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暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい

暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい
(ヨハネによる福音書12章35節)

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無節操

第一生命経済研究所のエコノミスト新家義貴さんは、9年連続で「優秀予測者」に選ばれている。新家さんは言う。

「ただ自分を優秀だと思ったことはありません。実は、自分が優秀だなどと思っていると、過去の分析に固執する結果を招いてしまい、予測の精度が下がりなねないのです」

優秀者に選ばれ続けているにもかかわらず、自分を優秀だと思わないようにしている。常に自分を戒めることはかなり難しいことである。

「先入観を持つことなくデータを分析し、間違った判断をしていたことがわかったら素直に誤りを認めて修正しています。よく言えば謙虚、悪く言えば無節操。それでいいと思います」

自分は無節操と思えること自体、謙虚である。常に自分をニュートラル状態にして真実を探ることの大切さがわかった。

出所:日本経済新聞2017年12月25日



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『英国王のスピーチ』(映画メモ)

『英国王のスピーチ』(トム・フーパー監督)

最近見た3本の映画がイマイチだった中で、抜群に面白かったのが本作。

ヨーク公アルバート王子(コリン・ファース)は吃音のため、演説が大の苦手。さまざまな医師に頼むが効果なし。そんなとき、奥さんが新聞の広告で見つけたのが、オーストラリア出身の言語療法士ライオネル(ジェフリー・ラッシュ)。

治療のためには対等な関係が必要と主張するライオネルに反発していたアルバート王子だが、英国王・ジョージ6世となってしまい、ライオネルに頼らざるをえなくなる。

どんな人間でも、苦手なものがあるが、それを乗り越えていくには、支援してくれる人が必要となる。それがライオネルであり王妃だ。そして、ライオネルを支えているのが奥さんや子供である。

平民であろうと王様であろうと、人間はいろいろな人に支えられながら生きていることがわかる映画である。

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わたしの神なる主よ。わたしを思い起してください。

わたしの神なる主よ。わたしを思い起してください。
(士師記16章28節)



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真の研究者

城山三郎さんは、一橋大学の恩師である山田雄三先生と二人ゼミナールをしていたらしい。ちなみに、当時、奥さんを亡くし、老人ホームで暮らす山田先生は90歳を超えている

「杖をついて、耳には補聴器をつけた教授は、その日の二人ゼミナールが終わると、いつものように「今日、積み残した課題は何ですか?次回の宿題として、何を読み、何を考えてくればいい?」と朗らかに言って、また地下鉄の駅へと消えて行かれた」(p.77)

山田先生の上に、真の研究者を見た。

出所:城山三郎『よみがえる力は、どこに』新潮文庫
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『よみがえる力は、どこに』(読書メモ)

城山三郎『よみがえる力は、どこに』新潮文庫

本書は、城山さんの講演録と、早くに亡くなられた奥様・容子さんに対する追想録(君のいない一日が、また始まる)、そして同じ歳の作家・吉村昭さんとの対談集から構成されている。

一番響いたのは、容子さんの追想録。以前に読んだ『そうか、もうきみはいないのか』(新潮文庫)とはまた少し違う角度から書かれていて、心に沁みた。

「容子のことを書くと出版社に約束していたせいか、彼女も、幾たびとなく、夢に出てきてくれる。「おかげで書けるよ」と思う一方で、彼女についての本を書き上げるともう夢に出てきてくれないのかなと、ふと、思いもする。なかなか、夢に現れてくれない時期もある。こればかりは、こちらがいくら強く願っても、うまくいかない。やがて、久しぶりに、彼女が夢に出てきてくれると、私は眠ったままで、「会えた…」とホッとする。笑い返したりもする。だが、夢はいつもあまりにも簡単に終わってしまい、私は焦るように目覚め、索漠たる感情に捕らわれるのだ。私はベッドに横たわったまま闇を見つめて、君のいない一日がまた始まる、と呟く」(p.139-140)

『そうか、もうきみはいないのか』を読んだ際、容子さん亡き後に生ける屍のようになってしまう様子を見て「城山さんは奥さんに依存しすぎ」と思ってしまったが、本書を読み、奥さんを想う城山さんの愛を感じた。
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暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい

暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい
(ヨハネによる福音書12章35節)
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「あれ」

大江健三郎さんが小説を書く際に大事なのがあれである。

「ともかくそうした孤独な作業が続き、小説がある段階まで進むと、そのうち仕事をしているのが短編であれ長編であれ、私は妻につぎのようなことを告げる進み行きになるのだった。たいていは、夜明け方に寝て、正午近くやっと起き出してきた朝食のテーブルで、―あれがやってきた、もう大丈夫だ」(p.178)

いったい「あれ」とは何なのか?

「あれとは、日々小説の文章を書きついでゆく精神と肉体の運動が滑走路を準備して、そこから自分にも思いがけない滑空に向けて走ることになり、それまで地続きに展開していた小説が別の次元に到る、それをもたらす力である」(p.181)

いわゆる「神がおりてくる」ような状態だろう。ただし、ここで大事なのは、とことんまで準備し、自分を追い込まないと「あれ」はやってこないという点だ。

自分の仕事でも「あれ」が来るような準備をしたいと思った。

出所:大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮文庫
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『私という小説家の作り方』(読書メモ)

大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮文庫

タイトルがちょっとキザなので読むのをためらっていた本。

しかし、読んでみるとその深さに驚かされた。本書は大江健三郎が小説を書くときの方法論である。

大江さんはどのように小説を書いているのか?

早くして小説家になった大江さんは、自分で自分を鍛えていくしかなかった。そこでとった方法が、手本となる詩人や小説家を選び、3,4年はその人の作品と研究書を読みまくり、そこで学んだことを小説の軸にしていくというもの。いわば、偉大なる先人を「ロールモデル」「コーチ」としながら作品を書いていくのである。ダンサー&振付師であるトゥイラ・サープがいう「インビジブル・メンター」である。

こうした方法をとるようになったきっかけは大学の恩師である渡辺一夫教授のアドバイス。

「きみは自分の仕方で生きてゆかねばなりません。小説をどのように書いてゆくかは僕にはわかりませんが、ある詩人、作家、思想家を相手に、三年ほどずつ読むということをすれば、その時どきの関心による読書とは別に、生涯続けられるし、すくなくとも生きてゆく上で退屈しないでしょう!」(p.103)

「それからの私の人生の原則は、この先生の言葉だった。三年ごとに対象を定めて読むということを生活の柱とする。それは私を若い年齢でマスコミに出たことからの頽廃から救い出してくれたし、その読書から次の小説への頼りになる呼びかけも聞こえてきたのである」(p.103-104)

偉大な先人を「インビジブル・メンター」とすることの大切さがわかった。

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信じない者ではなく、信じる者になりなさい

信じない者ではなく、信じる者になりなさい
(ヨハネによる福音書20章27節)

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