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『若きウェルテルの悩み』(読書メモ)

ゲーテ(竹山道雄訳)『若きウェルテルの悩み』岩波文庫

ゲーテを読んだことがなかったので、とっつきやすそうなウェルテルを読んでみた。

感想を一言で言うなら「ウェルテル=ストーカーのような執着心を持っている人」ということ。

婚約者がいるロッテに惚れてしまったウェルテルは、ロッテが結婚した後も想いを断ち切れずにつきまとう。ただ、ウェルテルがストーカーと違うところは、堂々とロッテの家庭にまで入り込んでいるところと、ロッテもまんざらではないと思っているところだろう。

ちなみにこの作品は、半分がゲーテの体験、もう半分は別の人がモデルとなっているらしい。ロッテは実在の人物で、彼女への熱い想いはゲーテの経験そのままである。

想いが遂げられずに自殺してしまうウェルテルだが、よく考えると、ハッキリと断らないロッテに根本的な問題があるように感じた。自分の友達をウェルテルに紹介しようという次の箇所を紹介しよう。

「彼女は自分の知りあいをひとりひとり考えてみました。しかし、だれにもどこかに難があって、ウェルテルを渡したいと思うような女はありませんでした。(中略)ほんとうの心の底のひそやかな願いは、やっぱりウェルテルを自分のためにとっておきたいのでした」(p.198)

ゲーテは、この作品でスターダムにのし上がったが、ロッテへの復讐の意味もあったのかもしれない。そう考えると、作家という人たちは、人を攻撃する強力な武器を持っていることになる。

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俳優道と飢餓感

俳優の岸谷五朗さんにとって、舞台が活動のベースである。

舞台は僕の俳優人生と並行にあるもので、テレビや映画の作品は、そこで培ったものを発表するために“出かける場所”。というイメージで捉えています。『ちょっと出張に行ってくるね~』という感じでね(笑)」

そういえば、シェイクスピアも舞台をベースに脚本を書く「現場の人」であった。観客との相互作用によって、自分の芸を練っていく場が舞台なのだろう。

もうひとつ、岸谷さんのインタビュー記事を読んでいて印象に残ったのが「目標」について。少し長いが引用したい。

僕は目標をもたない。これは俳優業特有のスタンスかもしれません。というのも、一見煌びやかな世界に属するように見える俳優も、裏では役作りなどに対し一人で思い悩み、苦しむ時間が多い孤独な生き物なんです。そういうふうにすべてを自分の感覚に委ねる職業であるならば、向かうべきは頭で思い描くような目標ではなく、もっと本能的な飢え。そうでなければ、撮影や舞台づくりはとても辛くて続けてはいけないと思います。俳優道を進むうえで僕が目を向けているものはただひとつ。目の前にある作品を終えたときの自分の状態にほかなりません。そのとき何に飢えているのか、それをキャッチするアンテナだけはしっかり張ろうと心に決めているんです。そうすれば、自ずと次なる道は見えてくるものでしょう」

この「目標観」にはとても共感するところがある。「俳優道」という表現のとおり、自分の決めた「道」を歩む上で最終目標というものはない。ただ、その道を追求する「情熱」や「飢餓感」を持ち続けることが大切であるように感じた。

出所:BUAISO No.60 (2014), p.45.
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暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい

暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい
(ヨハネによる福音書12章35節)
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『歎異抄』(読書メモ)

千葉乗隆訳注『歎異抄』角川ソフィア文庫

歎異抄は、親鸞聖人の教えをその弟子がまとめたものらしい。本書を読み(もちろん現代語訳だが)、浄土真宗の考え方がわかったような気がした。

まず「本願」の意味。

本願とは「すべてのいのちあるものを救うという阿弥陀さまの不思議な誓願(本願)」(p.75)のことである。

老人も若者も、善人も悪人も、わけへだてをせずに必ず浄土に生まれさせてくださるという阿弥陀様の本願を信じて、念仏をとなえようという心がおこるとき、阿弥陀様は救ってくださるという。

なお、自分の努力で善を行いつみかさねても、決して浄土には行けない。罪や煩悩にまみれている我々には、自分の力でそれを消す力はないのである。つまり、浄土真宗は、「自力」を否定し、徹底的に「他力」を重視する

南無阿弥陀仏」の「南無」とは「帰依する」という意味らしいので、この念仏は「阿弥陀様の本願を信じます」という意味になる。

聞いてはいたが、浄土真宗の教えは、驚くほどキリスト教の考え方に似ている

キリスト教では、「神の子であるキリストが十字架にかかることで人間の罪が赦される」という不思議な考えを受け入れるとき人が救われる、と考える。人間には自分を救う力はなく、神のみにその力があること、すなわち自力を捨て、他力を受け入れるときに天国に行けるのだ。

本書を読んで少し不思議だったことは、浄土真宗が多い日本において「自分で何とかしよう」という「自力」の考え方が強いということ。

仏教が日本文化に与えた影響を知りたくなった。
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粘着力

『義経』を読んでいて感じたのが、現在の日本人の特色となっているものが、まだ平安~鎌倉時代には芽生えていなかったということ。

例えば「粘着力」。

「義経のこの当時、武士というものは勝ちに乗じたいくさでこそつよい。しかし、いったん浮き足だてば、いのちあっての物種ということばどおりわれさきにと逃げ散ってしまう。粘着力がなく、粘着力が日本の戦士の徳目にされるのははるか後生の、中世末期になってからである」(p.284)

歴史ものを読んでいて興味深いのは、国の文化の形成プロセスがわかる点である(もちろん、日本人の祖先の大半は農民や商人であり、武士の文化がどの程度日本の文化に影響を与えているかわからないが)。

逆に考えると、日本人の特徴である「粘着力」が、将来、失われる恐れもあるわけだ。日本人の強みを大切にしないといけない、と感じた。

出所:司馬遼太郎『義経(下)』文春文庫

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わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
(イザヤ書46章4節)

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『義経』(読書メモ)

司馬遼太郎『義経』文春文庫

この本を読むのはこれで3回目くらいだが、今回印象に残ったのは、組織における「ホウレンソウ(報・連・相)」の重要性。

ちなみに、義経は、軍事の天才なのだが、まったくといっていいほど頼朝へのホウレンソウが出来ておらず、ある意味、暴走系の若者である。「兄さんはわかってくれているはず」という思い込みが強いのだ。

これに対し、梶原景時という幹部(いやなオッサンのキャラとして描かれている)は、戦いの様子などをこまめに、かつ誇張して報告するがゆえに、頼朝のウケもいい。

しかし、組織への貢献度は、圧倒的に義経の方が高い

企業でも、出世する人は、自分の仕事ぶりをアピールするのが上手いのだろう。それに対し、良い仕事をしているにもかかわらず、ホウレンソウが下手な人はイマイチ評価が低いのではないか。

もう一つ感じたのは、参謀役の重要性

義経の参謀は、僧兵あがりの弁慶や、盗賊だった伊勢義盛などばかりで、どう振る舞えばよいかをアドバイスしてくれる人がいなかった。本田宗一郎さんは、事務系を束ねる藤沢さんという参謀がいたがゆえに活躍できたが、参謀に恵まれなかった義経は結局殺されてしまう。

組織の中で「天才」を活かすには、しっかりとホウレンソウをしてくれる参謀役をつけなければならない、と感じた。










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時代をとらえる力

『人形の家』を書いたイプセンは、ノルウェー人である。

ノルウェーにて薬局で丁稚奉公したのちに劇作家になるもののパッとせず、ローマ、ドレスデン、ミュンヘンに放浪の旅に出る

解説の原千代海氏は、次のように言う。

「イプセンは国を離れたことによって、ノルウェーも、自分の過去も、客観的に見うる力を獲得した」(p.197)

「イプセンの作品が、北欧語という言葉の不利にかかわらずヨーロッパ中に迎えられ、ノルウェーないし北欧よりむしろ西欧で大きな反響を呼んだのは、イプセンがノルウェーを描きながら、自分の「国」より、自分の「時代」の自意識に敏感だったからである」(p.197)

言葉や国籍よりも、「時代をとらえる力」が重要になるのだろう。そのためには、自身を客観的にとらえる視点が欠かせないといえる。

出所:イプセン(原千代海訳)『人形の家』岩波文庫


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どうかあなたに主の祝福があるように

どうかあなたに主の祝福があるように
(ルツ記3章10節)

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『人形の家』(読書メモ)

イプセン(原千代海訳)『人形の家』岩波文庫

弁護士の夫とかわいい子どもたちと暮らすノーラ。何の不自由もなく幸せだった彼女だが、ある出来事をきっかけに夫婦関係の薄っぺらさに気づく

「それにあなたは、いつだってやさしかったわ。でも、あたしたちの家は、ただの遊び部屋だっただけよ。わたしは、あなたの人形妻だったのよ、実家で、パパの人形っ子だったように。それに子供たちがわたしの人形だった。あたしはあなたが遊んでくれると、うれしかったわ、あたしがあそんでやると、子どもたちが喜ぶように。それがあたしたちの結婚だったのよ、トルヴァル」(p.161-162)

この戯曲に出てくるような夫婦や親子関係は、意外に多いのではないか。

真の結婚、真の親子とは、お互いに人間として尊重し合う関係によって成り立つ。しかし、知らず知らずのうちに相手を「自分の玩具」として扱っているのかもしれない。

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