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神は人の歩む道に目を注ぎ その一歩一歩を見ておられる

神は人の歩む道に目を注ぎ その一歩一歩を見ておられる
(ヨブ記34章21節)




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しつこさ

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』には、郵便配達員は出てこない

なぜか?

このタイトルの由来について、訳者である池田真紀子さんは、次のように説明している。

「おそらく一番よく知られているのは、著者が十三社から断られ続けてようやく十四社目で出版が決まり、さて題名はどうしようかという話になったとき、不採用の通知を持ってくる郵便配達員がいつも二度ベルを鳴らしたことから、このタイトルを思いついたという説」(p.240-241)

あんなに面白い小説なのに十三社から出版を断られたということに驚いた。

当時の基準からすると不道徳な内容だったからだろうが、断られても断られても諦めなかったケインの粘りは大したものである。

新しいものを世に出すためには、決して諦めない「しつこさ」も必要だと思った。

出所:ケイン(池田真紀子訳)『郵便配達は二度ベルを鳴らす』光文社
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知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる
(コリントの信徒への手紙8章1節)

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『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(読書メモ)

ケイン(池田真紀子訳)『郵便配達は二度ベルを鳴らす』光文社

ジャック・ニコルソン主演の映画でも有名な小説だが、書かれたのは1934年。すばらしいスピード感でストーリーが展開される名作である。読んで感じたのは、犯罪小説であるのにもかかわらず、深みがある、という点。

ギリシャ移民と結婚したコーラは、夫を殺して大衆食堂を自分のものにしようとする。そのパートナーに選ばれたのが、流れ者のフランクだ。旅に出ようと誘うフランクに対し、コーラは次のように言い放つ。

「でもね、うまくいきっこないわ、フランク。あなたの言う旅の行き着く先はしょせん大衆食堂しかないの。あたしは大衆食堂で働いて、あなたも似たような仕事をするのよ」(p.31)

自分勝手な理由で犯罪に走る二人だが、ラストに向かうほど、二人の愛が伝わってくる。ちなみに、本書には郵便配達はまったく登場しない

訳者あとがきを読み驚いたのは、本書が刊行された当時、暴力・性描写が大胆すぎるという理由で、アメリカの一部の地域では発禁処分になったという点。現在の基準で言えば、本書はむしろ「健全」ですらある。アメリカがいかに(悪い方向へと)変化したかがわかった。



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適者生存と倫理

『タイムマシン』を書いたウェルズは、英国の科学師範学校で、ダーウィン学派の重鎮トマス・ハクスリーの進化論講義を聴き、多大な影響を受けたという。

ハクスリーは次のように語っている。

「社会の進歩とは、一歩毎に絶えず宇宙の調和と秩序を検証してよりよい方法を模索することであり、これは倫理的判断を要する過程である。行きつくところは偶然の適者生存ではなく、倫理の規範に照らして最善なる者の生存でなくてはならない」(p.180)

単に強い者が勝つ世界ではなく、そこに「倫理」がないといけないということだ。倫理のないイノベーションは破滅につながる、といえるかもしれない。

出所:ウェルズ(池央耿訳)『タイムマシン』光文社



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人の子よ、自分の足で立て

人の子よ、自分の足で立て
(エゼキエル書2章1節)

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『タイムマシン』(読書メモ)

ウェルズ(池央耿訳)『タイムマシン』光文社

タイムマシンを使って80万年の未来を旅してきたタイム・トラベラー。彼が見たものは、発展した文明ではなく、モーロックとイーロイという二つの種族から成る退化した社会であった。

1895年に書かれた本書は、預言的な性格をもった小説である。

「均衡を達成した文明社会はとうに絶頂期を過ぎて、今や急な下りにかかっている。ほぼ絶対の安全が約束されているばかりに、地上人種はゆっくりと退化の道をたどっているのだな。だんだん小柄になって、体力も知力も衰える一方だ。これはもう、一目でわかることだった。地底人種がどんな様子か、この時はまだ考えてみもしなかったっけ。ただ、ちらりと見た限り、モーロック人の変容ぶりはイーロイ人よりもなおいっそう顕著だったと思う。ああ、言い忘れたが、モーロックは地底の半人半獣、イーロイはすでによく知っている可愛らしげな地上人種だ」(p.88-89)

初め読んだときには悲観的な小説だと思ったが、よく考えると、その頃まで人類が存在しているという想定は楽観的といえるかもしれない。

本書を読みながら、「物事というものは、進歩、変革、そういうことが原因して、破滅に達するんだ」という色川武大さんの言葉を思い出した。



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先生のおせっかい

東山魁夷さんが神戸の中学校に通っているとき、国語の植栗先生が赴任してきた。一風変わった先生だったらしいが、目をかけてくれたらしい。

あるとき植栗先生から、こう問われた。

きみは画家になるのか

東山さんはこう答えた。

いいえ、なりません」「自分が貧乏するのは平気だけれども、おふくろが悲観するだろうから」(p.104-105)

すると、先生は「フフーン」といってそれきりだったらしい。ところがある日、国文法のプリントが皆に配られた。よく見ると、余白に何か書いてある。

絵に志さんとする子あり」「母ありとてたじろぐ」「神戸の子の前途は安らかなるかな、されどわが心のために暗らし」(p.105)

東山氏は次のように振り返っている。

「けれども、私には、これはちょっと、やっぱりこたえました。正面からはなんにもいわれない、とうとう最後までいわずじまいだったけれども、先生が私の心になげたその石の波紋はだんだん大きくなってきました」(p.106)

植栗先生のおせっかいがなければ、日本画家・東山魁夷は生まれなかったであろう。

おせっかい」の大切さを感じた。

出所:東山魁夷『日本の美を求めて』講談社学術文庫



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心は燃えても、肉体は弱い

心は燃えても、肉体は弱い
(マルコによる福音書14章38節)

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『日本の美を求めて』(読書メモ)

東山魁夷『日本の美を求めて』講談社学術文庫

日本画の巨匠である東山魁夷氏による、エッセイ&講演録である。謙虚で控えめなお人柄が伝わってくる。

最も印象的だったのは、次の箇所。

「人は意志するところに行為がある、といわれます。これはいうまでもないことのようですが、しかし、はたしてそうでしょうか。意志するということは、自己という主体から発するものか、あるいは自己の外に発するものが自己に伝わって、自己の意志するように導いてくれるものか。自己を無にするばあいに、はじめて自分の外から発する真実の声が聞こえるのではないか。その真実の声に合致した行動がとれるのではないか」(p.59)

「道」に代表される風景の絵は、自分の意志で描いたというよりも、「真実の声」に導かれて描いたということなのだろうか。

「平凡な風景、平凡な自然の風景を、生命自体の輝きと見、その輝きを宿すものと見たのは、じつは、戦争のために、絵を描くことはおろか、生きる望みさえ失ったその瞬間でありました。私は、そのときの心がもっとも純粋であったと、のちに気がついたのであります。自我の欲から解放されて、そういう状態になったと思われるのです」(p.60)

逆に言うと、自我が残っているうちは、良い絵が描けないということだろう。

欲から解放されて、導かれるに任せるとき、自分らしい仕事ができるのかもしれない。



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