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どうか今、あなたの道をお示しください

どうか今、あなたの道をお示しください
(出エジプト記33章13節)

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未来志向で叱る

人材コンサルタントの田中淳子さんと情報交換をしていたときに良いフレーズに出会った。それは「未来志向で叱る」という言葉だ。

子どもや部下を叱ることは、彼らを成長するために大切なこと。しかし、叱り方によって、彼らのモチベーションが上下する。

悪い叱り方は、「過去志向の叱り方」。

「なんでそんなことしたんだ」「そんなことしちゃだめじゃないか」

良い叱り方は「未来志向」である。

「こうするともっと成長するよ」「この点を注意すると良くなるよ」

同じことを言われても、未来志向だとやる気になる。しかし、未来志向で叱ることはなかなか難しい。つい過去志向になってしまう。たぶん、怒っているからだろう。人を責める気持ちが強いと過去志向になるような気がする。

叱る前に「過去志向の表現から未来志向の表現へ翻訳する」ことが大切なのかもしれない。

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『すぐ「死にたい」という人たち』(読書メモ)

黄淑『すぐ「死にたい」という人たち:心療内科の診察室から』岩波書店

精神科医の黄先生が、自身の診察室を訪れた患者とその家族の姿をもとに、現代の日本社会を考察した書である。

ひきこもり、ニート、リストカット、不登校から抜け出せない患者たちがよく口にする言葉が「死にたい」である。

「傷つきやすい自己愛を抱え、他者との関係の中での自らのあり様についてなんら内省することなく、すぐに「死にたい」という。「死にたい」、この一言には、さまざまに多義的な意味が込められているとみるべきだろう。「消えたい」「逃げたい」「悲しい」「腹がだつ」「わからない」「いやだ」・・・・・容易には言語化できない曖昧で漠然とした思いが「死にたい」という一言に凝集されているのである。そして、この「死にたい」気分を根底で支配しているのは、一種言い表しようのない空虚感なのである」(p.xii)

本書では、さまざまな患者の様子や発言が紹介されている。淡々と紹介されるだけなので、はじめのうちは「じゃあ、どうすればいいのか?」と思ってしまった。しかし、積み重ねられた事例から、徐々に、今の日本の社会の状況が浮き彫りになっていく。

「私のクリニックに診察に訪れる子どもたちを診ていて類推できることは、子どもの問題とは、実は大人の問題であり、大人たちがつくる現実の反映であるということです。子どもが健全に成長するには、養育する大人の生きる姿勢や社会そのものの健全度が影響する、という当たり前の事実を改めて確認させられます」(p.116)

高度成長期からバブルまでに存在した終身雇用というせーフィティネットがなくなり、地域コミュニティが崩壊し、人々が孤立化する現在、私たちは追い求めるべき共通の目標も見失っている。そのしわ寄せが子どもたちに来ているのだ。

本書に出てくる若者たちは、ほぼ例外なくいじめに合っているため、対人スキルが低く、ストレスへの耐性が弱い。その結果、より内向的に自己相手機に生きる傾向があるという。そして、その親たちも大人として成熟していない。

黄先生は、今の子どもたちが感じている状況を「真綿の息苦しさ」と表現している。

「戦中・戦後の記憶をひきずっている大人は、欠乏状態は経験してきましたが、真綿の息苦しさは経験したことがないというべきでしょうか。豊かな世代の病理の切実さは、本音をいえばただのわがままとしか映りません。もしかしたら、真綿の苦しみを、生きづらさを、周囲にアピールする究極の方法、それによってわずかに風穴を開けて域をつこうとする、生きるための必死の訴えが自殺なのかもしれません」(p.123-124)

本書の最後に書かれている次の提言を、真剣に考えなければならない、と感じた。

「子どもたちは「生きたい」と必死に訴えています。現代の社会と文化の本質の中にある何かが人を殺している、と。大人たちはそれに応えて、何がそうさせるのか、知識と経験を総動員して考えてみるべきではないでしょうか。たとえ、どんなに難しい課題であろうとも」(p.124)


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神はわたしたち一人一人から遠く離れておられません

神はわたしたち一人一人から遠く離れておられません
(使徒言行録17章27節)
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教養の身につけ方

ジャーナリストの池上彰さんは「教養の身につけ方」について次のように語っている。

「たくさん本を読んで、知識が豊富になれば、それで「教養がついた」ことになるかというと、ちょっと違うような気がします。自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができて初めて「教養」が身についた、と言えるのだと思うのです」

池上さんは、NHKの「週間こどもニュース」を担当していたとき、小学6年生向けに大人のニュースを解説することを通して伝え方を身につけたという。

本を読んで得た知識を、誰にでもわかるように伝える。これが教養を身につける上で大切なのだな、と思った。

出所:日経ビジネス2013年3月18日号, p.108.

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『神曲』(読書メモ)

ダンテ(平川祐弘訳、ギュスターヴ・ドレ画)『神曲』河出書房新社

ギュスターヴ・ドレの挿絵がきれいなので買ってみた。

生きているダンテが、古代の詩人ヴェリギリウスを案内人として、「地獄、煉獄、天国」を巡る(想像上の)見聞録のようなものである。神曲というタイトルからして神々しい本かと思ったが、けっこうドロドロしていて人間くさかった。というのは、ダンテは、自分の嫌いな人物を地獄篇に、気に入った人物を天国篇に登場させたりしているからだ。

解説を見ると、もともとのタイトル「Commedia」は、本来「めでたく終わる作品」「喜劇」という意味であって、『神曲』という訳は森鴎外がつけたことで定着したらしい。これを読み、タイトルと内容のギャップに納得した。

本書の中で最も印象に残ったのは「煉獄篇」。

煉獄とは、地獄と天国の中間にあって、天国に行くために罪を洗い清めるところ(なお、煉獄はカトリック教会だけで認められている考え方)。煉獄では、高慢、嫉妬羨望、怠惰、貪欲、大食らい、好色といった罪を持った人達が、さまざまな懲罰を受けている。

例えば、貪欲の罪を持った人々は、地面にうつぶせになって泣いている。煉獄に落とされたある元ローマ法王は、次のように反省する。

「私らの目は生前、地上のものに吸いつけられ、天を仰ごうとしなかったから、それで[神の]正義がここで私らの目を地面に押しつける。善にたいするあらゆる愛を貪欲が消し、そのために私らの行為は無に帰したが、そのために[神の]正義がここで私らの手足を縛りつけ、わたしらをしっかりと取り抑えている。そして正義の主が思召すかぎり、私らは身じろぎもせず地に平たく伏せているのだ」(p.348)

実際にこのような世界があるかどうかわからないが、「今の自分の生き方」を振り返る上で有益な本である、と感じた。



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破滅に先立つのは心の驕り

破滅に先立つのは心の驕(おご)り。名誉に先立つのは謙遜。
(箴言17章12節)


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演出家と役者の目線

劇作家で演出家の野田秀樹さんは役者もこなす。

なぜか?

「作・演出側からの目線というはやっぱり一方向で、舞台に立って初めて気付くことってあるんです。役者側からの思い付きとか目線とか、それがまた自分の作・演出にフィードバックする。演じることの面白さは、捨てがたい魅力がありますね」

役者と演出家の関係は、現場と本社の関係に似ているような気がした。本社にだけいると現場の目線を忘れてしまうが、現場に埋没すると広い視野でものが見えなくなる。

違う立場を行ったり来たりすることの大切さを感じた。

出所:VISA 2013.Apr. No.474, p.11
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闘って勝ち取って、なおかつ捨てる

園子温(そのしおん)さんは、『愛のむきだし』でベルリン映画祭の賞を受賞した映画監督である。その他にも『冷たい熱帯魚』『ヒミズ』などの話題作でかなり有名な人だ。

ところが、この園監督、お笑い芸人に転向するらしい。

なぜか?

「今の自分にとっては、すべてをゼロに戻し、けもの道を歩くという選択が必要なんです。逆境の中に身を投げ出し、自分を奮い立たせる ― ずっとそうやって生きてきたから、そうするしか能がないんだと思う」

「こんな性格だから常に自分を奈落の底へ突き落とさないと前に進めない。そうすることで「なにくそ!」っていうパワーが生まれるでしょう」

「だから僕はお笑い芸人を目指す。現状に甘えないで、今持っている貯蓄をすべて投げ出してでも、未来につなげていく覚悟が必要なんです。闘って勝ち取って、なおかつ捨てる。・・・・・そしてゼロからまた始める。自分はそういう人生をこれからも繰り返していくのだと思う」

ちなみに園さんは1961年生まれなので50歳を過ぎている。映画監督として地位を築いた今、そのすべてを捨てて新しい道を歩もうとする気迫に驚いた。時代に合わなくなった知識やスキルを捨ていることをアンラーニング(学習棄却)というが、ここまで大胆にアンラーニングする人も珍しい。

何となく現状に甘え始めている自分に気づき、少しマズイと思った。

出所:ビッグイシュー日本版210号(2013年3月1日号), p.3.



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自分の罪を公に言い表すなら

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1・1章9節)

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