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『反貧困:半生の記』(読書メモ)

宇都宮健児『反貧困:半生の記』花伝社

サラ金問題に正面から立ち向っている弁護士として有名な宇都宮氏の本。いろいろなところで発表された原稿を寄せ集めたものであるため重複が目立ち、正直言って読みにくい。しかし、そこに書かれていることには迫力がある。

宇都宮弁護士といえばサラ金問題であるが、そのテーマに出会ったのはまったくの偶然であった。

東大在学中に司法試験に合格して弁護士になったものの、イソ弁(法律事務所の居候弁護士)生活を12年間も送った話は有名である。宇都宮氏は、その頃を振り返り、次のように語っている。

「その頃、事務所に行っても自分の仕事はないと。事務所としての仕事はあるけど、自分がとってきた仕事はない。当然展望も全くないわけですね。だから午前中は喫茶店で漫画雑誌ばっかり読んでました。モーニングを食べながら『モーニング』を読んでた(笑)。マンガ雑誌のね。あの頃は『ああ播磨灘』とか『課長島耕作』とか読んで、みんな苦労しているなあと(笑)。俺だけじゃないんだと。そういうところでずいぶん励まされたというか、気を紛らわせてましたね」(p.26)

そんなことしているうちに、はじめの法律事務所をクビになり、二度目の事務所に移る。しかし、そこでも顧客がつかない。その当時、サラ金事件が問題となり、その処理方法が誰もわからなかった。誰もやりたがらないので、宇都宮氏のところに仕事が回ってきたらしい。

「困った弁護士会の職員が、どうも宇都宮っていう暇そうなやつがいる(笑)、人も良さそうだし、八年経ってもイソ弁でウロチョロしているから、やってくれるんじゃないかって、僕にその事件を回すようになったんです」(p.28)

その後は、サラ金・ヤミ金問題の第一人者となり、非正規採用の問題や地下鉄サリン事件も担当し、日本における貧困問題に深く関わるようになる。ライフワークというか、生涯をかけたテーマというものは、偶然やってくるのだな、と思った。

しかし、宇都宮氏がサラ金問題や貧困問題に取り組んだのは偶然だけではない。本書に一貫して主張されているように、農家を営むお父さんからの影響が強いようだ。

人生にはさまざまな波がやってきて、その波に乗るかどうかで人生の方向性が決まるように思えるのだが、決め手はそれまでに培われた当人の価値観なのだろう。本書を読み、自分の価値観をしっかりと見定めることの大切さを感じた。





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失われた情熱

日経ビジネス2013年1月21日号の「ソニー:情熱を取り戻せるか」という記事を読んだ。その中で平井社長は次のように言っている。

「残念なことですが、ソニー社員が、自分たちの商品に対する情熱や思い入れが薄れてきているな、と感じています。会社が大きくなったからかもしれませんが、自社の商品、サービス、コンテンツに対してやっぱりプライドを持ってほしい」(p.55)

このような状況はソニーだけに限らず、日本企業全体に言えることではないかと思った。リストラで人々が去り、自分もいつクビを切られるかわからない。行き過ぎた成果主義で職場の雰囲気はすさんでしまった。このような中で、情熱を持って仕事をすることのほうが難しいような気がする。

では、そうすれば情熱を取り戻せるのか。

「働きがいのある会社調査」を主催するGreat Place to Workによれば、働きがいは
1)経営者・管理職に対する「信頼
2)職場における「連帯感
3)仕事に対する「誇り
によって構成される。

これら3要因の因果関係についてはよくわからないが、信頼→連帯感→誇り(情熱)というつながりがあるような気がする。もしそうだとすると、仕事に対する情熱や誇りを取り戻すためには、経営者に対する信頼や職場の連帯感を高める必要がある。

前にも書いたが、経営再建中のりそなの社員の方が「経営者が自分たちのことも考えてくれていると感じたときから、社内のモチベーションが上がった」とおっしゃっていたのを思い出した。

経営者の社員への愛が情熱を取り戻す鍵なのかもしれない。



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人を裁くな

人を裁くな
(ルカによる福音書6章37節)

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『岸辺のアルバム』(読書メモ)



山田太一『岸辺のアルバム』光文社

昔、話題になっていたドラマの原作である。番組は見ていないのだが、「岸辺のアルバム」というタイトルが美しいなと思って読んでみたところ、内容はドロドロだった。

ここまで壊れてしまった家族はないだろう、というくらい壊滅状態の家族が再生していくプロセスが描かれている。

家庭を顧みないモーレツサラリーマンの父親のせいで、母親が不倫に走り、アメリカ人とつきあっていた大学生の娘が強姦され、何とかしようと奮闘していた高校生の息子が傷ついてく。

主人公(?)の繁(息子)が気にくわないのは、ひどい状態であるにもかかわらず、何事もなかったように振る舞う家族の様子である。

「強姦されようとされまいと、浮気をしようとすまいと、わが家はなにひとつ変わらずに予定通り平穏に過ぎて行く。これが人間かね?こんな人間の生活があるかね?女房が浮気したと聞いたら半信半疑だってカッとなるのが人間じゃないのか?」「問題は生命(いのち)が燃えているかどうかだ」(p.331)

崩壊しかけていた家族は、お互いの問題を直視し、ぶつかり合うことで、ふたたび一つになろうとする。

本書を読み、「本音で話し合えるかどうか」が良い家族の条件かもしれない、と思った。




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まことにあなただけが

まことにあなただけがすべての人の心をご存じです
(列王記上8章39節)


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『菊次郎とさき』(読書メモ)

ビートたけし『菊次郎とさき』新潮文庫

毎週、読書メモを書いているが、実は、感想を書きたいと思う本は2冊に1冊くらいの割合であり、あまり多くはない。

先日、ビートたけしさんの『菊次郎とさき』を読んだ。とても面白かったのだが、あまり読書メモを残そうという気持ちにはならなかった

もちろん、お母さんのさきさんのエピソードはめちゃくちゃインパクトあるし、感動するのだけれども、改めて何かを書き残すという気にならなかったので、そのままにしておいた。

で、何日か経って、フッと思い浮かんだのが、たけしさんのお父さん菊次郎さんのこと。菊次郎さんは、ペンキ職人なのだが、小心者で、お酒が好きで、家で暴れてさきさんに暴力をふるい、家にお金も入れないし、授業参観には酔っ払ってやってくるし、家族の中でのけ者扱いされているような、ある意味、どうしようもないお父さんである。

お兄さんの大さんも「正直、オヤジに関しては、申し訳ないんですが、あんまりいい思い出がないんですね」(p.123)と言っている。

しかし、そんなダメ親父である菊次郎さんなのだが、妙に心に残るのである。特に、読んでから3日くらい経って心に迫ってきたのは次の記述であった。

「でも、最近ふと、オヤジはよくおいらに笑いかけていたような気がすることがある。声をかけてもらった記憶はほとんどない。でも、ニヤッと笑ったオヤジの顔ならいくつも思い浮かべることができる。仕事を手伝っている時、ペンキを塗っているおいらを見て笑った顔。信濃屋に迎えに行った時の嬉しそうな顔。そんな顔をなぜか時々、思い出すようになった」(p.95)

本書をよく読んでみると、あんなにダメ親父なのに、子どもたちはよくお父さんの仕事を手伝っている。

「おいらも下の兄貴と一緒に、よく手伝わされた。中学の頃は、日曜日には野球をやりたくてたまらないのに朝、寝ていると兄貴に叩き起こされる。「たけし、起きろ。父ちゃんの仕事だぞ」(p.85)

お父さんが亡くなる前には、家族がかわるがわる病院に泊まり込み看病している。「バカヤロウ、俺を何だと思ってる」「オレは武の親だ、このヤロウ」というお父さんのセリフは、たけしさんの口癖そのものである。

かっこよくなくても、尊敬されていなくても、どんなにメチャクチャでも、お父さんは子どもを教育しているんだな、と思った。

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いつも感謝していなさい

いつも感謝していなさい
(コロサイの信徒への手紙3章15節)

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『復活』(読書メモ)

トルストイ(木村滋訳)『復活(上下)』新潮文庫

一度読んで挫折しかけたのだが、年末から正月にかけて根性で読みすすめたところ、途中から面白くなった。

主人公であるネフリュードフ公爵は、若い時に、叔母の家で女中をしていたカチューシャ(マースロワ)を犯し、見捨てた過去を持つ。あるとき陪審員として参加した裁判で、娼婦となったカチューシャが殺人の罪(本当は無実)で裁かれていた場面に出会う。自分の罪を償うため、彼女に結婚を申し込むもののはねつけられるが、徐々に二人の距離は縮まっていく、という筋書きである。タイトルにあるように、ネフリュードフとカチューシャが、堕落していた生活から復活を遂げるプロセスが描かれている。

本書は、トルストイが晩年に書いた長編だが、「革命前のロシアの体制批判」が半分くらい書かれているのでチョット堅めである。さらに、主人公ネフリュードフは私有財産を否定し、自分の領地を全て農民に返そうとする。寝ていてもお金が入ってくる身分を捨て、牢屋に入っている女性と結婚しようとする筋書きに、やや不自然さを感じたのだが、途中からだんだんと迫力が増してきた

解説を読んでみて、なぜ本書に迫力があるのかがわかった。それは、本書の内容は、かなりの程度、トルストイ自身の体験をベースに書かれていたからである。トルストイは、死ぬ直前、自分の伝記作家に次のように語ったという。

「君は私についてよいことばかり書いている。それは正しくないし、不十分だ。悪い面も書かなくてはいけない。若いころ、私はとてもひどい生活を送ったものだが、当時の生活で特に二つの事件が今もなお私の心を苦しめている。いま私は伝記作者としての君にこのことを告白して、君が私の伝記のなかにそれを書くようお願いしておく。その一つは、私が結婚前に、持ち村の百姓女と関係していたことだ。この件については短編『悪魔』のなかにヒントがある。第二の件は、私が叔母の屋敷にいたガーシャという小間使いを犯した罪である。彼女は純潔な処女であったが、私が誘惑したために、叔母の屋敷を追われ、身をもちくずしてしまったのだ」(p.488-489)

この本は、トルストイが自分の罪を告白し、それを小説の中で解消しようとした作品だったのだ。トルストイの葛藤が伝わってきて、読者が持つ罪の意識をもゆさぶってくる本書は、やはり名作だと思った。



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わたしはあなたに力を与えたが

わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった
(イザヤ書45章5節)


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年初の目標

家内から「今年の目標は何?」と聞かれたので、答えた。

しかし、「昨年の目標は何だったっけ?」と自問してみたものの、思い出せなかった

1年の目標を意識し続けるということは、なかなか難しいことである。

自分は、かなり刹那的に生きている、ということがわかった。
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