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『古事記』(読書メモ)

角川書店編『古事記』角川ソフィア文庫

角川の「ビギナーズ・クラシックス」シリーズで、古事記を読んだ。いつもながら、武田友宏氏による現代語の通釈がわかりやすい。

イザナキとイザナミ、スサノオ、ヤマトタケルなどの有名な登場人物に加えて、「イナバの白ウサギ」「海幸彦、山幸彦」等のお話もなつかしかった。神と人が混じり合って物語が進むのは、ギリシャ神話『イリヤス』と似ている(ちなみに『イリヤス』はつまらなくて途中で挫折したが・・・)。

興味深かったのは、古事記が書かれた経緯である。

解説によれば、壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇が、中央集権国家を確立するために、「軍隊と法律と史書」を整備しようとしたことがきっかけだったらしい。

「軍の中央統制と法の整備は急速に進んだ。兵器などのハード類や、先進の中国から導入できる律令などは、渋滞もなく着々と整備されていった。遅れたのは歴史書というソフトの編集である。歴史書とはいっても、諸氏族の系譜を天皇家のもとに一元化して、天皇政治を正当化する目的をもっている」(p.275)

「『古事記』が完成すれば、政治の根本聖典として、天皇家に対抗する諸氏族を管理・統制でき、当然ながら、皇位継承をめぐる騒乱を回避できる」(p.276)

国家をマネジメントするツールとして「歴史書」が利用されていたという点が面白かった。優れた組織においても、創業からの歴史が語り継がれている場合が多い。人々を統率する力を持つ歴史書の役割の大切さがわかった。

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相手の変化度を見る

先日、某省庁の係長さん達を対象とした研修で、「どのようにしたら若手職員にポジティブなフィードバックを返せるか」という問いが出た。

そのとき、参加者からは「思ってもいない褒め言葉は言えない」という声もあった。ここで「思ってもいない」と感じてしまうのはなぜか?

それはたぶん、「自分を基準にしている」「他の若手職員と比べている」ために、「まだまだ不十分」と思ってしまうからである。

では、どういう基準で評価したらいいのか?

一つの視点は「本人の変化を見る」ということだろう。つまり、その若手の半年前、1年前の状態と比べて「前はできなかったのに、出来るようになったね」「前にくらべると早くなったね」とフィードバックする、というやり方である。

指導する相手の「変化度」を見てあげると、適切なフィードバックができるように感じた。

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わたしがあなたと共にいるから

わたしがあなたと共にいるから
(士師記6章16節)

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「観る」こと、「創る」こと

『青春ピカソ』を読んでいて、ナルホドと思ったことがある。それは「観る」ことは「創る」ことでもある、という考え。

岡本太郎先生によれば、美術館で芸術作品を「観る」とき、それは観ている客の側も「創っている」ことになるという。

「いったい芸術において単に眺めるという立場があり得るであろうか。真の観賞とは同時に創るということでなければならない。観ることと創ることは同時にある。(中略)真に芸術作品に対した場合、観賞者は己の精神の中に何らかのセンセーションによって、新たに何ものかが加えられる。というよりもむしろ己れ自身に己が加えるのであるが。精神は創造的昂揚によって一種のメタルフォーゼを敢行する。だから芸術作品と対決する以前と以後の観賞者の世界観、平たくいえば物の観方自体が質的に飛躍するのである。つまり創造であって、そのような創造の場なしには芸術、並びに芸術観賞は成り立ち得ないのである。だからこそ観るということは同時に創ることなのだ」(p.29)

これは絵の観賞以外にもいえるのではないか。我々が、音楽を聴いたり、本を読んだり、人の話を聞くとき、それによって自分の考え方や感じ方が変化するのであれば、実は「創る」という営みをしていることになる。

この考え方はとても新鮮であった。

出所:岡本太郎『青春ピカソ』新潮文庫

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『青春ピカソ』(読書メモ)

岡本太郎『青春ピカソ』新潮文庫

岡本太郎のピカソ論である。

後半で、ピカソを訪問する様子が紹介されているのだが、あの大迫力・岡本太郎大先生が緊張しているのがわかり、彼も人の子なのだなと思った。

ピカソの作品はガラガラと変化するので有名だ。どんどん自己破壊をし、自分のスタイルを変えると同時に、芸術のパラダイムも変革してしまう天才である。

本書を読んで意外に思ったのは、あのピカソでも、他の作品から影響を受け、真似ているという点。

例えば、革新的なキュビズムも、黒人原始彫刻に影響を受けたものであるらしい。

「しかし西欧美学のまったくの反対物である奇怪極まる原始芸術は、フォーヴィストたちにとっては単に好奇的刺激にとどまった。ピカソはそこに芸術の根源的エモーションを発見し、それによって己れ自身の美的教養を根底から覆すことを躊躇しなかったのである。彼だけが革命的に自己破壊の手段としてこれを取り上げたのだ」(p.83)

若い頃に、故郷のバルセロナからマドリッドへ遊学した際、プラド美術館にコレクションされていた、グレコ、ヴェラスケス、ゴヤ、ルーベンス等の作品からもピカソは学んでいる。

「ピカソはそれらを飽くなき貪婪さで吸収する。だが彼は決して焦らないのである。盲目的な本能のままに、ゆっくりと噛みくだき、彼一流の凄まじい消化力ですべてを血肉化してしまう。真に学ぶということは、ただ生真面目に素朴にそれらを賞(め)で、倣うことではない。過去の偉大な芸術が巨きな力となって浸透しはじめる」(p.108)

ピカソの場合、ここでいう「消化力」がハンパないのだろう。

学ぶ対象を単に模倣するのではなく、それを消化し、取り込み、自分のスタイルを変えていく力が「学ぶ力」である、と感じた。
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隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか

隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか
(ヤコブの手紙4章12節)

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場のプロデューサー

『人材マネジメント入門』の中で、守島先生は、経験と人材マネジメントの関係について次のように述べている。

「人材マネジメントの役割は、リーダー人材を育成するためのキャリアと経験の重要性を認識し、どうしたらリーダーとしての発達課題をリーダー候補が越えていけるのかを考え、そのための場を準備し、現場を説得して、必要な経験ができるようにお膳立てをしていくプロデューサーなのです」(p.26-27)

人事部=場のプロデューサー、という考えがしっくりきた。

出所:守島基博『人材マネジメント入門』日経文庫
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『人材マネジメント入門』(読書メモ)

守島基博『人材マネジメント入門』日経文庫

本書をゼミで検討したので、改めて読み返した。

もっとも印象に残ったのは「人材育成=働く人と企業との間のパートナーシップ」という考え方である。

「人材育成という過程は、基本的には、成長や学習を通じての個人の変化に依存しており、その意味で、きわめて個人的なプロセスです。個人の成長を、企業の求める方向と一致させるためには、なんらかの仕組みが必要なのです」

「具体的には、このパートナーシップでは、企業は戦略や目標を達成するための仕事を与えることを通じて、個人にキャリア開発のための「場」や機会を提供し、さらに個人が自ら行う人材育成の活動を支援します」(p.64)

このパートナーシップという言葉には、企業と個人が対等な関係にあるという前提が含まれているように思う。

「会社が育てる」という考えでもなく、「自分の力で育ちなさい」という突き放した考えでもない。本書から、企業と個人が相互作用し、コラボレーションすることの大切さが伝わってきた。

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あなたは、他人を裁きながら

あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている
(ローマの信徒への手紙2章1節)

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書きながらストーリーを考える人

小説家には、はじめにストーリーを考えて書く人と、書きながらストーリーを考える人がいるようだ。

レイモンド・チャンドラーは、後者である。

最初から筋のわかっている物語を書くくらい退屈なことはない」(p.321)

とチャンドラーは語っているが、その筋も結構いいかげんである。

村上春樹さんの解説によれば、「大いなる眠り」が映画化される際、関係者が「スターンウッド家のお抱え運転手を殺した犯人は、いったい誰なのですか?」と原作者チャンドラーに電報を打ったらしいのだが、答えは「私は知らない」であったという。

しかし、彼の作品には、こうした脇の甘さを吹っ飛ばす魅力がある。

書いている本人が「次はどうなるのだろう」というワクワク感を持っている作品ほど、魅力があるのではないか。

このことは、小説に限らず、どんな仕事にも当てはまるような気がした。

出所:レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)『大いなる眠り』早川書房


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