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『老子・荘子』(読書メモ)

野村茂夫『老子・荘子』角川ソフィア文庫

老子・荘子から主要な部分を抜粋し解説してくれたのが本書。ちなみに、孔子を中心した儒家に対し、老子や荘子は道家(どうか)と呼ばれる。

そもそも儒家と道家は何が違うのか?著者の野村氏は次のように述べている。

「孔子は現実を重視し、この世の中が平和で、人々が安心して生活をおくるためにはどのような政治をするのがよいか、その政治をする人(これを君子といった)はどのようなことに心がけなければならないか、さらにはその心がけをしっかりと身につけ、世のために生かすにはどのような学問をしなければならないかと考えました」(p.16-17)

「これに対して、本書でとりあげる老子や荘子は、目の前にある政治や社会の出来ごとよりも、それらを成り立たせているもっと根源的なところに目を向けました。人間社会も自然現象もあわせた、この世界を成り立たせている大きな原理・原則があるはずで、それこそが真の「道」で、その道に従ってこそほんとうに人間らしい生き方ができ、その道を手本とした政治が最も正しい政治であると説きました」(p.17)

孔子は現実主義、老子・荘子は理想主義ということだろうか。

老子の言葉で最も印象に残ったのは、「柔弱の徳」に関する次の言葉(現代語訳)。

「人は生まれたときは柔らかく柔軟ですが、それが死ぬと堅く強く硬直します。あらゆるもの草木でも芽生えのときは柔らかくもろいものですが、死んでしまうと枯れてひからびてしまいます。だから堅く強いものは(実は)死の仲間、柔らかく軟弱なものが生の仲間なのです」(p.129)

世の中では「強さ」が強調されるが、実は「死への道」なのかもしれない。「柔らかさ」を身につけることこそ、人間らしい生活を送る鍵である、と感じた。





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日本人の宗教的感受性

『「心だけは永遠」ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉』を読んで強く共感したことは、日本人の宗教的感受性の強さ。

「日本の立派な習慣で「いただきます」といって頭を下げれば、もう立派な食前の祈りです。神からいただきます。また「ごちそうさま」も立派な食後の祈りです」(p.48)

「日本の社会では、とても多くの人が存在に対して有り難い、かたじけないと感じています。神を知らない禅のお坊さんまでも、存在は有り難いという孝順の気持ちを持っています。子どものような感謝の心を持っています。とても美しい感じであります。「なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」には、何か神秘的な有様があります」(p.48-49)

僕もずっと「日本人は身近に神を感じとることができる国民である」と思っていたが、外国人のホイヴェルス神父も同じように考えていたと知り、少し驚いた。

日本人は、日常生活の中に神を感じているがゆえに、意識的な宗教活動を「わざとらしい」と敬遠するのかもしれない。

著者の土居健郎・森田明さんの解説によれば、「日本人は将来、世界で最もキリスト教的な国民になるかも知れない」とホイヴェルス神父が語っていたという。

本書を通して、日本文化を違った角度から考えることができた。

出所:土居健郎・森田明『「心だけは永遠」ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉』ドン・ボスコ新書



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あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている

あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている
(ルカによる福音書12章7節)

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『心だけは永遠:ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉』(読書メモ)

土居健郎・森田明『心だけは永遠:ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉』ドン・ボスコ新書

ある方から「最上のわざ」という詩が書かれたカードをいただいた。そのカードの出所として書かれていたのが本書である。

ヘルマン・ホイヴェルス神父は、イエズス会宣教師として1923年に日本に来られ、上智大学の教授、聖イグナチオ麹町教会の主任司祭として、32年間宣教に従事した人。

本書は、ホイヴェルス神父の言葉を集めたものであるが、やはり「最上のわざ」が一番すばらしかった。ただし、この言葉は、神父が故郷のドイツに帰った際に、教えてもらったものだという。

少し長くなるが、引用したい。

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最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架を担う。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

(p.131-133)
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もちろん、自分の力で他人を助けることも大切である。しかし、たとえ何もできなくとも、祈りをもって他者を思いやることこそが「最上のわざ」である、という考えに感動した。

この境地に至ることこそが、成長の到達点かもしれない、と感じた。




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人類みな兄弟

『ヒトはいかにして生まれたか』の中で、著者の尾本先生は、人種について次のように述べている。

「皆さんは、たとえば「白色人種」、「黒色人種」、「黄色人種」という分類や、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドといった名称をよく耳にされているでしょう。実は、「人種分類」は古典的人類学の柱だったこともありますが、今ではまともに扱う人はいません。人種という概念自体が非常に問題であり、定義することも難しいこと、またほかの生物と同じように種の下に亜種を分類する意味が認められず、弊害のほうが大きいことを考えれば、人種分類は学問としては無用であると思います」(p.141-142)

人類学的には、ヒトはヒトであって、その中をさらに分類することは難しいということだ。

人類みな兄弟という言葉があるが、シンプルな説明に納得がいった。

出所:尾本恵市『ヒトはいかにしてうまれたか』講談社学術文庫

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『ヒトはいかにして生まれたか』(読書メモ)

尾本恵市『ヒトはいかにして生まれたか:遺伝と進化の人類学』講談社学術文庫

人類学の観点から、サルとヒトの違い、サルからヒトへの進化プロセスを解説しているのが本書。

いろいろ書かれているのだが、興味深かったのは、次の箇所。

「ヒトのユニークさは、子供の心理的特徴を大人になるまでもちつづけることであり、それこそネオテニーという独特の成長プログラムによって実現しているのです」(p.156)

「学習にとって一番大切なのは、好奇心です。先に述べた子ネコだけでなく、哺乳類の子どもは探索行動を遊びの中で発達させますが、これは好奇心の原点でしょう。また、集中力も大切です。子どもは、遊びに夢中になっているときがいちばんすばらしいのです。それから、愛、創造性、柔軟性、実験精神、それにユーモアのセンスも子どもの所産と考えられます。笑いと涙、これもヒトだけの特徴で、サルは笑いも泣きもしません」(p.156-157)

好奇心、集中力、愛、創造性、柔軟性、実験精神、ユーモア、笑いと涙。

魅力的な人々の特徴である。

子どもの特徴を維持し続けることができる人こそ、人間らしい人である、ということだろう。

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苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった

苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった
(ヨナ書2章3節)

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どこにも属さない

『ひとさらい』の作者、シュペルヴィエルについて、訳者の永田千奈氏は、次のように言う。

「文学史のうえでもシュペルヴィエルは特定のグループに属さない。古典主義でも象徴主義でもシュールレアリスムでもない」「数カ国語をあやつり、ふたつの大陸をさまよい、どこにも属さない作家。それがシュペルヴィエルなのだ」(p.233)

フランスとウルグアイという二つの文化を行き来し、さまざまな葛藤を乗り越えたからこそ独自の境地にたどり着いたのだろう。「どこにも属さない」という点がかっこいい。

多様なものが融合して、独自性を生むのだとしたら、自分の中の異なる世界を大事にしたい、と思った。

出所:シュペルヴィエル(永田千奈訳)『ひとさらい』光文社

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『ひとさらい』

シュペルヴィエル(永田千奈訳)『ひとさらい』光文社

ウルグアイ育ちのフランス人作家・シュペルヴィエルの作品である。フランスと南米という二つの文化を背負っているだけあって、かなり独特の内容だ。

国(ウルグアイ?)に帰れば大統領クラスの偉い人なのだけれども、何らかの理由でパリ暮らしをしているビグア大佐。子供がいない大佐は、貧しい子や親の愛情を受けていない子を誘拐しては、自分の家に住まわせている。

ビグア大佐は言う。

「うん、だって、暖房の効いた部屋、鏡張りの豪奢な部屋にいても、あの子は捨て子みたいな生活をしてたんだ」(p.25)

わからないでもないが、かなり自分勝手な論理である。

ただ、子供たちもわかっていて、新しい子が来たときに次のように声をかけている。

君はどこからさらわれてきたの?」(p.22)

特異なストーリーであるにもかかわらず、全体を通して、理性と欲望の間で揺れ動くビグア大佐の気持ちが伝わってくる。

家族とは何か、善とは何か、愛とは何かについて考えさせられた。


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終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい

終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい
(ダニエル書12章13節)

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