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心を尽くし、魂を尽くして求めるならば

心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう
(申命記4章29節)

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つながりの中で形作られてきた自分

川北稔氏の『砂糖の世界史』は、世界システム論に基づいて書かれている。世界システム論とは、近代の世界を一つの生きもののようにみなし、その成長や発展をみていこうとする立場だという。

ちなみに、歴史の入門書に必ず書かれているのは「なぜ歴史を学ぶのか」ということ。川北氏は「あとがき」で、次のように述べている。

「歴史を学ぶということは、年代や事件や人名をたくさん覚え込むことではありません。いま私たちの生きている世界が、どのようにしてこんにちのような姿になってきたのかを、身近なところから考えてみることなのです。みなさんがこの本を読んで、一見したところ、おたがいに何の関係もないような世界各地の人びとの生活が、相互に深くかかわりあっていることを理解してくだされば、著者としてはとてもうれしく思います」(p.208)

つながりや関係の中で現在が形作られていくということは、個人にも言えることである。自分の人生を振り返って、どのような関わりの中で育まれてきたのかについて考えることは、今の自分を理解する上でも大切であると感じた。

出所:川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書

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『砂糖の世界史』(読書メモ)

川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書

ひたすら世界で売れる商品を「世界商品」と呼ぶらしい。本書は、世界商品としての「砂糖」や「紅茶」を中心に、近代世界の歴史を説明したものである。

本書のメインテーマとはズレるが、一番印象に残ったのは、「ボストン茶隊事件」。

当時イギリスの植民地であったアメリカでは、農場主たちは「イギリスのジェントルマン」のように暮らしたがっていた。しかし、度重なる本国の締め付けに反発し、イギリスに反抗するきっかけとなったのが、ボストン茶隊事件である。

「1773年、茶を摘んでボストン港に入った三隻のイギリス船に、先住民に扮装した「自由の息子たち」と名乗る集団がひそかに潜入し、積み荷の茶を海中に捨ててしまいました。これが、歴史上有名な「ボストン・ティー・パーティー事件」―「ボストン茶隊事件」とも「茶党事件」などとも訳されます―です。このできごとは、植民地の人びとの反イギリス感情をさらにかきたて、アメリカ独立運動の決定的なきっかけとなったといわれています」(p.125)

恥ずかしながら、オバマ政権に反対している「ティー・パーティー」の由来が初めてわかった。

アメリカは初めから独立心旺盛だったわけでなく、当初は「イギリス紳士になりたがっていた」という点も意外である。この事件がきっかけとなり、アメリカがアメリカとしてのアイデンティティを確立していき始めた、という点が興味深い。

はじめは親を模倣していたのが、徐々に反発しはじめて、自分のオリジナリティを模索していくプロセスは、まさに「守・破・離」である。その意味では、世界史も自分史も、共通点があるように思った。


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いつも感謝していなさい

いつも感謝していなさい
(コロサイの信徒への手紙3章15節)

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そのままを認める

再び『発達障害母たちの奮闘記』(山下成司著、平凡社新書)から。

お母さんにとって、子どもの障害を受け入れるってどういうことでしょうか?という山下さんの問いに対し、軽度知的発達障害を抱えるアミちゃんのお母さんは次のように答えている。

そのままを認める、ということ。いろいろ言われたりして、違う、違うと否定すると、とても苦しいです。でも、あ、ホントにそうだって認めると、そのままでいいって思えて、楽な気持ちになれます。多動の子とか自閉の子とか、障害を持つ子のお母さんがそういう子どもを怒ってばかりいる姿を見かけると、自分がやっていたことだから、怒られている子どもも可哀想だけど、お母さんも可哀想になってくるんです。辛いだろうなって」(p.150)

「改善」しようとすると、怒ったり、叱ったりしてしまうけれども、人間には「改善」できない特質や特性もある。その場合には、それを認めた上で、違ったアプローチを考える必要があるのではないか、と感じた。





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『発達障害母たちの奮闘記』(読書メモ)

山下成司『発達障害母たちの奮闘記』平凡社

イラストレーターをしながら、発達障害の学校に携わってきた山下成司さん。一口に発達障害といっても、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)、広汎性発達障害(PDD)など、さまざまな特質があるらしい。この本には、発達障害の子供を抱える五人のお母さんへのインタビューが掲載されている。

本書を読んで感じたのは、障害があるなしにかかわらず、親の気持ちは一緒ではないかということ。

広汎性発達障害を抱えるツトム君のお母さんへのインタビューの最後に、山下さんは次のように問いかけている。

最後にツトム君に対して「神様に叶えてもらう三つの願い」を聞きたいのですが。

「うーん、当たり前のことですけど、健康でいてほしいことがひとつ。楽しいことを見つけてほしいということがもうひとつ。三つ目の願いは、私たちがいなくなったときに頼れる人ができて、それで自分の人生幸せだったな、って終わってもらえること」(p.64)

また、LD傾向を抱えるタケシ君のお母さんは、「発達障害を抱える子どもを持つ若い親御さんにアドバイスを」と問われて、以下のように答えている。

「本人ができることを大事にすること、それを伸ばしてあげてほしい。子どもに寄り添いながら、子どもが嬉しいこと、楽しいこと、自信を与えるようなこと、それをお母さんからお膳立てする・・・、それがお母さんの仕事だと思います」(p.104)

この箇所を読んだとき、子どもの才能を見つけたら徹底的に伸ばすというユダヤ人の教育方針を思い出した。

子どもが持つ力を見極めて、それを伸ばし、自信をつけさせる。子育てに限らず、組織における人材育成にも通ずる考え方であると思った。
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主に求める人には良いものの欠けることがない

主に求める人には良いものの欠けることがない
(詩編34章11節)

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つながりを感じる

ブッダによれば、「無明(むみょう)」(真実の姿に気づかないこと)から「」(真実の姿がわかった状態)に移行することが悟りである。

では、真実の姿とは何か?

「すべてのものの真実のすがたを見通すと、いかなるものも、目に見えない無数の原因や条件(因縁)に基礎づけられて成立している。孤立した固定的な物はなにも存在しない。生きものや人間たちも他からの無数の恩恵を受けて、たがいに依りあって成立している(縁起)。目に見える、限られた自分の存在だけを固執し主張するのは浅はかである。つきつめると、こういうことがわかったのである」(p.65-66)

「自分が自分が」と思っている状態は「無明」であるが、「つながりの中で生かされている」ことに気づくとき、人は「明」に移行できるのだろう。

出所:中村元・田辺和子『ブッダ物語』岩波ジュニア新書
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『ブッダ物語』(読書メモ)

中村元・田辺和子『ブッダ物語』岩波ジュニア新書

ブッダの生涯や教えについて、とても読みやすく書かれている本である。

王族としての豊かな生活や妻子を捨てて修業に出たブッダは、人間はなぜ「老い、病気、不幸、死」に悩むのかを追求する。

そしてたどり着いたのが「無明(むみょう)」の考え。

「そしてついに、無明があるから人間を人間たらしめている活動が生まれ、老い、死ぬという一連の苦しみが起こるのだと知るにいたった」(p.64-65)

人生やものごとの真実の姿に気づかないことが無明である。すなわち、すべてのことはいつも同じ状態にはない(無常)、固定的ではない(無我)ということに気づかないことである。そのためにものごとに執着してしまうことになる」(p.65)

「そして無明が明にかわったとき、すなわちすべてのものの真実の姿が明らかになったとき、真の安らぎが開けると悟ったのである」(p.65)

このように、本書はとても平易に解説してくれるのだが、何となく「わかったような、わからないような」モヤモヤ感があった。

最後の方で、ブッダの性格について次のように書かれていた。

「ゴータマ・ブッダの教示のしかたは、弁舌さわやかに人を魅了するのでもなく、また一つの信仰に向かって人を強迫することもない。かれは決して「私について来い。そうでなければ救われない」と大言壮語することがないし、教祖的なところがなかった。さらに異端にたいして憤りを発することもなかった。単調に見えるほど温情をもって人に教えを説く。ブッダは人好きのする、とっつきやすい人であったらしい」(p.193)

「仏教が後生にひろく世界にわたって人間の心のうちに温かい光をともすことができたのは、開祖であるブッダの性格に由来するところが多分にあると考えられる。そうして、ここに指摘した性格は、後代にいたるまで仏教を特徴づけているように思われる」(p.194)

この箇所を読んで、仏教の本質がスッと理解できたような気がした。



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わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている

わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている
(ヨハネによる福音書10章14節)

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