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ヘルスケア2.0

ライフパレットは、がん患者やその家族の情報を共有する交流サイト(SNS)。このサイトでは、日記や病気体験記を書くことで、同じ病気で悩む人や家族との情報交換が可能になる。

独りで闘うのではなく、励まし合いながら病と向き合うことを可能にしたという意味で、社会的にも意義があるサイトだと感じた。

医療機関や製薬会社にとっても、患者・家族の生の声を聞くことは、医療サービスの在り方や今後の製品開発を考える上で役に立つという点で、こうしたサイトは顧客から学ぶ場となる。

なお、健康・医療分野で双方向のサービスを提供するネット企業は「ヘルスケア2.0」と呼ばれているらしい。患者・家族と医療関連機関との間を取り持つネット産業の役割は、これからますます大きくなるだろう。

ただ、療養中の方々だけに、何気ない一言が患者さんやその家族を傷つけてしまう恐れもある。運営する側が、患者・家族の立場にたち、交流の質を高める環境を作ることが発展のカギになると思った。

出所:日経産業新聞2010年11月29日
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まことにあなただけが

まことにあなただけがすべての人の心をご存じです。
(列王記上8章39節)
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『言わなければよかったのに日記』(読書メモ)

深沢七郎『言わなければよかったのに日記』中公文庫

名作「楢山節考」「笛吹川」の著者である深沢七郎のエッセイ。

深沢さんは、もともとギタリストとして日劇ミュージックホールなどに出演していたが、その時に書いた小説「楢山節考」が、中央公論新人賞をとり、文壇に躍り出た。

小説の重々しさと違い(まだ読んでないが)、ご本人の性格は、無邪気でオープンで明るい。

文学賞をとってからも、作家になったことに戸惑い「自分は作家ではなく芸人だ」と思っている様子。しかし、文壇嫌いかというとそうではなく、正宗白鳥や武田泰淳などの大物の家に遊びに行って、無邪気な会話を楽しんでいる。そのおとぼけキャラがなんともいえず面白い。

表題の日記のほかに、「とてもじゃないけど日記」「変な人だと言われちゃった日記」なども収録されており、その変人ぶりが披露されている。

印象に残ったのが、深沢さんの小説の書き方。

「ボクの小説は変わっているという人があるけど、それはボクのセイじゃなくて演奏の過去を持つ者の癖だと思う。変わっているなどと云われると不安でたまらない。曲の練習をするときは一カ月も同じ曲ばかりを弾いているので、あとでその曲を弾いたりすると、その時に想像した物語―これは曲想という方が近いかナ―を思い出してしまう。」(p.184)

音楽と小説が一体となって物語が紡ぎだされるようだ。何かを創造するとき、一人ひとりにそれぞれのスタイルがある。このスタイルを見つけたとき、その人しか創れないオリジナルの何かが生まれるのだろう。

本書を読むうちに、深沢さんのギターが聴きたくなった。

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『人生論』(読書メモ)

トルストイ『人生論』角川文庫

文豪トルストイが、「人生とは何か?」を述べたのが本書。

この本は、繰り返しが多く、矛盾があったり、論理が飛躍したりして、少々読みにくいのだが、そこで提示されている問題は深い。トルストイ自身が悩みながら書いているのがわかる。

一番印象に残ったのは、「人生にはなぜ苦しみや苦痛があるのか?」という部分。

戦争や事故や犯罪や病気によって、理不尽に苦しみ、死んでいく人々がいる。なぜか?

トルストイはいろいろな回答を出しているのだが、腹に落ちたのはつぎのような考え。

まず、人生を「生まれてから死ぬまで」と考えるのが間違っていて、私たちはこの世に生まれる前にも存在しており、死んでからも存在し続ける、とトルストイは考えている。少し引用しよう。

「地上の生活でなめる苦痛のどうにも説明しようのない理不尽さこそ、生命というものがけっしてひとりの人間の誕生に始まり、死に終わるだけのものではないことを、なによりも雄弁に証明している。」(p.252)

面白かったのは、つぎのたとえ。

「われわれの目にうつる人生は、ちょうと、上と下とを切りとられてしまった円錐(えんすい)体のようなものだといえよう。円錐体の頂点と底の部分は、かぎられたわれわれのせまい視野では、とらえられないわけなのである。」(p.244)

「目に見える地上のこのわたしの生活は、わたしの生活ぜんたい―いまの人生の限界を越えていて、現在のわたしの意識ではとらえられないけれど、疑いもなく存在している生前、死後までふくむ生活ぜんたいのほんの一部にすぎないという結論がでてくるのである。」(p.245)

つまり、生命というものを、生まれてから死ぬまでと考えたら、理不尽に死んでいく多くの人々の人生の説明がつかない。あまりにも不公平である。だから、死後の世界もあるはずだ、ということだろう。

確かに、親に虐待されて殺されてしまう子どもたち、突然事故で亡くなってしまう人たち、戦争で巻き添えをくって爆死する一般市民などがメディアで報道されるたびに、「なぜ?」と思ってしまう。より大きな視点で人生をとらえるとき、それらの死にも何らかの理由がある、ということになる。

では、苦しみに満ちたこの世において、どのように生きるべきか?

トルストイが何度も繰り返すのは、個人の欲求を満たすことばかりを考えるのではなく、他者や世界との関係を意識しなさい、ということ。これは仏陀やキリストの教えとも共通する。

生前や死後を含めた大きな生命の流れを意識して、自分のことだけでなく他者や社会のことを考えるとき、理不尽に見える苦しみや苦痛さえも意味を持ちはじめる。

本書を読んで、人生をとらえる見方が少し変わったような気がした。
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知識は人を高ぶらせるが

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
(コリント人への手紙Ⅰ 8章1節)
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やりがいを伝える

三井ホームでは、新人を現場に配属する前に、8か月にわたり、社内の様々な部署を経験させる研修を実施している。

具体的には、合宿研修(4月)→住宅建築現場(5-8月)→アフターサービス(9月)→営業現場(10-11月)→配属決定(12月)、という流れである。

なぜこのような研修を行うのか?

どうも3つの理由があるらしい。

第一に、不況の今、新人を営業現場に配属しても、売れずに自信を失ってしまうこと。

第二に、建築から営業までの現場を体験してもらい「やりがい」を感じてもらうこと。

第三に、全現場を体験させることで、自分の部署しか知らないという縦割り意識を打破してもらうことである。

同社の中村研一人事部長は次のように語っている。

「顧客と二人三脚で家を造っていく醍醐味を研修で体験させ、将来壁にぶつかっても乗り越えられる人材を育てたい」

日本企業では「仕事のやりがいは、自分で見つけるもの」という考えが強いようだが、三井ホームのように「やりがいを伝授する」というやり方も有効だと思う。二段ロケットではないが、初めに基本をしっかりと教育して、自分で成長できる力を身につけさせることは大事だろう。

同社の研修が、将来どのような効果を持つかが知りたいと思った。

出所:日経産業新聞2010年11月12日
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わたしたちの罪悪は

わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています
(エズラ記9章6説)
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同期で切磋琢磨

先日、あるOJTワークショップに参加したとき、面白い事例に出合った。それは次のような試み。

1)月末に営業社員に業績検証をA4レジメで提出させる(毎月)
2)レジメでは、自身の成功・失敗要因を振り返る
3)全部署の同階層ごとに共有する

とてもシンプルである。

この試みの面白いところは、「同期」を意識させているところ。同じ階層だと「あいつができていて、オレができないはずがない」と刺激を与えることができるし、OJTのときにも「彼は○○をやって成功してたよね」と根拠を持った指導ができる。

競争には前向きの競争と後ろ向きの競争があるが、この事例は、同期同士が切磋琢磨できる前向きの競争を促している。

ナレッジマネジメント(知識管理)とモチベーション・マネジメントとOJTを兼ね備えたしくみだと思った。
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発信力

最近、現場のマネジャーや、人材育成部門のマネジャーにヒアリング調査を行っている。テーマは「経験から学ぶ力」。

そこで必ず出るのが「他者から学ぶ力」である。

他者から学ぶためには、他者と関係を作らなければならない。人はロールモデル(手本)に習い、ライバルと切磋琢磨し、メンターからアドバイスをもらい、後輩を育てながら育っていく。経営学では、成長をうながすネットワークを「発達的ネットワーク」と呼ぶ。

では、他者と関係を作るにはどうしたらいいか?

答えは「発信力」である。なんだかんだいって人と人の関係は「ギブ&テイク」なので、何かを与えないと、何にももらえない。他者のためになる何かを発信するとき、誰かから何かが返ってくる。

「発信」というと大げさだが、要は何かを伝えることだ。はじめは小さなことでもいい。自分の考えていることや、自分が興味を持った情報を他者に伝えるとき、少しずつ発達的ネットワークができてくる。

ただ、注意しなければならないのは、発達的ネットワークには「深さ」と「広さ」があるということ。広いが浅い関係ばかりだと、なかなか成長できない。「深い」関係を作るには、共通の関心や思いが必要になる。

「思い」をこめて発信するとき、深い関係ができてくるのではないか。
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『小津安二郎先生の思い出』(読書メモ)

笠智衆『小津安二郎先生の思い出』朝日文庫

実家のお寺を継ぐのがイヤで、友達から誘われるまま俳優養成所の試験を受けたら合格した笠智衆さん。10年間の大部屋生活の中で、小津安二郎監督に見出され、小津作品のすべてに出演するようになる。

小津監督のやり方について笠さんは、次のように語っている。

「映画の撮影前、配役が決まると、我々は俳優係からホン(台本)を渡されます。普通は、そのホンを読んで、自分なりに演技を考えるのですが、小津作品だけは別。余計なことを考えても無駄なのです。ヘンな芝居をして、先生の演出を邪魔しないように、頭の中をカラッポにしなくてはいけない。」(p.49)

小津監督は、自分の中に完全なイメージが出来ていて、全て自分の思い通りにならないと気が済まないタイプの監督だったようだ。しかし、怒鳴ったりはけっしてしない。笠さんは、監督の演出方法を「釣り」にたとえている。

「先生の演出は”釣り”のようでした。俳優がエサにかかるまで、根気よくいつまでも待つ。うまくできるまでは、けっして動かない。大声を出して魚を逃がしてはたまらんので、怒鳴るような馬鹿なことはせん。先生が本当の釣りをやられたら、きっと名人級だったでしょう。」(p.56)

このコメントからも、俳優をロボットのように操作していたわけではなかったことがわかる。自分のイメージはあるが、俳優がそれを自主的に演じられるような状態になるまで待つ。そこに、監督と俳優のコラボレーションが生まれるのだろう。

意外だったのは、小津監督も笠さんも、キネマ旬報のベストテン順位や評論家の評価を気にしていたこと。「自分で納得できればいい。他人の評価は関係ない」という人かと思っていたが、やはり世間の評価を気にする普通の人だとわかり、すこし安心した。

ところで、今でこそ「世界のOzu」として有名な小津監督だが、晩年は「マンネリのホームドラマ」というような評価だったらしい。その後、欧州で再評価され、世界的な名声が定着したという。大人気→落ち目→再評価という流れに、バッハを思い出した。

笠さんの本を読んで、つくづく、「人との出会いが才能を開花させる」と感じた。
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