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人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。

人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。
(ルカによる福音書6章37節)

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芸術を通して自分を理解する

『根付』の作者である駒田牧子さんは、根付鑑賞のポイントとして次のような点を挙げている。

・自分にとって心に響く作品か?
・ポジティブでもネガティブでも、何か心に訴えかけるものがあるか?
・力強さや勢い、あるいはオーラがあるか?

この箇所を読んで、多摩美術大学の西岡文彦先生の言葉を思い出した。

西岡先生いわく「美術館に行ったら、自分の好きな順番で、好きな絵だけを見なさい。自分の感覚を信じなさい。自分の好きな絵を見つけて、なぜ好きなのか理由を考えると、自分自身が理解できます」(だいたいこのようなことを言っていた)

芸術作品の見方を変えると、自分理解につながるといえるだろう。

出所:駒田牧子著(渡邊正憲監修)『根付』角川ソフィア文庫
西岡文彦『五感でわかる名画鑑賞術』ちくま文庫





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『根付』(読書メモ)

駒田牧子著(渡邊正憲監修)『根付』角川ソフィア文庫

著者の駒田さんは「まえがき」にて、次のように書いている。

日本人は何かをぶら下げて持ち歩くのが大好きだ。お守りやキーホルダーなど、誰でも一つや二つ(あるいは何十個も?)持っている。特に携帯ストラップは外国人が驚くほどの人気ぶりで、日本の携帯には外国製品にはないストラップ用の穴が当然にように開いている。そのストラップのマスコットに似たものが日本には江戸時代からあった。それは根付(ねづけ)である」(p.8)

昔は、お金を入れる巾着、煙草入れ、印籠などを帯と腰の間から下げていたらしいのだが、それらの端につけた留め具が根付だ。

本書には、江戸時代だけでなく、明治以降の根付の写真がふんだんに紹介されている。たしかに芸術品なのだが、もともと実用品でもあるため、どこか自由である

面白かったのは、次の箇所。

もともと根付師という職業は存在してらず、当初は必要を感じた個人が身の回りにあるものを利用していたと思われる。その後、仏師、絵師、入れ歯師、能面師、鋳物師といった職業の人々が本業のかたわら根付を制作しはじめる」(p.132)

本書において一貫して語られているのは、根付は権威とは関係なく、材料や工法は自由である、という点。

「小さいもの」「かわいいもの」
を大切にする日本文化だが、そのエッセンスが「根付」に凝縮されているように感じた。






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次に進まないといけない

NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の三女役を演じ注目されている杉咲花さん。

個人的には、Cook Doの宣伝で焼肉を頬張るシーンが印象に残っている。

さまざまな映画やドラマに出演し、評価が高まっているらしいが、本人は次のように語っている。

「褒められると舞い上がってしまうタイプなので、聞こえないようにしています。評価は過去の作品に対して。私は次に進まないといけない」(p.16)

「聞かないように」ではなく「聞こえないように」ということは、少しは自信につなげているが信じすぎないということだろう。

私は次に進まないといけない」という言葉には少し感動してしまった。

自分も「次に進もう」と思った。

出所:VISA No.510, p.16
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父と母を敬いなさい

父と母を敬いなさい
(レビ記19章3節)


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器の大きさ

『やしのみ酒』のインパクトがあまりに強かったので、また書きたい。

この本を読んでびっくりしたのは「です・ます調」と「だ・である調」が混在しているところ。解説の多和田葉子さんも次のようにコメントしている。

「読み始めてすぐ快い衝撃を受けた。「だった」と「ですます」が混在した凸凹な文体。日本語が制服を脱ぎ捨てて、走り始める。こんな日本語もあるんだ、という驚き。原書が英語なのだということに改めて気づき、さらに強い驚きを感じた。つまり、作者が日本語の「だった」と「ですます」を混ぜたわけではなくて、原典の英語の中にすでに何かそれにあたる特色があって、訳者がそれを日本語に置き換えて考えて再演出したということになる」(p.225-226)

たしかに、チュツオーラもすごいが、訳した土屋哲さんもすごい。その土屋さんは次のように述べている。

「その文体と言語の点で、チュツオーラほど物議をかもし出した作家は少ない。その意表をついた珍奇さに、魅了される者もいれば、大体において教育をうけたナイジェリア人からは、あんなカタコト英語が、破格の、でたらめ文法で語られることは、アフリカ人自身の能力の低さを示す、アフリカ人の恥だとする、国辱論まで出る始末である」(p.196-197)

物語の内容だけでなく、言葉までもオリジナルな、チュツオーラの器の大きさを感じた。

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本質を見極める

チュツオーラは『やし酒飲み』の成功にもかかわらず、作家には関心がなかったという。

では、何になりたかったのか?

それは、鍛冶屋である。

訳者の土屋哲さんは、次のように解説している。

「しかし、この成功にもかかわらず、チュツオーラは職業作家になる意志は毛頭なく、依然カジ屋開業の夢を断ち切れず、それは執念に近いものになっていたといわれる。それでは、これほどまでに彼がカジ屋に固執するのは何故だろうか。もちろんそこには、自立したいという自由への憧れもあったであろうし、とりわけ技術が尊崇されるアフリカ社会の、中でも農業社会でのカジ屋のもつ社会的地位も考慮されなくてはならないだろうが、しかし何よりも、ハロルド・R・コリンズが「チュツオーラは、鉄を鍛える仕事が大いに気に入り、金属を曲げたり、型どったりすることに、一種の芸術的喜びを感じていた」と指摘している。鉄工という職業がもつ芸術性が、無口なチュツオーラの芸術家気質をゆさぶったからだといえる」(p.188-189)

これを読んで感じたのは、小説を書くということと、鉄器を作ることが、チュツオーラの中でほぼ同じ位置づけであるということ。

確かに、表現の仕方は違うが、モノを作るという意味では同じである。

表面的な違いではなく、本質を見極めて仕事をすることの大切さを感じた。


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疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています

疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています
(ヤコブの手紙1章6節)

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『やし酒飲み』(読書メモ)

エイモス・チュツオーラ(土屋哲訳)『やし酒飲み』岩波文庫

今まで味わったことのない、奇想天外なストーリーの連続である。

アフリカ・ナイジェリアの作家チュツオーラが書いた本書を読んで感じたことは、まるで「夢」のような小説である、ということ。

私たちが寝ている間に見る夢では、かなり現実とはかけはなれていることが起こっているのに、不思議と「おかしい」とは思わない。それと同じ感覚なのだ。

あまりに不思議なことばかり起こるので「何かを暗示しているのかもしれない」と思いながら読むものの、そんなことは吹っ飛ばすくらいのパワーがあるため、途中で解釈することはあきらめた

こうした「異次元」の本に出合えただけで幸せなのかもしれない、と思った。

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楽しさを味あわせる

再び『プロレスという生き方』(三田佐代子著、中公新書クラレ)から。

この本で一番驚いたのは、小学生たちをプロレスラーとしてデビューさせてしまったレスラー・さくらえみさん。

えみさんは言う。

「プロレスに対する疑問があったんですよ。プロレスってプロしかやっちゃいけないのかなって。野球だったら少年野球、サッカーだって少年サッカーがあるじゃないですか。なんでプロレスにはそれがないんだろうって」(p.164)

たしかに、プロレスとアマレスはまったく違う競技である。そこで考えたのが「アクション体操」。マットを使ったプロレス教室である。そこに通う子供たちの中から小学生女子プロレスラーが生まれることになる。

なお、さくらさんの教え方が興味深い。

「最初にそれ(殴ったり蹴ったりすること)は教えなかったんです。ドロップキックとか、ボディアタックとか、カサドーラ(メキシコ式の飛びつき前方回転エビ固め)とか。技をやる楽しさだけを最初に教えたんです。サッカーだって最初にゴールの練習したら楽しいじゃないですか。だから楽しいことを最初に教えました」(p.165)

プロレスに限らず、「まず楽しいことから教える」ことは大事である。しかし、まじめな日本人はまず基本から教えてしまい、その結果、続けることができなくなってしまうのではないだろうか。

仕事でもなんでも、まず楽しさを味あわせてあげることから始めるほうがよい、と思った。




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