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『コーラス』(映画メモ)

『コーラス』(2004年、クリストフ・バラティエ監督)

以前、コーラスものを観てイマイチだったので期待していなかったが、今回の映画は「当たり」だった。

手に負えない悪ガキが集められている寄宿学校に赴任した教師マチュー(ジェラール・ジュニョ)が、コーラスを通して子供たちを導く物語であるが、コンクールに出て優勝といったサクセスストーリーではない点が良かった。

また、子供が劇的に更生するわけでもなく、相変わらずワンパクであり続けるのも自然である。

しかし、何となく学校の雰囲気や子供たちの様子が柔らかくなっていく様子が感じられるのだ。

なんといっても、マチュー役のジェラール・ジュニョが上手い。

音楽を通して、子供たちが自信を持つとともに、芸術に触れることで感性が磨かれていく。それを導くことの大切さが伝わってきた。





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わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである
(ルカによる福音書5章32節)

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『ニコマコス倫理学』(読書メモ)

アリストテレス(朴一功訳)『ニコマコス倫理学』京都大学学術出版会

紀元前310年~322年の間に書かれたという『ニコマコス倫理学』。解説も入れて579ページあるのだが、毎日少しずつ2か月かけて読んだ。

訳者の朴先生によれば、倫理とは「人間の生き方」であり、「倫理学」とは、それを探求する学問である(p. 548)。ちなみに、ニコマコスとは、アリストテレスのお父さんと息子の名前である(いずれかに捧げた書との説あり)。

本書は、一般向けに書かれたものではなく、講義のための研究ノート的なものであるらしく(p. 532)、それがゆえに、アリストテレスの息遣いが聞こえてくるような本となっている(なので、けっこうアバウトな説明が多い)。

印象に残ったのは次の3点である。

1)中間をめざせ

人間にとっての善とは、「徳」に基づく魂の活動であり、それが幸福につながる。徳を形成するには、超過したり、不足するのはダメで、中間(中庸)を狙うことが大事になる。

例えば、「向こう見ず(超過)」や「臆病(不足)」ではなく「勇気(中庸)」、「おべっか(超過)」や「意地の悪さ(不足)」ではなく「友愛(中庸)」が徳のある状態である。

2)徳による友愛

友愛には、自分の利益を求める「有用性による友愛」、快さを得るための「快楽による友愛」、徳において互いに似ている人々どうしの「徳による友愛」がある。

有用性や快楽による友愛は壊れやすいが、徳による友愛は永続するため、完全な友愛となる。

3)観想生活が幸福につながる

最高の幸福は、観想生活(知性に基づく生活)をおくること。朴先生の解説によれば「すでに探求され、発見され、知られているものを、いわばかえりみる生活」であり、「よき仕方で考える活動」が観想生活である。

この箇所を読み、佐伯胖先生の『「学ぶ」ということの意味』(岩波書店)で紹介されている事例を思い出した。

病院のベッドの上で30年間を過ごした親戚の女性が、小説、音楽、他者からの親切を「感謝し、味わう(appreciation)」学びを通して豊かな生活をされていたというエピソードである。

アリストテレスが説く善や幸福とは「求めすぎず、徳のある人を大切にしながら、文化を味わう生活」だといえる。

そんな生活をしてみたいと思った。






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『メタルヘッド』

『メタルヘッド』(2011年、スペンサー・サッサー監督)

母親の交通事故死によって打ちひしがれた少年TJ(デヴィン・ブロシュー)と父親ポール(レイン・ウィルソン)。特に父は仕事を辞めて引きこもり状態である。

そんな家のガレージに住み着いたのが、いかれた青年ヘッシャー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)。長髪、タトゥーのパンク野郎で、やることなすことハチャメチャなのだが、なぜかいつも本質をついている。

TJと父ポールはヘッシャーに振り回されながらも、徐々に母親の死のショックから立ち直っていくという再生の物語。

とにかく、やりたいと思っていてもできないことをやってくれるヘッシャーを見てるだけで痛快である。

人生の本質を見極める」大切さが伝わってくる映画である。

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お前がしたように、お前にもされる

お前がしたように、お前にもされる
(オバデヤ書12章15節)

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『人間の本性』(読書メモ)

アルフレッド・アドラー(長谷川早苗訳)『人間の本性:人間とはいったい何か』興陽館

アドラーの理論はとてもシンプルである。

人間には、幼少時に決まった「生き方のパターン」があり、その流れや型に沿って行動しているという考え方である。

「わたしたちはいつもまず患者の子ども時代に注意を集中することを原則としています」「このときもう一つの理解も利用します。それは、幼いときに身につけた型から逃れることは難しいという理解です。型から抜けだせた人間はごくわずかしかいません」(p. 17)

人間は、主に家族内の出来事によって、無意識の目標を持つようになり、その目標が人生を支配するようになるという。

では、生き方の型に問題がある場合、どうやって解決すればよいのか。

アドラーの答えは明快である。まず、自分の生き方のパターンを理解すること。

「もし人間のなかにある力や動機が活発になることで、自分を知り、自分のなかでなにが起きているか、それはどこから生じているかを理解するようになれば、因果関係はまったく変わり、体験の影響がまったく別のものになることは確実だからです。その人は別人になり、その自分を手放すことはもう決してないでしょう」(p. 27)

そんな簡単にはいかない気はするが、まずは「本当の自分を知る」ことが大事になるといえる。

なお、アドラーによれば、精神生活には「共同体感覚」と「力・優越の追求」という二つの要素があり、このバランスをとることが大事になる。よくある問題は、「力・優越の追求」が強すぎて「共同体感覚」が損なわれてしまうケース。

「もしあらゆる困難を切り抜けるのに役立つ画一的な見解があるとすれば、それは共同体感覚を育てることです。共同体感覚を育てられれば、あらゆる困難は些事になります」(p.200)

本書を読み、自分が抱える問題と解決の方向性が見えてきたような気がした。










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『つむぐもの』(映画メモ)

『つむぐもの』(2016年、犬童一利監督)

あまり期待していなかったが、よい映画だった。

妻に先立たれ独り暮らしをしていた和紙職人・剛生(石倉三郎)は、脳腫瘍のため半身不随になってしまう。そこに、大学を卒業したもののぶらぶらしていた韓国人ヨナ(キム・コッピ)が(ワーキングホリデー的な形で)ヘルパーとして住み込むことに。

頑固者の剛生と、キレやすいヨナの間に、徐々に友情のようなものが芽生え始めたところで、再び不幸が訪れるという物語。

とにかく、石倉三郎とキム・コッピの演技が上手くて、映画に引き込まれてしまった

自然豊かな福井を舞台に、「日韓関係」「伝統工芸」「介護」「人間の精神的な成長」というテーマが絶妙にミックスされている点がすごい。

ラストシーンも良かった。





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力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ

力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9節)

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『誰にでも、言えなかったことがある』(読書メモ)

山崎洋子『誰にでも、言えなかったことがある』祥伝社

江戸川乱歩賞作家の山崎洋子さんの自伝。

幼いころに両親が離婚し、預けられた先で祖母が入水自殺。再び父のもとで生活するものの、父は失踪し、残された継母から精神的虐待を受けることに。

山崎さんは、なぜ大変な状況に耐えられたのか?

「ありがたいことに、現実から別世界へ逃げ込むための窓口があった。図書館である。受け付けはきれいないおねえさんだった。本を差し出すために、やさしく微笑んでくれた。少年少女文学全集や「赤毛のアン」シリーズは小学生の頃に全部読んだ。「赤毛のアン」は多くの女性達のバイブルだが、孤児が幸せになる話なので、私には特別な思い入れもあった」(p. 65-66)

「中学生になってから読み始めたのがハヤカワ・ポケット・ミステリだ。翻訳推理小説のシリーズで、アガサ・クリスティー、コナン・ドイル、エラリー・クイーン、ヴァン・ダインなど、世界的ミステリー作家の代表作が、綺羅星のごとく並んでいた」(p. 66)

虐待から逃れるために推理小説と出会った山崎さん。アルコール中毒で暴力を振るっていた父から逃れるために本の世界に入った作家、ディーン・クーンツと似ている

その後、成人してからも、離婚、再婚、夫の介護等、山崎さんの苦労が続くのだが、エピローグが胸にしみた。

「自分は愛されていないと知った子供の頃から、私は私を否定し続けて来た。もっと愛される、もっと素敵な私でないことがいやでたまらず、自分を好きになることができなかった。大人になってからも、掴めなかった人生ばかり固執し、掴んだ人生を評価してこなかった。でも、私が私を愛さなくてどうする。いまこそ、ありのままの自分を受け入れ、なかなかいいよと褒めてやりたい」(p. 224-225)

本書を書くことで人生を振り返り、自分の人生を肯定できた山崎さん。まだまだ人生は続くと思うが「おつかれさま」と声をかけたくなった。





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「目標・仕事のプロセス・成果」の形式知化

Works 2020年8-9月号の特集「オンライン元年」が面白かった(p. 18-19)。

ワークス研究所が4人の専門家の話しを基に、オンライン化に伴う現場の課題を分析しているのだが、その一つが「チーム連携がうまくいかず、コミュニケーションの質と量、生産性が低下している」という問題である。

この課題の本質として「ジョブや成果が不明瞭でも成立するハイコンテクストカルチャー」があるという。つまり、「あ・うんの呼吸」で「なんとなく上手くいってしまう」日本人の強みが、オンライン化によって失われ、みんなが困っているというのだ。

提案されているのは「ジョブの中身、達成すべき目標、獲得すべきスキルを言語化し、目標に応じて成果で評価する」ということ。

賛成である。

実は、大学院生もオンラインで指導しているのだが、研究者には、「論文を書き、審査付きの学術雑誌に載せる」という明確な目標があり、成果がすべて「論文」という形で言語化されているので、あまり指導に困らない。

仕事の種類によって違うだろうが、「目標」「仕事のプロセス」「成果」など、今まで暗黙知だったものを形式知化することでオンライン問題が解決できる、といえそうだ。

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