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あなたを知る人の上に 慈しみが常にありますように

あなたを知る人の上に 慈しみが常にありますように
(詩編36章11節)

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性に合う仕事

日本ではじめてノーベル賞を受賞した湯川秀樹先生は、若いころ、数学者になるか、物理学者になるかで迷ったらしい。

しかし、結局、(実験物理学者ではなく)理論物理学者になった。

なぜか?

湯川先生は、回想する。

「それにしても、私はやはり数学者にならなくてよかったと思う。私はどこまで行っても、思考の飛躍に最大の喜びを発見する人間であった。水ももらさぬ論理で、たたみこんで行く手順は、私の関心の中核ではなかった。それにまた、理論物理学者として、理想と現実の間の矛盾に悩むのが、私の性に合っているようにも思われる」(p.190)

「私の性に合っているように思われる」という一言がキーワードである。

才能はあっても、性に合わないということもある。

性に合う」仕事に出会えるかどうか、そこがキャリアの分かれ道である、と感じた。

出所:湯川秀樹『旅人:ある物理学者の回想』角川ソフィア文庫
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『旅人:ある物理学者の回想』(読書メモ)

湯川秀樹『旅人:ある物理学者の回想』角川ソフィア文庫

日本人ではじめてノーベル賞を受賞した湯川秀樹先生の自伝である。

湯川先生は結婚してから姓が変わったので、もともと小川秀樹さんだった。

ちなみに、お父さんは京大教授(地質学)であり、五人の男兄弟は全員研究者になっているのだが、その中で、湯川先生だけが「研究者には向かないのではないか」とお父さんから思われていたようだ。

本書を読んで一番印象に残ったのは、友人の一言の大きさである。

中学四年生のときのことを湯川先生は、次のように回想している。

「二人が一組になって物理実験をやった。私の相棒は工藤信一郎君であった。湿度の測定の実験をやっていた時のことである。(中略)私はこの実験にうまく成功した。非常に愉快であった。その時、工藤君が突然、

小川君はアインシュタインのようになるだろう

と言った。
その瞬間私は何のことかわからなかった。私はまだ自分が理論物理学者になるだろうとは、全然思っていなかったのである。(中略)
アインシュタイン博士は、私からは何の関係もないように思われた。それにもかかわらず、工藤君の一言は私の舟を取りまいている氷に、目に見えぬひびを入らせたようであった」(p.143-144)

友達からの何気ない一言であるが、確実に湯川先生のキャリアを(少し)方向づけている。

この箇所を読み、「他者からの何気ない言葉」を大事にしないといけない、と感じた。

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わたしはお前を正しく懲らしめる

わたしはお前を正しく懲らしめる
(エレミヤ書46章28節)

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人材登用

南洲翁(西郷隆盛)は、人材登用について、次のように述べている。

「人材を登用するとき、君子か小人かの区別、すなわち徳が篤い人か徳が薄い人かの区別をあまりに厳格にして、徳の篤い君子のみを採用しようとすれば、かえって害を引き起こすことになろう。というのは、日本が出来て以来、10人のうち7,8人までは徳の薄い小人であるから、よくこの小人に実情を理解して、それにみあった軽職に就かせ、その力を発揮させるのがよい」(p.31)

小人とは、普通の人を指すのであろう。

普通の人々の強みや弱みを理解した上で、仕事を与え、良い仕事をしてもらうこと。そこに人材登用の鍵がある、と思った。

出所:西郷隆盛(猪飼隆明訳・解説)『南洲翁遺訓』角川ソフィア文庫
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『南洲翁遺訓』(読書メモ)

西郷隆盛(猪飼隆明訳・解説)『南洲翁遺訓』角川ソフィア文庫

南洲翁とは西郷隆盛のことだが、「翁」といっても、西郷さんが亡くなったのは49歳。この本は、庄内藩士が薩摩を訪れて、西郷さんにインタビューした記録である。

本書において繰り返されるのは「敬天愛人」の考え方。

「人が踏み行う道は、常に上に天があり下に地があるように、人為が作りだしたものではなく、天によって与えられた道理を実践することであるから、天を敬うことを目的にしなければならない。天は他人も私も区別なく愛されるのであるから、われわれは自分を愛する心を持って他人をも愛することでなくてはならない」(p.115)

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というキリストの教えと驚くほど似た考え方である。

ちなみに、この本には、「天から与えられた道理」という言葉がやたらに出てくる。西郷さんは、自分の思いよりも、与えられた使命を大事にしていたことがわかる。

しかし、天から与えられた道理を実践する者には困難がつきものである。南洲翁は言う。

「天から与えられた道を実践するものには、災厄はつきものであるから、そんなとき、そのことがうまくいくかどうか、その身が生きるか死ぬかといったことなどどうでもいいことなのだ

「ことには当然のことながら、うまくいくいかないがあり、物には出来不出来があるものだ。人は自ずとそのことに心を奪われがちであるが、人が実践しようとしているのは、そのこととか物ではなく、天の道なのであるから、そこに上手下手などはなく、出来ないという人もないものなのだ」

「だから、ひたすら道を行い、道を楽しみ、もし困難や苦しいことに遭ったならば、ますますその道を実践し楽しむという心をもつがいい」(p.127)

つまり、「使命にしたがっているのなら、うまくいかなくても悩むことなく、楽しめばよい」ということだ。

この考え方は、かなり「日本人っぽくない」考え方である。

しかし、南洲翁の言葉を聞いて、少しホッした


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いつも喜んでいなさい

いつも喜んでいなさい
(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ・5章16節)

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与えられているものを数える

堤純子さんの『アーミッシュホームにようこそ』(未知谷)の中に何度も出てくるフレーズで、とても印象に残った言葉がある。

「電気の使用や車の所有が禁じられており、服装など日常生活には厳しい規定が設けられているにもかかわらず、なぜ彼らは大きな満足感を抱くことができるのだろう。それはアーミッシュが、ないものを求め、ないことを惜しむのではなく、与えられているものを数え、与えられていることに感謝しつつ生きているからにほかならない」(p.203-204)

この考え方は、心に刺さった。

なぜなら、いつも「自分にないもの」「自分がほしいもの」ばかり考えているからだ。

まず、自分に与えられているものに感謝し、そこから積み上げていく。そうした姿勢が、人生を豊かにするのだな、と感じた。
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『アーミッシュホームにようこそ』(読書メモ)

堤純子『アーミッシュホームにようこそ』未知谷

堤さんの前著『アーミッシュ』につづいて読んでみた。

基本的メッセージは同じであるが、「バーバラおばあちゃん」という語り部を通して、仕事・料理・健康など、アーミッシュの日常生活を紹介している点が特徴である。

本書を読み、改めて、当たり前だと思っていた自分の価値観が揺さぶられた。特に考えさせられたのは「向上心」について。

アーミッシュの方たちの生活は、ストレスが少なく、幸福感が強いようだが、その理由についてバーバラおばあちゃんは次のように語っている。

「「外の世界」の人たちの中には、社会的な地位や富を得ることがよりよい生き方だ、と考える人たちが少なからずいるし、高い目標をたて、大きな夢を持つことがよしとされ、それを実現するために精いっぱいの努力をすることが求められているわ。学歴や収入、物質的な豊かさを求めすぎたり、手の届かないような高い目標に向かって寝る間も惜しんでがんばったりすることは、大きなストレスにつながると思うの。

それを「向上心」と呼んで評価する人もいるけど、大きなストレスにつながるなら決して私たちにプラスになるとは言えないわ。たとえ望んだものが手に入っても、代償が大きければ、どこかにひずみが生まれるのよ。自分の身の丈にあった生き方を知って、その中で精一杯努力すること、これこそが向上心ではないかしら」(p.36-37)

われわれの世界では、高い目標を持ち、それに向かって努力することが重要視されている。しかし、それゆえに「大きな代償」を払わなければならないことも多い。「家族」「健康」「気持ちの余裕」などなど。

「向上心」という名の下に、人生における優先順位を取り違えてしまっていることが多いことに気づいた。

人が生きる上で何が大切なのか、について考えさせられる一冊である。




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わたしを遣わされたのは、一体なぜですか

わたしを遣わされたのは、一体なぜですか
(出エジプト記5章22節)

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