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『私の個人主義』(読書メモ)

夏目漱石『私の個人主義』講談社学術文庫

本書は、夏目漱石の講演録である。

堅い人なのかなと思っていたが、意外とユーモアがあり、生の漱石を感じることができた。

中身は「道楽と職業」「現代日本の開花」「中身と形式」「文芸と道徳」「私の個人主義」から成るが、なんと言っても、学習院大学の学生相手の講演である「私の個人主義」が面白かった。なぜなら、自身のキャリアを語っているからである。

「私は大学で英文学という専門をやりました。(中略)とにかく三年勉強してついに文学はわからずじまいだったのです。私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支えないでしょう」(p.131)

大学卒業後、漱石は中学や高等学校の教師になる。しかし・・・

「自分の職業としている教師というものに少しも興味を有(も)ちえないのです。教育者という素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事が既に面倒なのだから仕方ありません」(p.132)

その後、文部省から留学を命ぜられた漱石はロンドンで次のように感じたという。

「何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。この時私は初めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです」(p.133)

「私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです」(p.136)

漱石が小説を書き始めた理由がわかった。「自分のつるはしで鉱脈を掘り当てる」という言葉にグッときた。漱石は、聴衆である大学生に次のように語りかけている。

「ああここにおれの進む道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう」(p.139)

「もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに打(ぶ)つかる所まで行くより外に仕方がないのです」(p.140)

学びの道とは、自分の鉱脈を掘り当て、そこを掘り続ける旅である、と感じた。




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琴線に触れるコミュニケーション

元キリンビール社長の加藤壹康氏は、現場の人たちの心を動かし、共感してもらえるように語りかけることこそ、リーダーの仕事であると述べている。

「高い目標や厳しい計画を掲げることは必要です。しかし、考え方や夢といったものを現場と共有できなければ、厳しい計画は単に厳しいだけに終わり、絵に描いた餅になりかねません。大きなことを達成するには、現場の人たちの琴線に触れるようなコミュニケーションが不可欠です」

現場の人たちの琴線、という言葉が響いた。

もちろん、語る力だけあっても、リーダーに実行力が伴っていないとすぐにメッキが剥がれてしまうだろう。しかし、現場を動かす力がないと、組織は動かない。

そのためには、組織のリーダーが、現場の人たちと本音で議論する機会が必要になるように思った。

出所:日経ビジネス2013年7月15日号、p.78.



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わたしはあなたの行いを知っている

わたしはあなたの行いを知っている
(ヨハネの黙示録3章1節)

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3種類の「知」

プラントンによれば、3種類の「知」があるようだ。『メノン』の訳者である渡辺邦夫氏は、次のように説明している

第1は、「エピステーメー」であり、「知識」や「学問」と訳すことができるもの。

第2は、「ヌース」であり、「知性」や「理性」に近い。

第3は、「フロネーシス」であり、「思慮深さ」や「賢さ」を意味している。

エピステーメーが人から人へと教え伝えることができるのに対し、ヌースやフロネーシスは、経験や実践の中で、自分でよく考えて行動することを通してしか学ぶことができないという。

そして、ソクラテスやプラトンによれば、「徳(アレテー)」とは「フロネーシス」に近いものである。

経験を通して「思慮深さ」を学習することの大切さと難しさを感じた。

出所:プラトン(渡辺邦夫訳)『メノン:徳について』光文社

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『メノン』(読書メモ)

プラトン(渡辺邦夫訳)『メノン:徳について』光文社

「徳(アレテー)とは何か?」「徳は教えられるのか?」

この問いをめぐる、ソクラテスと裕福な若者メノンとの対話がおさめられているのが本書である。

ソクラテスの答えは、「徳は生まれつき備わるものでもなく教えられるものでもなくて、備わる人々には何か神的な運命のようなものによって、覚醒した知性などを抜きにして備わるものだろう」(p.154)というもの。

本書で一番印象に残ったのは、徳そのものの議論よりも「探求のパラドクス」。

「人間には、知っていることも知らないことも、探求することはできない。知っていることであれば、人は探求しないだろう。その人はそのことを、もう知っているので、このような人には探求など必要ないから。また、知らないことも人は探求できない。何をこれから探求するかさえ、その人はしらないからである」(p.67)

じゃあ、なぜ人は物事を探求できるのか?

「たとえどんなものについて知らないにせよ、ものを知らない人の中には、その人が知らないその当のことがらに関する、正しい考えが内在しているのである」(p.91)

つまり人は、知らないことでも、何となく「こうかな」という感覚を持っていて、それを頼りに自分の中にある知識を再獲得するという。マイケル・ポランニーは、「いつかは発見されるだろうが今のところは隠れている何かを、暗に感知する力」を暗黙知と呼んでいる。

では、どうやって探求するのか?

ソクラテスは、知を掘り起こすために必要な手法として「対話法」を重視する。ただし、けんか腰で論争的な方法(エリスティコス)ではなく、協調・友愛の対話法(ディアレクティケー)でなければならないという。ソクラテスは、次のようにメノンに呼びかけている。

「徳とはいったい何か、わたしはきみとともに考察し、ともに探求したいと思うのだ」(p.66)

相手に向かい合って議論するのではなく「並んで一緒に考える」という感じの対話である。

本書を読み、「対話によって学ぶ」ことの大切さを実感できた。



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憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。

憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。
(箴言10章12節)

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『自己信頼』(読書メモ)


ラルフ・エマソン(伊東奈美子訳)『自己信頼』海と月社

ソローが影響を受けたというエマソンの書である。キリスト教の牧師だったエマソンであるが、あまりに自己を強調しすぎて異端扱いされたらしい。ただ、本書を読み、彼の自己信頼とは、神から与えられた賜物を信頼せよ、ということであるように感じた。

印象に残った点は以下の通り。

神の摂理があなたのために用意した場所を、同時代の人々との交わりを、ものごとの縁を受け入れよ」(p.11-12)

自分本来の仕事をするなら、あなた自身が見えてくる」(p.26)

「人は、その人自身でしかありえない」(p.35)

「価値があるのはいま生きていることであって、過去に生きたことではない」(p.58)

自分に割りあてられた仕事をするのだ。そうすれば多くを望みすぎることも、大胆になりすぎることもない」(p.89)

「その人が生きているかぎり、脱皮をくりかえしながら成長していく」(p.98)

要約すると、天から与えられた能力、仕事、人々とのつながりを大事にしながら、自分を信じて生きなさい、ということだろうか。シンプルなメッセージであはあるが、自分というものが一番わかりにくいのも事実である。やや、自己を強調しすぎる点はあると思うが、いろいろと気づかされる本である。








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「格闘家」「ギャンブラー」としての科学者

科学哲学者のマイケル・ポランニーは、もう少しでノーベル賞をもらえそうだというところで、哲学へと転じたらしい。だから、科学者の世界も熟知している。

そのポランニーが、科学者の世界を次のように評している。

「各々の相互批判の応酬はどこか格闘めいており、命がけの闘争ともなりかねない」(p.123)

社会科学の場合にはそれほどでもないが、自然科学だとまさに「戦い」という感じがする。その戦いに勝つためには、重要な原理を発見しなければならない。そのためにはどうしたらいいのか?

「科学者の推測や虫の知らせは、探求するための拍車であり指針なのだ。その賭け金は高く、したがって勝ったときの見返りは魅力的だが、負けたときのリスクも大きい」(p.127)

まさに「ギャンブラー」である。

ということは、科学者とは「格闘家」であり「ギャンブラー」でもある。その意味では、ビジネスの世界と近いような気がした。

出所:マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫





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主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように

主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように
(ヨハネの黙示録22章21節)


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『暗黙知の次元』(読書メモ)

マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫

「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」(p.18)

ポランニーの有名な言葉である。

例えば、プレゼンテーションが上手い人は、そのコツをある程度まで説明できるが、すべてを言葉にできるわけではない。その言葉にできない知が暗黙知である。

本人も優れた物理化学者であったポランニーは、科学者が新しい理論を作り上げるときにも暗黙知が重要な働きをすると主張している。「いつかは発見されるだろうが今のところは隠れている何かを、暗に感知すること」(p.48)が暗黙知(暗黙的認識)である。

では、どうしたら暗黙知を鍛えることができるのか?

「そうした知を保持するのは、発見されるべき何かが必ず存在するという信念に、心底打ち込むことだ」「発見者は、是が非でも隠れた真理を追究せずにはいられぬ責任感に満たされているのだ。その責任感が、真理のヴェールを剥ぎ取れと、彼の献身を要求する」(p.51-52)

信念や責任感が暗黙知を活性化させるということだろう。

さらに、課題の設定の仕方についても次のように指摘している。

「各々の科学者は、自分が制御可能な範囲よりも大きすぎたり難しすぎたりしない問題を選ぶように努めねばならない。もし小さすぎる課題に従事すれば彼の能力は十分に発揮されないだろうし、大きすぎる課題ではその能力はことごとく空費されてしまうだろう」(p.131)

また、一つの世代から次の世代への知識の伝達は暗黙知的であるという。では、この暗黙知の伝達がうまくいく条件は何か?

それは教えられる側が、教える側を完全に信頼することだ。

「幼児の知性の目覚ましい発達について考えてみよう。幼児は強烈な信頼感に促されて、発言や大人の振る舞いのうちに隠された意味を推測するのだ。それが幼児が意味を把握する方法なのである。そして、そこまで教師や指導者に身をゆだねることによって初めて新しい歩みが一歩ずつ刻まれていくのである」(p.103-104)

まさに徒弟制である。師匠を完全に信頼することで、弟子は師匠の暗黙知を受け継ぐことができる。職場の学習にも、徒弟的な要素を組み込む必要があるように感じた。











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