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神は真実な方です

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ・13節)
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研究という悪魔の奴隷

『さようなら、オレンジ』には、オーストラリアの大学で働く研究者の妻が出てくる。この夫婦が娘を亡くしてしまうのだが、その時の記述が印象に残った。

「夫のことを娘が死んでも研究に没頭していられる冷酷な人だと軽蔑していましたが、いまになってわかりました。彼は研究という悪魔の奴隷で、何が起きようがそれから逃れられることはできない可哀想な人なのです。心ではなくした娘のことをすすり泣きながら、ヴォーフやサピアやらにそれらの感情は拉致されて、実生活には役立たない学問の囚われ人になることをみずから望んだのです」(p.107)

この箇所はとてもよくわかる。自分はまさに「研究という悪魔の奴隷」になってしまっていると感じるからだ。「研究」を「仕事」に置き換えれば、ワーカホリックに陥っている多くのビジネスパーソンにも当てはまるだろう。

奴隷状態
から抜け出さなければならないと感じた。

出所:岩城けい『さようなら、オレンジ』ちくま文庫

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『さようなら、オレンジ』(読書メモ)

岩城けい『さようなら、オレンジ』ちくま文庫

母国アフリカで戦争に巻き込まれたサリマは、子供たちを連れてオーストラリアの田舎町にやってくる。まずは精肉工場で牛をさばく仕事を見つけ、母語しか話せないサリマは職業訓練校で英語を学ぶ

本書を読んで感じたことは、「目の前の課題に対し、誠実にコツコツ取り組むとき、信頼できる人々とつながることができる」ということ。

母国の紛争、知らない土地での生活、離れていく夫といったハンディを抱えているにもかかわらず、前を向いて歩くサリマには、慕ってくれる友人や誠実なボーイフレンドが現れる。

地道に頑張る人に、光が注がれることがわかる小説である。




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平和な人には未来がある

平和な人には未来がある
(詩編37章37節)


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満員電車の画板男

『夫婦の散歩道』の中には、津村さんと吉村さんの息子さんの手記も掲載されている。

その中で印象に残ったのは、父・吉村昭さんが会社勤めをしながら小説を書いていたことを紹介する場面。

通勤電車で座れた時は画板を取り出し、原稿用紙を広げて小説を書いているのだと父が小学生になっていた私に話したことを思い出す。満員電車に突然現れる画板男は、絵筆ではなく万年筆を取り出し黙々と細かい文字を書きつけている。子ども心にも父は異様な人間で、このことは我が家の秘密にしなくてはならず、誰にも言ってはならないのだと思っていた。私の同級生や父兄が同じ電車に乗って画板の父を見かけてしまうようなことがないことを心から願った」(p.202-203)

吉村さんの『破獄』は鬼気迫るすごい小説であったが、このエピソードも鬼気迫るものである。

僕も2年間だけであるが、会社勤めをしながら満員電車の中で研究論文を読んでいたことがあるので、このエピソードは胸にずしんと来た。何事も初心を忘れないことが大切である、と思った。

出所:津村節子『夫婦の散歩道』河出文庫

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『夫婦の散歩道』(読書メモ)

津村節子『夫婦の散歩道』河出文庫

芥川賞作家である津村節子さん
の旦那さんは小説家の吉村昭氏。吉村さんをがんで亡くした後、夫婦や家族との思い出をまとめたのが本書だ。

最も印象に残ったのは次の箇所。

「秋が深まって公園の落ち葉が厚く散り敷かれるようになると、夕闇が濃くなる頃、家の近くの道の曲がり角に夫の姿が現れる。(中略)その正体は人体くらいの太さのコンクリートの灰色の電柱で、ちょうど夫の背の高さの位置に取り付けられている緑色のプレートに黄色いペンキで通学路と書かれた文字が、眼鏡をかけた夫の顔に見えるのだ。仕事着にしていたチャコールグレーのトレーニングシャツとパンツを着て、腕組みして立っているのである。夫に見える位置と角度があり、近くの灯りと夕闇の濃さが微妙に影響する。私は、林の中を抜けて少しずつ足を運びながら夫が見える位置を探して立ち停まり、話しをする」(p.53-54)

なんて美しい話だろうか。

しかし、その後、その電柱に迷い猫を探すビラが貼られたために、吉村さんの顔が見えなくなってしまう。

「私は猫の写真を電柱の反対側に張り替えようと思った。しかし今の位置は、ちょうど人目をとらえるのによいのである。猫を探している飼主の気持ちを考えると、気の毒な気がして、少しでも早く迷い猫が見つかるように、と願うしかなかった」(p.55)

しばらくして猫の写真が剥がされてほっとした津村さんだが、新たな問題が起こる。

「貼紙がなくなったのに、最近また夫の姿が見えなくなった。電柱が立っている傍らの家の建て替えが始まって解体されたのである。(中略)電柱の位置は変わりないが、傍らの家が解体されたことで灯火の様子が変わり、夫の姿が見えなくなったのだ。もういい加減あきらめるようにということであろう」(p.56)

この箇所を読み、夫婦の絆の深さを感じた。











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主なる神よ、どうぞ赦してください

主なる神よ、どうぞ赦してください
(アモス書7章2節)


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五十歳を過ぎたら

『現代語訳 徒然草』のなかで気になったのは、「五十歳を過ぎたら」という箇所。

五十歳を過ぎたら、すべての仕事はやめてゆったりと暮らすほうがいいの。世間の俗事にとらわれているのはおろかなことです。わからないことがあれば人にたずねて、そのおおよそがわかったぐらいのところでとどめておく。最初からそういう俗事への興味がなければ、それがいちばんいいんだけどね」(p.106-107)

僕も五十歳を過ぎたので、ゆったりと暮らしたいが、仕事をしないと食べていけないので、働くしかない。
(昔の五十歳と今の五十歳は違うけど…)

出所:嵐山光三郎『現代語訳 徒然草』岩波書店
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『現代語訳 徒然草』(読書メモ)

嵐山光三郎『現代語訳 徒然草』岩波書店

吉田兼好の『徒然草』を、嵐山光三郎さんがわかりやすく現代語に訳してくれたのが本書。

まさに「つれづれなるままに」さまざまなことが(やや冗長に)書かれたエッセイだが、後半になるほど内容が深くなる。

最も印象に残ったのは「雪仏」というタイトルがついた次の箇所。

「人の生活を見て思うことは、春の日に雪だるまの仏像をつくり、その雪仏のために金銀、珠玉の飾りをとりつけたり、お堂を建てようとしているのに似ている。お堂が完成しても雪だるまの仏像を安置することはできないでしょう。人が、まだ自分の寿命があると安心しているうちに寿命がなくなっていくことは、とけていく雪仏とおなじではないでしょうか。こんなはかない一生でも、人はあくせくはたらいて、お堂の完成を待っているんですね」(p.115-116)

ただし、嵐山さんの解説によると、兼好は正反対のことを言っていることもあり、多面的なものの見方をしているところに特徴がある。たとえば、次の箇所。

「だから、一生のうち、自分がなしとげたいと思っていることのなかでなにをいちばんやりたいのかを、よくよく考えて、そのほかのことは断念して、やりたいと思う一つのことだけにはげむことが大切なんだ。一日のうち、一瞬のうちで、多くのことがやってくるなかで、なにをすべきかをよく考えてえらび、そのほかのことはやらずに、いちばんやりたいことへ急がなくちゃいけない。あれもやりたいこれもやりたいと執着しているようでは、一つのこともなしとげられない」(p.136)

「あくせくするな」といいながら「やりたいことを絞り込んでがんばれ」と言っている兼好。でも、そうした姿勢は必ずしも矛盾しているわけではなく、「世のはかなさを感じつつ、頑張る」ことが大切なのではないか、と感じた。




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若いときに軛を負った人は、幸いを得る

若いときに軛を負った人は、幸いを得る
(哀歌3章27節)


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