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『蜻蛉日記』(読書メモ)

右大将道綱の母・角川書店編『蜻蛉日記』角川ソフィア文庫

藤原兼家の妻である「道綱の母」が、浮気癖のある夫との結婚生活を振り返った日記文学である。

解説文には次のようにある。

「日記といっても単なる事実の記録ではなく、夫藤原兼家との「はかない結婚生活」という明確なテーマを持つ。したがって、事実はこのテーマに沿うように取捨選択され、文学として再構築されているのである」(p.217)

自らの体験を文学作品にしてしまう「私小説」のはしりといえるだろう。

道綱の母は、次のように嘆いている。

「こうして十五年という年月は経ったけれど、思いどおりにならないわが身を嘆き続けているので、新年を迎えても嬉しい気持ちがせず、相変わらずものはかないことを思うと、あるかないかわからない、かげろうのようにはなかい身の上の日記ということになろう」(p.105)

当時は、一夫多妻で、夫が妻の家に通う「通い婚」だったらしい。美貌で歌の才能に恵まれた道綱の母は、最初のうちこそ強気の結婚生活を送っていたが、徐々に夫の足も遠ざかり、最終的には「床離れ」(夫が通ってこなくなる)となる。

とにかく彼女はずっと愚痴っているのだが、その中でも、息子の存在は心の支えになっていたようだ(いつの時代も、同じである)。

思い通りにならない人生だったかもしれないが、才能を生かして文学作品を残した道綱の母は「転んでもただでは起きない人だな」、と思った。



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道しるべを置き、柱を立てよ

道しるべを置き、柱を立てよ
(エレミヤ書31章21節)


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永遠に在り

高田郁さんの『あい:永遠に在り』(ハルキ文庫)のタイトルの意味は、次のエピソードによるものらしい。

農民出身の関寛斎が、徳島藩の侍医になるときのこと。彼の支援者であるヤマサ醤油の当主・濱口梧陵は、寛斎に次のようなアドバイスをしたという。

人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り、と」「目先のことに囚われるのではなく、永遠を見据えることです。関寛斎、という人物は、何時か必ず、彼なりの本分を全うし、永遠の中に行き続ける、と私は信じます」(p.180)

永遠に生きる、ということは、なにも歴史に名を残すということではないだろう。誰にも知られなかったとしても、すべてをご覧になっている創造者から「よくやった」と言われることをすべきなのかな、と思った。


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自分自身を愛するように隣人を愛しなさい

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい
(レビ記19章18節)



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『あい:永遠に在り』(読書メモ)

高田郁『あい:永遠に在り』ハルキ文庫

「みをつくし料理帖シリーズ」で有名な高田郁さんによる評伝小説。

江戸末期、千葉の貧しい農村に生まれた関寛斎は、苦労して医師になり、やがて徳島藩の侍医に出世する。藩主からの信頼、家族、名誉、資産を得た寛斎だが、73歳のとき、すべてを投げ捨てて妻あいとともに北海道開拓に乗り出すというストーリーである。

すさまじい努力物語にも感銘を受けたが、一番印象に残ったのは、寛斎が仕えていた徳島藩主の言葉

12人の子供を授かった妻あいは、病気等で半分の子供を失ってしまうのだが、四男・文助が亡くなったときにも失意のどん底に落とされる。はじめのうちは妻を気遣っていた寛斎だが、次第に声を荒らげるようになった。

「スミも大助も周助も、それに生三も居るではないか。何時までも母親がそんなことでどうする」(p.215)

ある日、藩主から息子の死のことを問われ、妻を叱責したことを語ると、次のような言葉を受ける。

「失望したぞ、関寛斎」「どの指も大切なことに変わりなく、残る指の数で慰めを得られるものでは決してない。母がわが子を喪う、というのは常に半身を捥ぎ取られるに等しい」(p.216)

そして、藩主は妻あいに次のような伝言をする。

存分に悲しむように」(p.217)

つらいことがあったとき、海に沈んでいくような感覚があるが、存分に悲しむことで、海の底から浮かび上がることができるのかもしれない、と感じた。

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夢とは心意気

『VISA』という雑誌に、毎号、市川染五郎さんがエッセイを掲載しているのだが、今月号は、お父さんである松本幸四郎さんのことを紹介していた。

「僕の5歳の誕生日に父から、「今年の誕生日プレゼントはこれです」と言われ、主演する大河ドラマ『黄金の日々』の第1回の放送を鑑賞。「・・・・・(おもちゃじゃないんだ)と多少、いや多分に複雑な思いで観終わると、僕はすかさず「おもちゃ買って!」ではなく、「僕もお芝居やりたい!」と自分らしからぬ自分の意志をはっきりと、歌舞伎役者になる気持ちを伝え、6歳で3代目松本金太郎を名乗り、初舞台を踏みました」(p.11)

息子へのプレゼントが、自分主演のドラマ鑑賞という発想がすごい。

これまで染五郎さんは、お父さんからいろいろな言葉を投げかけられてきたらしいが、その中でも次の言葉が刺さった。

「夢とはただ語るだけのものではない。夢とはただ夢見るだけのものでもない。夢とは、夢を叶えようとする、その人の心意気だ」(p.11)

「夢」という言葉を使うと、どことなく気恥ずかしい気がするが、「夢とは心意気」と言われると、とても腹に落ちた。自分には、特に夢というものはないが(と気づいて「自分は大丈夫か?}と感じた・・・)、心意気を持って生きたいと思った。

出所:『VISA』2016年1月号, p.11.
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今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。

今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。
(ルカによる福音書6章21節)

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サークル

鶴見俊輔さんは、何人かの方々と『転向の研究』という共同研究をされていたらしい。

『日本人は何を捨ててきたのか』(鶴見俊輔・関川夏央、ちくま学芸文庫)の中で、印象に残った箇所を抜粋してみたい。


関川:たとえば、転向の共同研究をされるようになってから、またはいくつかのサークルを持たれるようになてからは、誰かがライバルという感じはなかったのですか。

鶴見:サークルってライバルじゃないでしょう。

関川:彼がいい仕事をしたから僕もとか、そういうふうには考えないものなのですか。

鶴見:サークルという場はね、自分がいったことが誰によって使われてもいい、そういうとても豊かな感覚の場所なんです。ライバル意識というのじゃない。

関川:そうか。勉強会ならライバルになるかもしれないけれども、サークルは違うのですね。

鶴見:自己教育というサークルでね。独学とは何か。そのサークルの集いの中で、何か、目から鱗が落ちる。そこです。

(p.186)

この箇所を読み、そうしたサークルを作りえた鶴見さんのオープンさに感銘を受けた。


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『日本人は何を捨ててきたのか』(読書メモ)

鶴見俊輔・関川夏央『日本人は何を捨ててきたのか』ちくま学芸文庫

鶴見さんと関川さんの対談をまとめたものが本書。タイトルに惹かれて買ったのだが、「日本人が捨ててきたもの」についてはあまり語られていない。

少し鼻につくところもあるが、鶴見さんはとても正直で真っ直ぐな人である。

中学を退学させられてアメリカに渡り、ハーバード大学を卒業した後に、戦争中の日本に帰ってきた鶴見さん。徴兵されて、軍隊にいたときのことを次のように回想している。

「ものすごく、戦争中も戦後も後悔した。戦争が終わってからも後悔した。つまり、ある意味で戦争協力したわけですから。自分のように戦争反対の人間が、ちゃんと反対の意思表示ができなかったということについてね」(p.145)

本書の中で印象的だったのは「消極的能力」という言葉である。

「間違いの記憶を保っていることが必要なんだ。これは消極的能力でしょう。たとえば、下瀬火薬を発明した、それは積極的な能力でね、日本海軍が日露戦争でパカンポカンと使って戦争の原動力になった。それは積極的能力です。そうではなくていまの負けたことは忘れない、失敗したことは忘れない。これが消極的能力だ」(p.83)

今の日本に必要なものは、戦争や原発事故からの教訓を忘れない「消極的能力」である、と感じた。

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元気を出しなさい

元気を出しなさい
(使徒言行録27章22節)


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