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『サキ短編集』(読書メモ)

サキ(中村能三訳)『サキ短編集』新潮文庫

O・ヘンリと並び短編の名手といわれる英国の小説家サキ。

その特徴は「暗さ」にある。

21の短編が収められた本書であるが、どの作品も終わり方が暗い(ブラックジョークとも言うが)。

もっとも印象に残ったのは「運命」「おせっかい」

お金もなく行き倒れかけた先で、自分そっくりの行方不明の息子になりすましたストウナーだが、安楽な生活の後で悲劇が訪れる(「運命」)。

憎しみ合ってきたウルリッヒとゲオルグだが、森で木の下敷きになったことをきっかけに仲良くなりかける。しかし、身動きできない二人の前に現れたのは…(「おせっかい」)。

中村氏の解説を読むと、サキは不幸な子供時代を送ったことが判明(父がビルマ赴任時に2歳で母を亡くし、イギリスに返された後は、厳格な伯母の下で育てられたらしい)。

人生観が作品に反映されることがわかった。






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『行きずりの街』(映画メモ)

『行きずりの街』(2010年、阪本順治監督)

在学中の教え子とつき合い結婚し、高校をクビになり、離婚して故郷に帰り、塾講師をしている波多野(仲村トオル)。

小さい頃からサポートしていた塾の教え子・ゆかりが上京した後、失踪したため、12年ぶりに東京へと向かう。離婚した雅子(小西真奈美)と再会した波多野が、辞めた高校の汚職事件に巻き込まれながら、ゆかりを救出するという物語。

ストーリーにはやや無理があるものの、仲村トオルの持つ独特の雰囲気、小西真奈美の演技力、悪役達(石橋蓮司、窪塚洋介、菅田俊)の憎たらしさもあり、結構楽しめた。

一番の見どころは、取り壊し予定の校舎における格闘シーン。「この状況からどうやって抜け出す?」というハラハラ感の演出は、さすが阪本順治監督である。

自分中心で不器用な波多野が、何とか自分の弱点を乗り越えようとするところも良かった。


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この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか

この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか
(エステル記4章14節)

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『クリスマス』(読書メモ)

カール・バルト(宇野元訳)『クリスマス』新教出版社

神学者カール・バルトの、クリスマスにまつわる説教やエッセイをまとめたもの。

少し説教くさいが(説教なのでしょうがないが)、響くものがあった。

1932年12月25日に語られた「思い煩いと神」の冒頭は、使徒パウロの言葉で始まっている。

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、賛美と祈願をささげ、感謝して、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4・6)

これに関して、バルトは言う。

「人間が自力で切りぬけようとするのはよくない。「人間が自力で切りぬけようとする」―このことは一語でとらえられる。その後の最もシリアスな意味で、人間の「罪」だ。だが人間は、自分が望むことを成し遂げられない。かえって、鎖によって傷だらけになってしまう」(p. 49)

えっ?自分で頑張っちゃいけないの?と思ってしまう。しかも、一人で頑張ることは「罪」になるという。ではどうすればいいのか?その鍵は「感謝して、求めているものを神に打ち明けなさい」という言葉にある。

「だから、求めているものを神に打ち明ける者でありたい―それはこういう意味だ。「とことん、助けていただく者でありたい、飼い葉桶のみどりごによって、じじつ助けられているとおりに。」それだから、ここで語られていることのなかで、感謝が際立つ。大なり小なり活動することだけでなく、賛美し、祈願することも、感謝から、喜ばしい承認から真に始まるのでないなら、それこそ愚かしい滑稽な自助努力になってしまうだろう」(p. 56)

ちょうどいろいろと思い煩い、自分でなんとかしようと思っていたときだったので、ギクッとした。

助けてもらっている者として、感謝して、祈り、願うことの大切さを感じた。



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『パンク侍、斬られて候』(映画メモ)

『パンク侍、斬られて候』(2018年、石井岳龍監督:脚本、宮藤官九郎)

腕の立つ浪人・掛十之進(綾野剛)が、黒和藩の家老・内藤帯刀(豊川悦司)に取り入り、ライバルの次席家老・大浦主膳(國村隼)を蹴落とすために、「腹ふり党」(信者が腹を振りながら暴れまわる新興宗教)をたきつけて騒ぎを起こすように命じられる。

しかし、予想以上に騒ぎが大きくなり、収拾がつかなくなるという物語。

この映画のハチャメチャ度は半端なく、観終わった感想は「?」。

錚々たる役者陣(浅野忠信、永瀬正敏、北川景子、東出昌大等)を惜しみなく起用しているにもかかわらず「これかい?」と思ったが、「すごいものを観た」という感じもするから不思議である。

特に、染谷将太(幕暮孫兵衛役)の「いっちゃってる度」が凄まじかった。

1点印象に残ったのは、内藤家老の陰謀にはまり、猿回し師にされてしまう大浦家老が、「猿といるほうが幸せだ」と逆に自分らしい生活を取り戻す場面。

同じく左遷されてしまう長岡(近藤公園)は、侍としてはダメなのだが、猿回し師としては天才的であることがわかるところも良かった。

訳のわからないストーリーの中に、現実的なストーリーが挟まれていると、沁みるものである。
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信じない者ではなく、信じる者になりなさい

信じない者ではなく、信じる者になりなさい
(ヨハネによる福音書20章27節)

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『エール!』

『エール!』(2014年、エリック・ラルティゴ監督)

フランスの田舎町で酪農を営むベリエ一家。お父さん、お母さん、弟は耳に障害を持ち、高校生の娘ポーラだけが健常者である。

やたらと明るい家族で、お父さんは町長選に立候補し「障害なんて問題じゃない」という気概にあふれている。

しかし、ポーラに歌の才能があることがわかり、パリの音楽学校のオーデションを受けることを教師から勧められると、両親(特にお母さん)が猛反対。あきらめかけたポーラだったが、やっぱりオーデションを受けることになるという物語。

お父さんがポーラの歌を喉に手を当てて聴こうとするシーンは感動的である(最後のオーデション・シーンも良い)。

ちなみに、一番印象に残ったのは、本当は中央で活躍したいのにそれができず不満たらたらの音楽教師。

徐々に、自分の活躍よりも、才能ある若者の活躍を応援するマインドへと切り替えつつある点に感銘を受けた。
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『悪霊』(読書メモ)

ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『悪霊(1-3)』光文社

社会主義の変革運動が起こりつつある19世紀のロシア。ある町を舞台に、大地主のワルワーラ婦人、彼女の庇護を受ける文化人ウェルホヴェンスキー、ワルワーラ婦人の息子スタヴローギン(カリスマ的な美青年だが少し「いっちゃってる」人)、ウェルホヴェンスキーの息子ピョートル(やたらしゃべりまくる革命家?)、農奴出身で大学を中退したシャートフらが繰り広げる物語である。

これまで『貧しき人々』『死の家の記録』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『地下室の手記』を読んできたが、ドストエフスキー作品の中では「一番ピンとこなかった」というのが正直な感想である。なぜなら、いろいろな「物語の筋」がすべて中途半端に終わっているからだ。

が、やはりドストエフスキーだけあって、読ませる力があった(読まさる)。それはたぶん、登場人物が個性的で(異様にキャラがたっている)、一人ひとりにまつわるストーリーに魅力があるからだろう。

スタヴローギンの告白(第2巻「チーホンのもとで」)は感動的なのだが、そこだけなぜか浮いてしまっており、ラストと結びつくようで結びつかないのが残念である。

一番心に残ったのは、ワルワーラ婦人とウェルホヴェンスキーの奇妙な愛(友情?)。

昔は論壇で活躍したこともあるが、今は「過去の人」であるウェルホヴェンスキーは、ワルワーラ婦人に「養われている」おじさん。一方、ワルワーラ婦人は勝手な人で、地元の社交界を牛耳ろうと目論むものの上手くいかない。両者は、パトロンと文化人の関係であるが、ほのかな愛もあったりして、壊れそうで壊れずに、不思議な形でつながっているのだ。

人と人の「底にある信頼関係」の大切さが伝わってきた。

各巻末にある亀山先生の「読書ガイド」はあえて飛ばしたので、これから読みたいと思っている。

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主の慈しみは決して絶えない

主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。
(哀歌3章22-23節)

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『アンジェラの祈り』(読書メモ)

フランク・マコート(土屋正雄訳)『アンジェラの祈り』新潮社

ピューリッツアー賞を受賞した前作『アンジェラの灰』の続編である。

分厚い本なのだが、なぜか「読まさる本である」(北海道弁で「つい読んでしまう」の意味)。

前作は、アイルランドの貧しい家庭で、飲んだくれの父(家にいない)、信心深い母、弟たちと暮らす主人公フランクの話しなのだが、本書は、成功を夢見てニューヨークに渡ってきたフランクが、ホテルの雑役婦や兵役を経て、ニューヨーク大学を卒業して教師になり、自分の家庭を持つまでを描いている。

1つ驚いたことがある。それは、フランクが高校を卒業していないにもかかわらずニューヨーク大学への入学を許可されたこと。

「事務局長はやさしそうな顔をした女の人で、これは珍しいケースですね、と言う。そして、アイルランドで受けた教育のことを知りたがる。ヨーロッパの生徒がアメリカよりレベルが高い傾向にあることは、わたしも経験から知っています。では、一年間B平均の成績を維持するという条件で、入学を許可しましょう、と言う。そのあと、私の仕事を尋ね、肉の積み卸しのことを話すと、あらまあ、この年になっても毎日何かしら新しいことを学ぶものね、と言う」(p. 217)

さすがアメリカである。

もう一つ印象に残ったのは、英語教師として初めて赴任した職業高校で、やる気のない学生をやる気にさせる教育法。それは、生徒たちの両親世代が書いた作文(採点もされずに倉庫にほったらかしにされていたもの)を教材にすること。

「私はぼろぼろになりかけている作文を机の上に積み上げ、クラスに読んで聞かせる。知っている名前が出てきて、生徒が緊張する。わっ、それ、おれのおやじだ、と言う。おやじはアフリカで怪我をした。そっちはグアムで戦死したサルバトーレおじだ。私は作文を読みつづけ、生徒の目に涙が湧く。男子生徒は教室から便所へ駆けていき、赤い目をして帰ってくる。女子生徒はかまわずその場で泣き伏し、慰め合う。(中略)私たちは四月から七月まで、学期の残り全部を使って、身近な家族の身近な過去を保存する。ペンを忘れる生徒は誰もいない。みな手書きの原稿を判読し、書き写す。涙が流れ、ときには号泣が起こる。これは、十五歳のときのおやじだ、と言う。おばさんだ、お産で死んだおばさんだ・・・。」(p. 390)

本書を読み、一人ひとりの生涯に歴史とドラマがあるということを、深く感じた。
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