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『ビッグ・リトル・ファーム』(映画メモ)


『ビッグ・リトル・ファーム』(2020年、ジョン・チェスター監督)

カメラマンのジョン・チェスターと料理家の妻モリーが、生態系サイクルを利用して作物や家畜を育てる「バイオダイナミック農法」に挑むドキュメンタリー。

ちなみに、この農法を教えるのが、専門家アラン・ヨーク(一見、変わったおじさん)。彼がいたからこそ、オーガニック農場が実現する。

試行錯誤を繰り返し、失敗を積み重ねて、少しずつ農場の形ができあがるだが、その基本は「自然と調和させる」こと。

次の言葉が響いた。

「観察が生む創意工夫こそが最大の武器」
「波乗りと同じだよ」


例えば、鶏を食べてしまう「悪者」コヨーテが、果実園の根っこを食べてしまうホリネズミを退治してくれる「救世主」へと変身する。

この映画を見ていて感じたのは、「善悪は物事の組み合わせで決まる」というスピノザの考え(國分巧一郎『はじめてのスピノザ』p. 47)。

コヨーテは鶏と組み合わさると「悪者」になってしまうが、ホリネズミと組み合わさると「役立つ存在」になる(人間から見てだが・・・)。

人間の組織においても、それぞれの能力が生かされる場を用意することが大事である、と感じた。

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まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
(マタイによる福音書23章26節)

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『はじめてのスピノザ:自由へのエチカ』(読書メモ)

國分巧一郎『はじめてのスピノザ:自由へのエチカ』講談社現代新書

17世紀オランダの哲学者であるスピノザ。

彼の主著『エチカ』の内容を紹介したのが本書である。ちなみに、エチカとは倫理学(どのように生きるかを問う学問)のことらしい。

一番の前提は、「すべては神の中にあり」(p. 36)、「私たち一人一人は神の一部である」(p. 81)ということ。

だから、存在している個体はすべて、「それ自体の完全性」を備えている(p. 45)。この考えに感銘を受けた。われわれは神の一部であるとしたら、誰もが完全であるはずだ。

さらに、スピノザは「力こそ本質である」(p. 60)と考えていたらしい。神から与えられた能力の中に、つまり、一人一人の「強み」の中に本質が宿っているといえる。

ゆえに、個人の活動能力を増大させるものこそ「善いこと」なのだ(p. 50)。聖書には、神から与えられた賜物(能力)を発揮することの重要性が書かれているが、その考え方と一致する。

そのためには、個々人の活動能力を高められる場所や環境を整えることがポイントとなり(p. 61)、自分の力をうまく発揮できるそうした状況が「自由の状態」であるという(p. 95)。

適材適所」という言葉があるが、個人の能力を発揮できる場を提供することが「善」であり「自由」につながるのだ。

「我々は神の一部」→「だから完全」→「神から与えられた力を発揮する環境を整えると」→「善であり自由になれる」という流れがわかりやすかった。

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主はあなたの楯 剣が襲うときのあなたの力

主はあなたの楯 剣が襲うときのあなたの力
(申命記33章29節)

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『心理療法論』(読書メモ)

C・G・ユング(林道義編訳)『心理療法論』みすず書房

ユングものは2冊目だが、講演録を編集した書籍だけあって、彼の息遣いが聞こえてくるような本だった。

前に読んだ本にも書いてあったが、患者の状態に応じてフロイト方式とアドラー方式を使い分けることを強調している。

「アウグスチヌスは、二つの主要な罪、肉欲と高慢を区別した。前者はフロイトの快楽原則、後者はアードラーの、上に立ちたいと願う権力意志にあたる。これはつまり、二つの人間グループがあって、それぞれ別の欲求を持っているという問題である(中略)本来の神経症心理学の範囲内で考えるかぎり、フロイトの観点もアードラーの観点もなしですますことはできない」(p. 30-31)

これはわかりやすい。

また、ユングは「年齢」に着目することの大切さも説いている。

「かつて若者にとって正常な目標であったものが、年輩の人間にとっては神経症的な障害となる」(p. 38)

若い者には負けられぬ、といった気概は捨てて、年相応の生き方をすることが大事なのだろう。では、中高年者はどのように生きるべきなのか?

「しかし人生後半の人間の場合は別であって、彼はもはや自らの意識的な意志を鍛える必要がなく、むしろ自らの個性的な生の意味を理解し、自分自身の本質を経験しなければならない。彼にとって自らが社会的に有益であることはもはや目的ではない、もっともそれが望ましいことは否定しないが」(p. 57-58)

この考えは、人生後期の発達課題は「次世代への責任」や「自我統合」としたエリクソンの発達段階説と似ている。

なお、精神分析における中心ともいってよい「意識と無意識の関係」について、ユングは次のように言う。少し長くなるが引用したい。

「無意識は意識的意志によってほとんどあるいはまったく影響をうけない」「いまだに意識が人の心の全体を表しているという錯覚が幅をきかせているが、しかし意識は心のほんの一部にすぎず、それが全体に対してもっている関係はほとんど知られていない」「無意識の領域に少なくとも間接的にせよ深く入りこんでいくにつれて、自律的なものを相手にしているのだという印象がますます強くなる。さらに、教育においても治療においても最良の結果が得られるのは無意識が協力するとき、すなわちわれわれの目的が無意識の発達傾向と一致するときであるということ」(p. 82-83)

つまり、われわれの身体の中には、われわれが意識できない「自律的な無意識」が存在していて、その無意識と上手く協力しながら生きていかなければならないのだ。

アンナ・フロイトは、「精神分析治療の目的は、自我が超自我やエスと安全な形で和解できるようにすること」と言っていたが、一種の「交渉」のようなもといえる。

感動したのはユングの治療姿勢。

「何より大切なのは、どんな人も本当に人間として受け入れなくてはいけないし、それゆえに、その人の個性に応じて受け入れなければならないということです。ですから私は若い療法家たちに言うのですが、最良のものを学び最良のものを知りなさい、そして患者に会うときにはすべて忘れなさい」(p. 127-128)

本書を読み、ユングの心理療法アプローチが好きになった。
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『セッション』(映画メモ)


『セッション』(2014年、デイミアン・チャゼル監督)

これはちょっと怖い映画だった(特に最後のほう)。

ニューヨークの名門音楽院に入学したアンドリュー(マイルズ・テラー)は、学内でも有名なジャズバンドにドラマーとして入ることに。

しかし、バンドを指揮するフレッチャー教授(J・K・シモンズ)の指導が凄まじく、気に食わないと学生を罵倒しまくるスパルタ(というかハラスメント)方式。

この指導に耐えながら腕を上げていくアンドリューだが、いろいろな試練が待ち受けているというストーリー。

前に観た映画『オーケストラ・リハーサル』に登場する指揮者も「罵倒系」だったが、音楽の世界にはこうした人が多いのだろうか。

本作から伝わってくるのは「戦いが芸術を作る」ということ。エゴとエゴのぶつかり合いが、創造には欠かせないのかもしれない。
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自分の体で神の栄光を現しなさい

自分の体で神の栄光を現しなさい
(コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章20節)
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『ベイビーティース』(映画メモ)

『ベイビーティース』(2019年、シャノン・マーフィ監督)

高校生のミラ(エリザ・スカンレン)は、通学途中に、見るからにヤバイ系の青年モーゼス(トビー・ウォレス)と出会う。

ナチュラルなモーゼスに惹かれるミラだが、両親(父親は医師)は「おい、おい、ちょっと待てよ」という感じ。

しかし、映画が進むにつれて、ミラが不治の病であることがわかってくる。

限られた人生を精一杯生きるミラに寄り添うモーゼス

こうしたシーンを観るたびに思い出すのは、吉田松陰の『魂留録』

「しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある」(p. 100)

ミラには、ミラの四季があり、それに寄り添うモーゼスという友がいた。そこに幸せがある、といえるかもしれない。


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神は人の歩む道に目を注ぎ その一歩一歩を見ておられる

神は人の歩む道に目を注ぎ その一歩一歩を見ておられる
(ヨブ記34章21節)

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