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人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい
(ルカによる福音書6章31節)

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『ハムレットQ1』(読書メモ)

シェイクスピア(安西徹雄訳)『ハムレットQ1』光文社

この本を読んで感銘を受けたのはその内容よりも、シェイクスピアの作品制作方法だ。

ハムレットQ1の「Q1」とは、Quartoの略で、縦24センチ横18センチの「四折本」のことを指すらしい。ハムレットには、Q2とかFとかいろいろなバージョンがあるらしく、このQ1は最初に出版された最も短いもの。

解説を書いている上智大学の小林先生は次のように説明している。

「シェイクスピアが『ハムレット』を発表する以前に、ハムレットという人物を主人公にした劇が上演されていて、それが大いに評判を呼んでいた。シェイクスピアはそこで、今日では失われてしまったこの古い劇を大きく書き変え、新たな『ハムレット』をつくりあげたが、Q1はこの改作の過程の初期段階をあらわしたもので、Q2はその次の段階、そして最後にFは、これにさらに手を加えたものと考えるのである」(p.154)

一番はじめのバージョンなので、荒っぽい感じがしたのだが、とにかくスピード感がある。ハムレットのたたみかけるようなセリフがリズミカルに放たれるので、まるで劇を見ているような気分になった。

もう一人の解説者である東大の河合先生の説明も面白かった。

「上演台本というものは芝居の現場に応じて変わるものだ。演出上の都合であちこち台詞をカットすることはよくあることだし、作家が現場にいるなら演出家の要請に応じて書き直すことだってありうる。(中略)シェイクスピアは現場の人であったのだから、常にそうした現場の要請に応えながら台本を用意していたはずだ。作品を再演するたびに何かしら変えないほうが不自然だったとさえ言えるだろう」(p.174)

「シェイクスピアは現場の人であったのだから」という言葉にインパクトを受けた。シェイクスピアは現場で格闘しながら台本を書いていたからこそ、現場の迫力が作品から伝わってくるのだろう。「現場を大事にしろ」と言う企業の人は多いが、どのような領域においても、現場は創造の源なのだ、と感じた。




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作品を練り上げる

桂文枝さん(元桂三枝さん)が落語の世界に入ったのは23歳のとき。ある日「ラジオの深夜番組の仕事がきているから、行ってこい」と師匠に言われ、そのままラジオ・テレビの世界で人気が出てしまう。

しかし、ずっと落語の世界に戻りたくて「このままじゃいけない」と葛藤の日々を送る。37歳の頃、グループ「落語現代派」を旗揚げし、創作落語を創り始めた文枝さんは次のように言う。

「落語というのは最初からおもしろいわけではないので、稽古を重ねながら中身を変え、おもしろく磨き上げていかないといけない。だから、お芝居のように、いついつの舞台までにセリフを入れてという詰め込み式の稽古ではダメで、日々、ネタを繰り、お客さんのいないところで何度も何度も同じことを繰り返す。そうして初めて、ふと今まで思いつかなかった新しい発見が出てきて、少しずつおもしろくなっていくんです」(p.3)

落語を磨き上げていく、という言葉が印象に残った。テレビで人気者になっても自分の原点を忘れず、作品を練り上げていった文枝さんに芸人魂を見た。

出所:ビッグイシュー日本版201号

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手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう

手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう
(使徒言行録8章31節)
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『チャイコフスキー・コンクール』(読書メモ)

中村紘子『チャイコフスキー・コンクール:ピアニストが聴く現代』新潮文庫

チャイコフスキーコンクールは、ショパンコンクール、エリザベートコンクールと並び、世界で最も権威のあるコンクールの一つである。このコンクールの舞台裏を、審査員として参加した中村紘子さんが語ったのが本書である。

まだロシアがソ連と呼ばれていた1980年代のモスクワ。コンクールの参加者、審査員、主催者をバッサバッサと切りまくる辛口コメントに満ちている本書であるが、最も印象に残ったのは、ピアニストの評価ポイントについて述べた次の箇所。

「基本的にはピアニストとして相当な能力をもっていること。そして、ステージに登場したときに、或る種の爽やかさとでもいうべき「感じのよさ」があること、即ち演奏を開始する前から既に満場の人の気持ちを惹きつける何かを備えていること。これはコンクールの場では大変重要視され、大きな才能の一つと認識される。さらに演奏そのものにおいては、「先生から手とり足とり学んだ優等生」タイプの演奏よりも、素直で初々しさがあってのびのびとしていて、ミスは目立ってもなにか自分自身のことばで語りかけている、いわば、その人自身の人間的魅力が伝わってくるようなものであること」(p.261-262)

コンクールに限らず、普段の仕事においても同じことがいえると思った。特に、人柄に加えて、「自分自身のことばで語りかけてくる」というところが大切になるように感じた。いろいろな方々と話をしていると、借りものの言葉を語る人と、自分自身の言葉で語りかけてくる人がいるが、その違いは大きい。

もう一つおもしろかったのは、知性と音楽的実力の関係。日本人は、作品を感動に満ちて演奏することができない理由として「音楽家の心がけ、精神修養、教養が欠けているから」と考える傾向にあるという。中村さんが、このことを世界的に有名な音楽評論家ハロルド・ショーンバーグに聞いたところ、次のような答えが返ってきた。

「ホロヴィッツに、ネコの脳ミソほどの知性を期待しているやつはいないよ。しかし、彼の演奏は素晴らしい」(p.234)

普通の人であれば、能力だけではなく人柄や知性が評価のポイントになるが、天才レベルになると、人柄なんてどうでもよくなるのだろう。



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生き倒れたところが最終目的地

真田広之さんというと「アクションスター」のイメージが強いが、『ラストサムライ』で注目されてから、ロサンゼルスに拠点を移し、海外のドラマ・映画・舞台に活躍しているようだ。

立て続けにメジャー映画に出演したかと思うと、ジェームズ・アイヴォリー監督の『最終目的地』という渋い映画で、名優アンソニー・ホプキンスと共演したりしている(なんと真田さんはアンソニー・ホプキンスの恋人役らしい)。

最終目的地はどこにあるのですか?という問いに対し、真田さんは次のように答えている。

「自分で決めている最終目的地はないです。逆に根っこを生やさず、それこそ生き倒れたところが最終目的地になるのかな。新しい価値観に触れるたびに、まだまだ見るべき風景があるなあと思います」

「生き倒れたところが最終目的地」という言葉にグッときた。まだまだ挑戦的に生きている52歳の真田さんに刺激を受けた。

出所:VISA Nov. No.470, p.14.

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無知な者は自分の道を正しいと見なす

無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。
(箴言12章15節)

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『八甲田山死の彷徨』(読書メモ)

新田次郎『八甲田山死の彷徨』新潮社

時は日露戦争前。対ロシア対策のため、極寒の地で演習を行った青森5連隊と弘前31連隊。壊滅的な被害が出た青森隊に対し、弘前隊は一人の死者も出さなかった。その違いを分析したのがこの小説である。

いろいろな要因があるのだが、一番驚いたのは、弘前隊の学習のしくみである。弘前隊は、通常3日で終わる演習を、11日間に延ばし、その間、雪中行軍のノウハウを身につけていく。

極寒の地では、凍傷になりやすく、食糧はすぐ凍ってしまい、疲れやすい。

こうした問題に対処するため、各隊員には「凍傷の予防法と処置法の研究」「携帯食の研究」「寒冷に対する疲労度の研究」などの研究テーマが与えられ、報告書の提出が求められた。そして、二日間の研究成果を三日目の行軍に役立てていくのである。こうして蓄積したノウハウを武器に、弘前31連隊は最難関の八甲田山を乗り切ることができた。

そもそも、なぜそんなことが可能となったのか?それは、弘前隊を率いる徳島大尉が、危機感を持って、現実を直視し、綿密な計画を立て実行したからである。

弘前隊の事例は、ビジネスをはじめとして、さまざまな分野で困難な問題に直面した人達にとって参考になるのではないか、と感じた。







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創造のエネルギーとしてのコンプレックス

作家の新田次郎氏は、長年、気象庁に勤めており、その官舎に住んでいた。そこは、課長以上のための官舎であったため、住人の多くが東大理学部出身者で、理学博士号を持っていたらしい。

無線通信講習所(電気通信大学の前身)出身の新田氏は、東大出に負けてたまるかと猛烈に勉強し、専門書を書き、論文を発表したが、なかなか課長になれなかったという。息子の正彦氏は次のように語っている。

「父の東大コンプレックスと理学博士コンプレックスはかなり根深いものだったのだろう。私が東大に入学した時、父が「お前みたいなバカでも東大に入れることがわかって、コンプレックスがいっぺんになくなったよ」と言って高笑いしたのを覚えている。私が理学博士号を取った時は、「お前みたいなバカでも理学博士をとれるんだ。完全にコンプレックスがなくなったよ」と言った。作家として一人立ちして十年がたち、著作が片っ端からベストセラーになっていた頃だった。」(p.276)

新田氏にとって、小説こそ、自分をアピールする手段だったのだろう。そういえば、松本清張氏も、朝日新聞社の地方採用として冷や飯を食っているときに小説を書き始めたはずである。

コンプレックスも創造のエネルギーになる、といえる。

出所:新田次郎『小説に書けなかった自伝』新潮社

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暗闇に追いつかれないように

暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい
(ヨハネによる福音書12章35節)


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