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神はわたしの道を見張り

神はわたしの道を見張り わたしの歩みをすべて数えておられるではないか
(ヨブ記31章4節)


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人間が野獣に戻るとき

モーパッサンは、普仏戦争に従軍していたらしく、このときの経験をベースに『脂肪のかたまり』を書いたという。

戦争という状況が、人間の本性をむき出しにさせる場面を何度も見てきたモーパッサンは次のように語っている。

「われわれは戦争をこの目で見た。人間が野獣に戻り、気が狂ったようになり、面白がって、あるいは恐怖にかられて、あるいは強がりの気持ちから、もしくは自分をひけらかしたい一心から、人を殺すのを見たことがあるのだ。法が消滅し、法律が死に、正義にかかわるあらゆる概念が消えてしまうと、道路上でおびえていたにすぎないのに、それが怪しまれて、罪もない人間が銃殺されるのを見たことがあるのだ」(p.102)

『脂肪のかたまり』には戦闘シーンは出てこないものの、普通の人々がエゴをむきだしにする様子が描かれている。「いじめ」の話などを聞くたびに、人間が野獣に戻ってしまう状況は、平和な世界でも多々あるように思えた。

出所:モーパッサン(高山鉄男訳)『脂肪のかたまり』岩波文庫



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『脂肪のかたまり』(読書メモ)

モーパッサン(高山鉄男訳)『脂肪のかたまり』岩波文庫

タイトルの奇抜さに惹かれて読んでみた。

プロシア軍が侵攻してきたため、フランス軍が駐留している町まで馬車で移動しようとする人々。伯爵、伯爵夫人、商人、修道女などの乗客の中に、「脂肪のかたまり」というあだ名の太った娼婦も混じっていた。

飢えや、身の危険の中に置かれたときに、人間はどのように振る舞うのか。この点が如実に描き出されている。

「自分さえ良ければいい」と考える貴族や修道女たちの態度を非難したくなるのだが、読み進めるうちに、「自分も同じことをしてしまうかもしれない」という思いが強くなってくる。

人間の自己中心性をつきつけてくる本書のメッセージは強烈である。




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欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます

欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます
(ヤコブの手紙1章15節)

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師匠の存在

芥川龍之介は、師匠であった夏目漱石の死の知らせを受けたとき、深い悲しみを感じると同時に、開放された気持ちにもなったという。

なぜか?

それは、重圧からの解放である。師匠の目を気にせず、自由に執筆活動ができるようになったということだ。

しかし、その後、さまざまな負の出来事の中で悩み、ついには自らの命を絶ってしまった龍之介。もし漱石の支援、励まし、指導があれば、負のスパイラルから抜け出せたのではないか、とも思った。

いくつになっても、道を正してくれる師匠の存在は貴重だと感じた。

出所:関口安義『芥川龍之介』岩波新書
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『芥川龍之介』(読書メモ)

関口安義『芥川龍之介』岩波新書

大学生の頃に書いた「鼻」が夏目漱石に激賞されたことをきっかけに、華々しく文壇に登場した芥川龍之介は新進作家の仲間入りをした。その後、「芋粥」「蜘蛛の糸」「羅生門」「地獄変」などの作品を立て続けに出して注目を浴びる。

しかし、勤めを辞めて、専業作家になったとたんに、歯車が狂ってくる

女性とのトラブル、周囲からのやっかみや批判、親族の不幸が続き、作品にも一時の勢いがなくなっていく。苦しむ龍之介は不眠症になり、睡眠薬を常用するようになってしまった。

そしてついに自殺してしまうのだが、死の床の傍らに聖書があったことが悲しい。キリストに惹かれ、「西方の人」などキリストを主人公にした小説を書いていた龍之介であるが、薬漬けになった状況で、早く楽になりたかったのかもしれない。

本書を読み、芥川龍之介の人生を考えた際に思いおこされるのが、師匠である夏目漱石のアドバイスである。彼は、若い龍之介につぎのような手紙を送っている。

牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のような老猾なものでも、只今牛と馬とつがつて孕(はら)める事ある相の子位な程度のものです。あせつては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい」(p.85-86)

このアドバイスは深い。

われわれは馬のように速く走りたがるが、それゆえに、自分を見失いがちである。

龍之介が牛になっていたら、後年どのような作品を書いたのだろうか。読んでみたい気がした。

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自分自身を知恵ある者と見るな

自分自身を知恵ある者と見るな
(箴言3章7節)

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哲学する

竹田青嗣さんの『自分を知るための哲学入門』を読んで「なるほど」と思ったのは、次のフレーズ。

「「哲学の本質(本性)は、まさしく「哲学する」ことにあって、「哲学」を知るところにはない」(p.32)

確かに、哲学の本を読むときに、知識を得ようとしている自分がいた。

以前、西田幾多郎の『善の研究』を読んだときに、浪人時代の友達から「西田幾多郎は迷っているんだよ。考えているんだよ。『善の研究』を読むと、それがわかる。それを味わうといいよ」と薦められたのを思い出した。

人生とは何か、自分はどう生きればよいかを考えることが「哲学する」ということであれば、哲学はとても身近な存在である。

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『自分を知るための哲学入門』(読書メモ)

竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』ちくま学芸文庫

いままで哲学入門なるものを何冊か読んだが、わかったようなわからないようなものが多かった。本書を読んで、はじめて哲学の意味が腹に落ちた気がする。

著者の竹田氏いわく、「哲学とは、要するに、自分で自分を深く知るためのひとつの技術(アート)である。あるいは、自分と世界(他人や社会を含む)との”関係”を深く知るための技術である」(p.38)

「哲学=自分を知るための技術」と言われると、「そうだったのか」と納得できるし、俄然、哲学に興味が湧いてくる

ちなみに、哲学には次の二つの大きな問いがあるという。

1)世界はいかにあるか、という世界認識の問題
2)「ほんとう」や「よいこと」とは何であるか、という真・善・美の問題

ソクラテス・プラトンによれば、「世界はいかにあるか」という問いを支えているのは、人間の精神の秩序の問題、つまり「いかに、善く、美しく、ほんとうにあるか」という問いであり、ここに哲学が探求すべき唯一の問題があるという。なぜなら、世界はそれ自体としての秩序を持っているわけではなく、心という原理がその秩序を作るからである。

細かい違いはるものの、カント、ニーチェ、フッサールも、「世界がそれ自体として何であるか」ということより、「人間(主観)にとって世界はどういう意味や価値として現われてくるか」という問いを重視しているらしい。

しかし、「何がほんとうで、何がよいことなのか」という問いは人々の間で一致するだろうか?

それは無理である。我々の日常生活や、世界の紛争の歴史を見ればよくわかる。では、どうすればよいのか?ここで登場するのが「現象学」だ。

現象学によれば、「ほんとう」や「よいこと」は、それ自体として存在するのではなく、主観(人間)の間で、「妥当、納得、相互了解」の努力によって導かれるという。つまり、「ほんとう」や「よいこと」は、人間同士の関係によって創り出されるのだ(p.70-71)。

具体的には、つぎの二つの条件が存在するとき、「妥当」が成立する。

1)何度確かめても、たしかに自分にはそのように感じられること(内在的確証)
2)それを他者が承認してくれること(共同的確証)

「大事なことはむしろ、自分と他人との関係のありようを知るということであり、それを通してしか、自分を深く知るということはできないと考えたほうがいい」(p.202)という言葉が響いた。

本書は、あくまでも竹田氏の解釈である。しかし、哲学を大つかみに解説してくれたことで、哲学が持つ意味がわかったような気がした。









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自分自身の内に塩を持ちなさい

自分自身の内に塩を持ちなさい
(マルコによる福音書9章50節)
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