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わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。

わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
(ヨブ記1章21節)


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『落日燃ゆ』(読書メモ)

城山三郎『落日燃ゆ』新潮文庫

A級戦犯として処刑された、広田弘毅元首相を主人公とした小説である。

もうすこしドラマティックなストーリー展開を期待していたが、淡々と事実を記述していく内容であった。しかし、それゆえに、第二次世界大戦における日本政府の状況がよくわかった。

なぜ、日本は戦争に突入してしまったのか?

統帥権独立の名の下に、軍部は独走し、外交や行政は振り廻され、あるいははねとばされた。また同じ軍部内でも、陸軍と海軍は対立し、さらに、陸軍内でも、参謀本部と陸軍省が対立していた」(p.356)

つまり、政府が軍事コントロール権限を持たなかったことや、実質的な統帥権を陸軍と海軍が別々に持っていたことが、軍部の独走と分裂を招いた、ということだ。この小説を読むと、それを実感することができる。

こうした悲惨な状況の中で、広田弘毅は戦争を止めようと必死に努力したにもかかわらず、結局、戦犯として処刑されてしまう。

国の将来のために、自ら死を受け入れる姿勢に、真のサムライの姿を見た。

さらにすごいのが、妻・静子さん。

戦犯として夫が捕まった後、服毒自殺をしてしまうのだが、それは、夫の覚悟がゆらがないためであった。静子夫人が亡くなる前夜、家族を前に彼女は次のように話していたという。

「このとき静子は、話の合間に、「これまで楽しくくらしてきたのだから、もういいわねえ」などとつぶやき、また、広田を楽にして上げる方法がひとつあると、謎めいたこともいった」(p.368)

静子さんも、サムライの妻であったのだ。

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原点に回帰する

『チェブラーシカ 動物園へ行く』を監督した中村さんは、小さい頃、映画監督になるのが夢だったという。

でもものすごい人見知りで、映画監督はたくさんの人と話さなきゃいけないから無理だなと気がついて、それなら漫画家になろうと思ったんですが、絵を描くのは難しいなと、その後いろいろ考えて辿り着いたのが脚本家の仕事でした」(p.6)

その後、ラジオ番組の脚本や構成を担当していた中村さんは、現在、映画監督の仕事をしている。

はじめに抱いてた思いが強いと、たとえ別の世界を旅していても、巡り巡って再び原点に回帰するのだな、と感じた。

出所:ビッグイシュー日本版Vol.291
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思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい
(ペトロの手紙5章7節)


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命を引き継ぐ

映画『チェブラーシカ 動物園へ行く』を制作した中村誠監督は、同時上映の作品『ちえりとチェリー』の中に、母の死の体験を込めているという。

父親を亡くしたショックから立ち直れずにいる主人公のちえりが、空想の冒険を通して、父の死を乗り越えるという物語らしい。

中村監督はいう。、

「亡くなった人の気持ちを知ることはできないから、残された人が考えるしかない。でも実は亡くなった人の気持ちはちゃんと引き継がれているんです。たとえば僕の考えや思いを誰かに伝えると、それは僕が死んだ後も誰かの中で生き続けると思います。肉体は滅びても、命は引き継がれていくのだと感じることで、僕は母に対する思いに決着をつけることができたような気がしたんです」(p.06)

語ること、伝えることで、他者の命が引き継がれる、という考えに感銘を受けた。そう考えると、ひとりの人の中には、さまざまな人が生きていることになる。

大事な人の語りを聞くこと。大事な人に語りかけることの大切さを感じた。

出所:ビッグイシュー日本版Vol.291

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『いつか陽のあたる場所で』(読書メモ)

乃南アサ『いつか陽のあたる場所で』新潮文庫

この小説はタイトルがいい。

いくら失敗したとしても、何とか取り戻せる希望のようなものが感じられる。

どこかで聞いたことがあるタイトルだと思ったら、以前NHKのドラマで放映されていたことを思い出した(ストーリーはかなり違うが…)。

前科のある二人の女性が社会復帰した後、不安の中で精いっぱい生きる姿が描かれているのだが、「普通に生きること」がいかに幸せであるかを実感することができる。

例えば、主人公の芭子(ハコ)についての記述。

「このところ、芭子はアルバイト先で必要に迫られたこともあって、パソコンの使い方を覚えた。今まで毛嫌いしてきたが、実際に使ってみると便利なことが分かったし、その上、インターネットにも少し慣れてきて、ついこの間、思い切って念願のノートブックパソコンを買ってしまった。今は、暇さえあればパソコンに向かっている。刑期を終えて一年半、ひたすら息をひそめて、目立たないように、地味に、質素に暮らしてきた芭子にとって、それは、初めて得た趣味であり、潤いであり、新しい世界だった」(p.190)

何気ない日々の生活の中にある「ありがたい恵み」を、再めて噛みしめる必要があると感じた。



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知恵ある者は、その知恵を誇るな

知恵ある者は、その知恵を誇るな
(エレミヤ書9章22節)


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「ふうむ」

『ノルウェイの森』は不思議な小説である。

あまり共感できないのに、印象に残る部分があるからだ。しかも、メインストーリーではなく、ごく些細な点

主人公ワタナベが、友人(?)の緑と会話するシーン。

「何か用事でもあったの?」
「別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ」
「ふうむ」と僕は言った
「『ふうむ』って何よいったい、それ?」
「べつに何でもないよ、ただのあいづちだよ」と僕は言った。
(下巻p.45)

なぜか、この「ふうむ」が気になってしょうがない。読み終わった後、ずっと記憶に残っているのが、この「ふうむ」なのだ。

ストーリーよりも話し方のスタイルが気になった小説という意味では、レイモンド・チャンドラーのマーロウ・シリーズと似ている。

そういえば、村上春樹はチャンドラー小説の翻訳をしていたのを思い出した。



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『ノルウェイの森』(読書メモ)

村上春樹『ノルウェイの森』講談社文庫

以前、この本を読もうと思ったが20ページくらいで挫折してしまったことがある。今回もう一度トライし、何とか読み終えた。

ノーベル賞候補者だけあって才能は感じたものの、ストーリーや登場人物に今ひとつ共感できなかった、というのが正直な感想である。

しかし、ひとつ印象に残った箇所があった。それは、大学生である主人公ワタナベが恋人の直子に出す手紙の中の一部である。

「ときどき淋しい気持ちになることはあるにせよ、僕はおおむね元気に生きています。君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をしたりするように、僕も毎朝僕自身にねじを巻いています。ベッドから出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服を着がえて、寮の玄関を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいコリコリとねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと生きようと思うわけです」「朝ベッドの中で君のことを考えればこそ、さあねじを巻いてきちんと生きていかなくちゃと僕は思うのです」(p.104-105)

ねじを巻く」という表現がとてもいい。

人はいろいろなものを背負って、毎日勉強や仕事をしているのだが、このワタナベと一緒で、一生懸命ねじを巻きながら、その日その日を何とか乗り切っているのではないだろうか。



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あなたがたに平和があるように

あなたがたに平和があるように
(ヨハネによる福音書20章19節)

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