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あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか

あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか
(ローマの信徒への手紙2章21節)

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ケースメソッド

ビジネススクールの教育方法の定番は「ケースメソッド」。具体的な事例を検討することを通して、分析能力や意思決定を訓練する。最近では、このケースメソッドが、農業経営にも用いられているらしい。

なぜか?

農業生産法人・グリンリーフの澤浦社長は次のように説明する。

「農業はほかの製造業とは異なり、トライ・アンド・エラーのサイクルが長い。30年農業をやっていても、試行錯誤できる回数はわずか30回。だから先人や仲間たちの成功や失敗の体験を学ぶことが非常に大切だ。」

ケースメソッドの利点は、なかなか経験することのできない事を疑似体験できること。他者の経験から間接的に学び、それを自分の経験に生かすことがポイントである。

しかし、ビジネススクールの学生さんを見ていると、ケースメソッドで学んだことを自分の職務に生かしている人と、ケースメソッドが単なるゲームで終わってしまい、自分の仕事に生かし切れていない人がいるように思う。

その点、農業経営塾等で学ぶ人は、前者の方が多いような気がする。

気をつけなければいけないのは、ケースメソッドは単に成功事例、失敗事例を学ぶためのものではないということ。「自分であればどうするか」という当事者意識をもって事例に取り組むことではじめて成果が出るといえる。

本気で学ぼうとする人たちが、正しく使えば、ケースメソッドは効果的なツールになるだろう。
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『聖(さとし)の青春』(読書メモ)

大崎善生『聖(さとし)の青春』講談社文庫

将棋に疎い僕は「将棋界のA級」と聞いてもピンとこなかったが、実は凄いことである。

プロ棋士を目指す人は、日本将棋連盟のプロ棋士養成機関である奨励会に入らないといけないらしい。6級からはじまって四段になるとプロ棋士となるのだが、その後、C級2組→C級1組→B級2組→B級1組と昇格していき、頂点がA級リーグである。

つまり、A級の棋士になるということは、将棋界におけるトップ10の仲間入りをすることを意味する。

この本の主人公・村山聖(さとし)は、6歳のときに腎ネフローゼになり、満足に動くことのできない体になってしまう。しかし、病院で覚えた将棋にのめりこみ、いつしか名人・谷川浩司を打倒することに執念を燃やすようになる。

病と闘いながら一歩一歩将棋界のピラミッドを昇って行った聖は、25歳のとき、ついにA級・八段となったが、29歳でガンのため亡くなる

本書は、腎臓病というハンデを追いながら、将棋界のトップへと昇りつめた村山聖の壮絶な「生きざま」を綴っている。

誰もが「腎臓病さえなければ名人になっていただろうに」と思うだろう。しかし、村山聖は次のように考えていたようだ。

「もし自分が病気でなければ、そう考えることは村山には何の意味もなかった。病気を抱えながら生きる自分が自分自身であり、それは切り離して考えることはできない。病気が自分の将棋を強くし、ある意味では自分の人生を豊かにしているのだと考えた。」(p.248)

こうした考え方はなかなかできない。

ふつうなら「○○さえなければ」と自分のハンデや不幸を呪うが、自分の不幸をも、幸せの源とみなしている。自分の人生そのものを受け入れている、彼の強さと真摯さが印象的である。

29年という短い人生が光り輝いてみえた。

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あなたの僕を驕りから引き離し

あなたの僕を驕りから引き離し、支配されないようにしてください
(詩編19章14節)

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拒否反応

以前紹介した『オーケストラの職人たち』のなかで、著者の岩城宏之さんは、次のように語っていた。

「音楽は依然として、いつでも大好きだ。音の出るものは、浪花節から演歌、ポップス、ジャズ、ロックに至るまで、全部好きだ。特にクラシックはイノチである。だがとても悲しいのは、クラシック音楽に対するぼくの身体の反応が、昔とまったく変わってしまったことだ。正直いうと、クラシック音楽を楽しめなくなったのだ。もちろん仕事をしている最中や、新しいスコアを勉強しているときは、われながら感心するほど、夢中である。好きで好きでたまらない。プロとしてメシを食っているのだから、当たり前だ。しかし、ホテルのロビーやレストランでクラシック音楽が聞こえてくると、途端にダメになってしまう。身体が拒否反応をおこす。行きつけの店だと頼み込んで、クラシック音楽以外に変えてもらうが、いつもそうはいかない。我慢、ガマンである。」(p.97-98)

岩城さんの気持ちは非常によくわかる。実は、僕は経営学を研究しているが、仕事外の時間では、経営のケの字も見たくない。家に帰ってビールを飲んでいるときに、ビジネス関連のニュースなどをやっているとチャンネルを変えてしまう。

仕事のときには「こんなに面白いことがあるのか」と思うほど集中するが、オフになるとダメである。アレルギーに近い反応を示してしまう。良いことなのか悪いことなのかわからないけれども、同じ感覚を持っている人がいると知って少し安心した。
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『光るあるうち光の中を歩め』(読書メモ)

トルストイ(原久一郎訳)『光るあるうち光の中を歩め』新潮文庫

この題名は聖書にある「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」(ヨハネによる福音書12章35節)という一節からとられている。

本書の中身は、文庫本の裏表紙に書かれている次の文章に集約される。

「欲望や野心、功名心などの渦巻く俗世間にどっぷりつかっている豪商ユリウスと、古代キリスト教の世界に生きるパンフィリウス。ユリウスは何度かキリスト教の世界に走ろうと志しながらも、そのたびに俗世間に舞いもどるが、しかし、長い魂の彷徨の末についに神の道に入る。」

一番心に残ったのは、本書の最後。信仰の世界に入ろうかどうか迷うユリウスが謎の老人に出会う場面。老人は言う。

「あんたは倍も、十倍も、百倍も、余分にやったにちがいないと言うだろう。しかし、もしあんたがすべてのひとびとより何億倍も多くなしとげたにせよ、神の仕事全体からみれば、それは何でもありはしない。取るに足りぬ大海の一滴じゃ。神の仕事は、神それ自身のように宏大無辺際じゃ。神の仕事はあんたの内部にありますのじゃ。あんたは神のもとへ行って、労働者でなく、神の息子になりなさい。それであんたは限りない神とその仕事に参加する人間となるだろう。神のもとには大きいも小さいものもありはしませぬ、また人生において大きいものも小さいものもなく、存在するものは、ただまっすぐなものと曲がったものばかりじゃ。」(p.146-147)

これを読んで、大きい仕事ができなくてもいいから、まっすぐな仕事をしたいと思った。

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ねたみや利己心のあるところには

ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです
(ヤコブの手紙3章16節)

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二つの問い

食品スーパーチェーンのヤオコー会長・川野幸夫氏のおっしゃることにはいつも感銘を受ける。とてもシンプルであるが大事なことを指摘されるからだ。

川野氏は、熾烈な競争を生き残るための要素として次の二つを挙げている。

「まず、企業哲学をしっかり持つこと。企業が存続する限り持ち続けるようなバックボーンを大切にすべきです。もう一つは小売各社が「何屋であるか」をはっきりさせることです。消費者のニーズが刻々と変わる中で、自分たちが磨くべき腕前は何か、商いのコンセプトを明確にしないと、社員が努力する方向も分からなくなります。」

こうした要素は、企業にとってだけでなく、個人の活動を考えるときにも大切になる。

「自分は何を大切にして生きているのか?」
「自分が磨くべき腕前は何なのか?」

これら二つの問いに明確にこたえられるとき、人は生き生きと働けるのだろう。

出所:日経ビジネス2011年7月25日号、p.132.

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『いかに生きるか』(読書メモ)

森有正『いかに生きるか』講談社現代新書

哲学者でありキリスト教学者である森有正氏の講演をまとめたもの。長年フランスの大学で教えてきた経験をもとに、日本人としていかに生きるかについて述べている。

違和感を覚えるところもあったが、共感できるところもあった。共感できるたのは、主体的に行動しにくい日本の文化について。

「日本には、いわゆる日本の近代化と一口でいわれる事実の中に、個人の独立という行為は含まれていないことを指摘してきました。家というものがあって、また国というものがあって、その中に日本人はがんじがらめになって、人間がほんとうの自分の自己というものを、見いだすことができない、あるいは見いだしえても、それを十分に発展させることができない、状況にあったということです。」(p.81)

戦時中の経験を踏まえての発言であるが、これは現代においてもいえるように思った。日本人は周りの人の意向を気にしながら生きている。もちろん、人間社会で生きていく限り、相手の意向に配慮することは大切である。しかし、それによって自分を殺してしまうことも多い。

森さんは、日本の社会を「二人称関係の社会」と呼ぶ。

「(私たちは)天皇や親や、あるいは仕事上の上役や先輩から「お前」とか「君」とか「あなた」とか言われる人間として、自分を自覚しているのです。あるいは一家の中にあって、子供から親として考えられ、妻君から夫として考えられ、つまりすべて他の人から二人称として考えられているのです。だからその相手の意志を、相手の考えを推しはかってみなければ、自分の行動を決定することができないのです。」(p.82, 83)

この箇所を読んで、作家のミヒャエル・エンデが「ヨーロッパ人は、自分の身体のなかに強固に座っているが、日本人は自分の身体のなかに、それほどしっかり座っていない。」と語っていたのを思い出した。

欧米の文化の方が優れているとは思わないが、「周囲に配慮しつつ主体的に生きていくこと」は、われわれ日本人の課題であるように思った。

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わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった

わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった
(イザヤ書45章5節)


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