し、フロイトは「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない!」(p.45)、ただし「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」(p.55)と結論づけている。

なぜか?

それは、文化が発展すると、知性が強まり、攻撃本能が内に向かっていくからである。

「文化の発展が人間に押しつけたこうした心のあり方―これほど、戦争というものと対立するものはほかにありません。だからこそ、私たちは戦争に憤りを覚え、戦争に我慢がならないのではないでしょうか。戦争への拒絶は、単なる知性レベルのでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。少なくとも平和主義者なら、拒絶反応は体と心の奥底からわき上がってくるはずなのです」(p.54)

やや単純化しすぎだとは思うが、「攻撃本能の内面化」という考え方が面白い。攻撃が内面に向かっていくと、自己否定になり、他者に危害を与えるという気持ちが低下するということだろう。

しかし、フロイトは気になることも言っている。

「冒瀆的に聞こえるかもしれませんが、精神分析学者の目から見れば、人間の良心すら攻撃性の内面化ということから生まれているはずなのです。お気づきでしょう。このような攻撃性の内面化が強すぎれば、ゆゆしき問題となります。ですが、攻撃性が外部世界に向けられるなら、内面への攻撃が緩和され、生命体に良い影響を与えます」(p.44)

つまり、自分を守ろうとすると攻撃性が外部に向けられるが、その攻撃性が内面に向かうと自分を滅ぼしてしまうのである。

攻撃性の内面化が進みすぎると戦争が起きる可能性は低くなるかもしれないが、精神病や自殺が多くなるというジレンマに陥る可能性がある。

人間や社会を「攻撃性」の面から考えると、違った世界が見えてきた。


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第三者の存在

『ひきこもり新聞』を創刊した木村ナオヒロさんは、大学卒業後、司法試験の宅浪生活をしているうちに「ひきこもり」になってしまったという。

立ち直るきっかけとなったのが、先日紹介した「オープン・ダイアローグ」。木村さんは言う。

「もともと父も僕も声が大きく、何時間でも怒鳴りあえる体力の持ち主(笑)。家だと怒鳴り合いにしかなりませんでした。それが他者を交えることで初めて対話ができ、悩みや不安を、受けてもらうことができました。これをきっかけに、家計を整理し、生活を見直すことで、一人暮らしなど新しい活動を始めることができたのも大きかったです」(p.9)

これを読み、オープンに対話することの難しさがわかった。真の対話のためには、第三者の存在が鍵になるのかもしれない。

出所:ビッグイシュー日本版Vol.305.
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