goo

何事にもふさわしい時があるものだ

何事にもふさわしい時があるものだ
(コヘレトの言葉8章6節)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『イワン・イリイチの死』(読書メモ)

トルストイ(望月哲男訳)『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』光文社

イワン・イリイチは、エリート官僚(裁判官)。美人の奥さんをもらって順調に出世し、裕福な生活を楽しんでいた。人生のコンセプトは「快適に、上品に」である。しかし、夫婦仲がうまくいかなくなると、イリイチは仕事に逃げる。

勤務の世界にこそ、彼の人生の関心事が全部集中していた。そしてその関心事に彼は没頭していたのである」(p.45)

そんな彼に不治の病が襲いかかる。痛みに苦しむ中で、死と戦い、人生について考えるイリイチ。しかし、心配してくれる友人もおらず、奥さんとも心の交流がなく、孤独の中でのたうち回る

「「ひょっとしたら、私は生き方を誤ったのだろうか?」不意にそんな考えが浮かんだ。「しかし何でもそつなくこなしてきたのに、いったいどうして誤ったのだろう?」」(p.122)

「彼の仕事も、生活設計も、家族も、社会の利益や職務上の利益も―すべて偽物かもしれない。彼はそう思う自分に対して、それらすべてのことを弁護しようとしてみた。すると不意に、自分の弁護がいかにも根拠薄弱だと感じられてきた。そもそも弁護すべきものが何もないのだった」(p.130-131)

そして死の直前。涙にくれる息子や妻を前にして、イリイチは思う。

「妻や子がかわいそうだ。彼らがつらい目にあわないようにしてやらなくては。彼らをこの苦しみから救えば、自分も苦しみをまぬかれる。「なんと良いことだろう。そしてなんと簡単なことだろう」彼は思った。「だが痛みは?」彼は自問した。「痛みはどこへいった?おい痛みよ、おまえはどこにいる?」」(p.137)

自分中心の世界から開放されたイリイチは、死の直前に光の中へと入ることができたのだ。

他者を思いやる」ことは、一見簡単そうに見えて実行することが難しい。しかし、そこに良い人生を送る鍵が隠されているのだろう。






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

苦行を楽しむ

再び『ガウディ伝』から。

彼は、自分の仕事を次のように考えていたようだ。

「ガウディは、少なくともその後半生においては、自分の仕事を神によって与えられた苦行だと考えるようになっていた。しかも、その苦しみを楽しんでいた」(p.224)

「苦行」を「楽しんでいた」ガウディ。ストレッチとエンジョイメントが融合していたからこそ、良い仕事ができたのだろう。

出所:田澤耕『ガウディ伝』中公新書


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神を畏おそれ、その栄光をたたえなさい

神を畏おそれ、その栄光をたたえなさい
(ヨハネの黙示録14章7節)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

自己模倣と自己破壊

ガウディの建築には独特のスタイルがあるように思えるが、『ガウディ伝』の著者、田澤耕氏は次のように述べている。

「ガウディには自己模倣というものがない。生み出す作品ごとに新境地を切り開いていったのである。たとえば、バッリョー邸とミラー邸は少しも似たところがない。知らなかったら、同一建築家の作品とはとても思えないだろう。スタイルとか流行とかいうものは、極限すれば、自己模倣をする芸術家たちによって作られるものである。もちろん自己模倣は、「自らの個性、スタイルの確立」とポジティブな言い方をすることもできる。(中略)しかし、ほんの一握りの真の天才たちには、この定義はあてはまらない。彼らは、常に自己破壊と再生を繰り返すので、スタイルに縛られないからである」(p.262-263)

自己破壊と再生とは、「アンラーニング(学習棄却)」である。

たしかに、ピカソなどは、何回か自分のスタイルをガラッと変えている。自分を振り返ってみると、完全に自分の「型」ができあがっているように感じた。常に実験精神を持って「型」を再創造することが大切なのだろう。

出所:田澤耕『ガウディ伝』中公新書

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『ガウディ伝』(読書メモ)

田澤耕『ガウディ伝:「時代の意志」を読む』中公新書

バルセロナにある奇妙な形の建物、サグラダ・ファミリア教会で有名なアントニ・ガウディの評伝である。

本書を読んで最も印象に残ったのは、運と才能の重要性である。

職人の息子だったガウディは、初等教育を受けた後、工場で見習工として働くことになった。ところが、ガウディの能力を見抜いた親方が「中等学校にやるべきだ」と勧めたため、進学することになる。

しかし、故郷のレウスには中等学校がない。ちょうどその頃、貧しい子どもたちへの教育活動を使命とする修道会が、中等学校を作り、ガウディはそこで学ぶことができた。その後、波に乗ったガウディは、バルセロナの建築学校に入学し、建築家となる。

31歳のとき、たいした実績も上げていないガウディは、サグラダ・ファミリア教会の建築を任されたのだが、その理由はなんとガウディの目が青かったから。施主が神の啓示を受けたためである。

以前、『天才の栄光と挫折:数学者列伝』の中で藤原正彦先生が、「とんでもない天才は運がいい」と言っていたのを思い出した。

次に、「才能」について。

幼い頃、クリスマスのお祝いの準備で、それぞれの生徒が「パセッブラ」というキリスト生誕の場の模型を作ることになったときのこと。

「アントニの隣に座る女の子が奇声を挙げた。「トゥネット(アントニの愛称)、なに作ってるの!」アントニのパセッブラは誰も見たことのないような異様な代物だったのである。それがどんなものだったかを知る手掛かりがある。後年、アントニ・ガウディが設計したミラー邸を見たその元女生徒がこう言ったのである。「トゥネット、小さいころと同じようなものを作っているのね!」(p.11)

ガウディの奇抜なデザイン性は、修練の賜物というわけではなく、生まれつきのものだったのである。

本書を読み、才能を見つけて、チャンスを与えることの大切さを感じた。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。

破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。
(箴言18章12節)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『武家の女性』(読書メモ)

山川菊栄『武家の女性』岩波文庫

幕末の水戸藩。下級武士の家庭で育ったお母さんへの聞き取りをまとめたのが本書である。武家の生活を、女性の視点から明らかにした本書は貴重な資料である。

この本を読んで感じたのは、武家の女性の息苦しさと誇り

「良家の夫人が外へ出るのは盆暮に実家への挨拶、親戚の吉凶、親の命日の墓参り、神社の参詣くらいのもので、ほかにはまず出ませんでした。女の一人歩きは、主人の顔にかかわる、はしたいないこととされていた時代のことで、出るとなれば伴(つ)れか、お供がなければなりません」(p.23)

「当時の女にとって、家庭は教室でもあり、職場でもあり、哺育所でもあり、養老院でもあり、いっさいを意味していました。女たちはそこで子どもを育て、年寄りをいたわり技能を習得し鍛錬もされました」(p.183-184)

これに比べて町人の女性は、芝居に行くなど比較的自由に外に出ることができたらしい。この点から考えると、現在の女性は、武家系というより町人系の文化を受け継いでいるように思えた。

なお、幕末の水戸藩は、維新の動乱のまっただ中にあった。当然、旦那の行状は家族に影響する。

武田光雲の長子彦右衛門の妻いくは、3人の男児と一緒に牢にはいっていた。子どもたちに『論語』を教えていたのを見た牢番が「どうせ死んで行く子に、そんなことをしても無駄だろう」と言ったとき、いくさんは次のように答えたという。

「この三人のうち、ひょっとして一人くらいは赦されないとも限らない。その時、学問がなくては困るから」(p.151)

この箇所には、グッときた。さすが武家の妻である。本書を読み、武家の女性のDNAは、現代の女性にどのように受け継がれているのかが気になった。






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「優しさ」や「技術志向」を定義する

大手エンジニアリング会社・千代田化工建設会長の久保田隆氏は、今後成長していくにあたり、社内における「ものの考え方」を変えていく必要がなあると述べている。

「例えば、当社には「社員に優しい」という文化があり、なかなか厳格な成果主義の導入に踏み切れないままだ。社員にとって居心地のよい状態が、”甘さ”を生んでいるのではないか。それが、業績に反映されているのではないか。また、「技術を重視するプロフェッショナル集団である」という伝統がある故に、プラントの建設現場ではついオーバースペック(過剰仕様)になってしまいがちだ。よかれとおもってコストをかければ、そのぶん、もうけが減る」

つまり、「社員に優しい」が「甘さ」につながり、「技術重視」が「過剰仕様」につながっているという指摘である。これは、日本企業全体について言えることではないだろうか。

ただし、久保田氏も指摘するように、下手に変革して社員のモチベーションが下がってしまっては元も子もない。良いところを残しながら、いかに企業文化を進化させていくか。ここが難しいところである。

一つの方法は、「社員に優しい」や「技術重視」を明確に定義することではないか。定義の中から、「甘さ」や「過剰仕様」を排除することが大切である。その上で、企業成長や個人成長に必要な「優しさ」や「技術志向」を残すような制度設計をする必要があると感じた。

出所:週刊ダイヤモンド2013年8月31日号p.109
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる
(マタイによる福音書23章12節)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ