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社内の評判と業績評価

神戸大学の服部先生が興味深い研究結果を報告していたので紹介したい。

日本の異業種14社を対象にした調査において、「スター社員(「この人は極めて優秀だ」という評判によって検出)68人」と「一般社員309人」を比較した分析である。

ちなみに、合計377人のサンプルの中には、社内の業績評価を基準として「高業績者」とみなされた90人が含まれている。

面白いのは、この90人のうち、「スター社員かつ高業績者」は26人しかいなかった点である。ちなみに、スター社員だけれども高業績者とみなされていない人が42人、高業績者だけれどもスター社員とはみなされていない人が26人いたという。

つまり、評判は高いのに、公式的には高く評価されていない人が6割近くいることになる。

服部先生は、スター社員と高業績社員が一致していない理由として、①組織の中にさまざまな優秀さが併存している可能性と、②優秀さを評価する方法による違いを挙げている。

これ以外に、「社内の業績評価の妥当性が低い」ことも原因となっているのではないか、と思った。

調査を実施して、統計的に意味のある結果が得られるためには、妥当性の高い測定が求められる。しかし、組織の公式評価を使って業績を測定すると、統計的に意味のある結果が得られないことが(僕の経験では)多いのだ。

服部先生の報告を踏まえると、むしろ、「社内の評判」をもっと活用したほうがよいのではないか、と思った。

出所:服部泰宏「日本企業における「優秀な人材」の変化と人事管理への示唆」Business Insight No. 109 (Spring 2020), p 9-11.







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『ハンナ・アーレント』(読書メモ)

矢野久美子『ハンナ・アーレント:「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書

以前、「ハンナ・アーレント」という映画を観たので、読んでみた。たいへんクオリティの高い本で、アーレントの生きざまや考え方が理解できた。

ドイツで生まれたユダヤ人のアーレントの研究テーマは「全体主義」を解明すること。その特徴として「思考の欠如」を挙げている。

思考の欠如とは、「疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態」(p.174)である。ナチス下のドイツ国民は、まさにこの状態になったといえる。

では「思考」とは何を指すのか?

半時間前に自分に起こったことについてストーリーを語る者はみな、このストーリーを形にしなければなりません。このストーリーを形にすることは思考の一つの形態です」(p. 222-223)

著者の矢野さんによれば、アーレントは「思考の対象は経験にほかならない」「思考とは後から考えることである」「考えたいときは、世界から引っこむものだ」「思考は孤独な営みであり、自分との対話である」と言っているらしい(p. 223)。

まさに「経験の内省(振り返り)」である。

ドナルド・ショーンは、内省を「行為の中の内省」と「行為の後の内省」に分けているが、アーレントは「行為の後の内省」、しかも、他者との対話による内省よりも、自己内省を重視しているようだ。

また、アーレントは、このような自己との対話だけでなく、友情や愛情で結ばれた人間同士の関係も重視していて、両者を合わせて「オアシス」と呼び、「人間的な生」のために必要な条件としている(p. 138)。

なお、アーレントは1975年、自宅で友人と夕食をとり、食後のコーヒーを淹れている最中に倒れ、心臓発作で亡くなっている。孤独の中で著作を執筆すると同時に、最後に友人に看取られながら亡くなったアーレントの生き方にも感銘を受けた。








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『コーチ・カーター』(映画メモ)

『コーチ・カーター』(2005年、トーマス・カーター監督)

不良や落ちこぼれが集まるリッチモンド高校のバスケ部は最弱。このチームのコーチに就任したカーター(同校OBで元全米選抜選手)が、バスケ部を強くするとともに、メンバーを人間的に成長させるという物語。

ありがちなスポーツモノであるが、実話だけあって引き込まれた。

カーターの指導方針はシンプルである。

①選手を尊重する
②規律を守らせる
③わかりやすい方法で教える


①まず、選手を紳士として扱い、名前を呼ぶときにも、MrやSirをつけている。生徒が尊重されると、先生を尊敬するようになるといえる。

②次に、選手や親に誓約書を書かせて、ゼッタイに守らせる。この映画の見どころは、チームが強くなっても、選手の成績が悪いために、練習を中止して勉強させるところ。

③そして、自分のお姉さんや元カノの性格に絡めて戦法を教えるために、選手もその意図をすぐに理解する。試合中も「リンダ、リンダ、リンダだ」と名前で指示を出すところがユニークである。

一番感動するのは、「君たちが成し遂げたことは、勝ち負けなんか超越しているんだ」と、勝負よりも「生き方」を大事にするところ。

何かを教える人にとって、必見の映画である。






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だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる
(ルカによる福音書14章11節)

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問題解決学習と系統学習

佐伯胖先生によれば、日本の教育界(特に1950年代から)には「問題解決学習か系統学習か」という論争があるという。

問題解決学習とは、子供の興味や関心を大事にして、子供たちの身近な生活経験を題材に教育すべきという考え方であるのに対し、系統学習は、学問や科学の体系に即したカリキュラムに沿って教育すべしという考え方である。

ゆとり教育の見直しにも表れているように、日本の教育体制は「系統学習→問題解決学習→系統学習」と揺れているのがわかる。

しかし、「教科内容として、「身近な生活経験での題材」にするか、「科学的・体系的知識の段階的な系列」にするかという問題にすり変えられて大論争になったのは、いささか的はずれといわねばならないだろう」(p. 202)と佐伯先生はおっしゃっている。

これに対し先生は、知識体系を文化的に味わい、理解し、納得し、さらにはそれをあらためて吟味し直すという「実践への参加」の観点から教育のありかたを考えるべきであるという。

子どもの教育に限らず、こうした「学び=appreciation(理解・感謝・賞味)」の考え方は、職場の学習にも応用できるのではないか、と思った。

出所:佐伯胖『「学ぶ」ということの意味』岩波書店
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『「学ぶ」ということの意味』(読書メモ)

佐伯胖『「学ぶ」ということの意味』岩波書店

認知科学の巨匠にして学習論の大家である佐伯先生の書。その深さに驚かされた。

先生は、「学習」ではなく、あえて「学び」という言葉を使い、次のように定義している。

学びがいのある世界を求めて少しずつ経験の世界をひろげていく自分探しの旅」(p. 48)

「学びがい」とは、「わからないけれども、ともかく、何かよいことになるだろう」という期待や希望であり(p. 7)、「自分探し」とは、今の自分ではなく「これから私がなっていく本当の自分」(p. 11)」である。

ちなみに、先生は「「本当の自分の姿などは、永久見つかるわけがない。どこまでいっても、「以前よりは本当に近い」仮の姿であろう」(p. 62)とおっしゃっている。

佐伯先生が本書で強調されるのは「参加としての学び」である。

一番響いたのは4部1章で紹介されているエピソードと「appreciationとしての学び」の概念だ。

先生の親戚で、難病のために親類から見放され30年間病院のベッドで過ごした女性がいらっしゃった。お見舞いに行くと、全身で喜びを表し、感動した本の内容や、他者から親切にしてもらったことへの感謝を話されたという。

この方のお葬式で、先生は「この人の人生とは、結局なんだったのだろう」(p. 134)という疑問が湧く。そのとき、先生の頭の中で「すべての人は、生まれたときから、最後の息を引き取る瞬間まで、文化的な営みに参加している」という考えが天のお告げのように響く(p. 134)。

この女性は、世間が評価するような技能を習得したわけでもなく、何かを創造したわけでもない。しかし、感謝を込めて「本を読み、音楽を聴き、他者を理解」していたのだ。文化とは、「つくる人」「使う人」「わかる人」によって構成されていて、親戚の女性はこの「わかる」という行為に携わっていたといえる(p. 135)。

佐伯先生は、この「わかる」という行為を「appreciation(理解=感謝=賞味)」と考え、重要な学びの形態であると位置づけている。

本書を読み、学びの概念が広がった。




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『あさがくるまえに』(映画メモ)

『あさがくるまえに』(2016年、カテル・キレベレ監督)

心臓移植をテーマにしたフランス映画。ずっとバックに流れているピアノの音色が美しい。

自動車事故で脳死状態になった17歳のシモン(ギャバン・ヴェルデ)。はじめは移植を拒んでいた両親が同意し、その心臓が中年の音楽家クレール(アンヌ・ドルバル)に移植されるまでを描いている。

移植の前、息子を挟んで眠る両親の姿が脳裏から離れない。

映画というよりも、心臓移植のプロセス、家族の葛藤、医療者の熱意を実感できるドキュメンタリーのような作品である。

特に、患者や家族の立場に立って、誠実に移植をコーディネートする医師トマ役のタハール・ラヒムが良かった。

移植手術もリアルで、命が受け継がれる様子が伝わってきた。


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わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください

わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください
(ネヘミヤ記13章31節)

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『そんな自分も許してあげる』(読書メモ)

秋野月美『そんな自分も許してあげる:私の社会不安障害とパニック障害』風詠社

人の前だと字がうまく書けない「書痙」という社会不安障害、および急に恐怖や不安に襲われるパニック障害。著者の秋野さんはこの二つの障害をもちながら生きている。

秋野さんが障害を持つようになった経緯や対処法について、ユニークな語り口で書かれているのが本書。

いくつかの対処法があるのだが、一番印象に残ったのは「嫌がるとそいつよけいにこっち来るの法則」。

「逃げられる場合なら逃げたっていいです。でもどうにも逃げられない場合はくるりと相手に正面を向け、「来るなら来い」のウェルカム精神を持つことが大事です」(p.76)

いわゆる「開き直り」である。

また、精神科医にもいろいろいて、「パニック発作が起こっても死ぬことはないので安心して」と言われても安心することはできないらしい。

逆に、「精神障害を発症してしまう人は心が弱いのではなく、逆に強いのです」「強いから長く我慢できてしまい、普通の人では耐えられないほどのストレスをためこんでしまから発症しやすいのです」という精神科医の書いた記事に救われたという。

確かに、こう説明されると、安心する。

程度の差こそあれ、人は障害を持っている。そのポジティブな側面を見て、開き直れば、なんとか対処できる、と思った。




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『ブランカとギター弾き』(映画メモ)


『ブランカとギター弾き』(2015年、長谷井宏紀監督)

フィリピンを舞台にしたイタリア映画だが、監督は日本人という不思議な作品。

スラム街に住むブランカ(サイデル・ガブテロ)はホームレス(父は亡くなり、母は男と出奔)。「お母さんをお金で買う」ために、せっせと泥棒をしてお金を稼いでいる。

ある日、盲目のギター弾きピーター(ピーター・ミラリ)と出会い、バーで歌手デビューするも、いろいろあって追い出され一文無しに。

犯罪や売春の世界」と「ピーターと一緒のまともな世界」の間で揺れ動くブランカを描いたストーリーである。

この映画を観て感じたのは、人生の分かれ道における「導き手」の存在だ。同じ浮浪児のセバスチャン(6~7歳?)がいなければ、ブランカは闇の世界に引きずり込まれていただろう。

自分の周りにいる「導き手」を大切にしたい、と思った。







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