キェルケゴール『死に至る病』岩波文庫
1813-1855に生きたデンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールの代表作。
結論としては、「真のキリスト教信仰」(心の底から自分の罪を自覚し、神とともに生きる)を持てば絶望から解放される、ということ。
ちなみに、死が終局であるような病が「絶望」なのだが、悪いことばかりではなく、人は絶望を通してでないと、絶望から解放されない。
「自己は、ひとたび絶望の経験を通じて自己自身を自覚的に神のうちに基礎づける場合にのみ、まさにそのことによってのみ健康であり絶望から解放されてありうるからである」(p. 57)。
なお、ここでいう絶望は、我々の人生に降りかかってくる不幸や災害による絶望とは異なり、「永遠的なるものを喪失すること(p. 102)」である。
だから、自分としてはハッピーな生活を送っていると思っている人でも、実は絶望していることになる。
「我々の絶望者は自分を非常にうまく閉鎖しているので、自分に関係のない人(したがってすべての人)を全て自分の自己に関することから遠ざけている—しかも外面上は彼は完全に「実際的な人間」である。彼は教養ある紳士である、夫であり父である、特別に有能な官吏、尊敬すべき父でさえある、愉快な交際家であり、自分の妻に対してもきわめて親切で子供の面倒さえもみる」(p. 128)
「自分をうまく閉鎖している」という表現が絶妙である。
本書では「自己」という概念がやたら出てくるが、キェルケゴールは、自分がなりたい自己と、神につながった自己を区別し、後者を重視する。
「けれども自己は、それが神に対して自己であることによって新しい性質ないし条件を獲得するのである。この自己はもはや単に人間的な自己ではなしに、神学的な自己ないしは神の前における自己(この意味が誤解せられることのないように祈る)とでもなづけらるべきものである。自分が神の前に現存していることを自己が意識するに至るとき、自己が神を尺度とするところの人間的自己となるとき、それはどのような無限の実在性を獲得するであろう!」(p. 159)
では、神の前における自己とは何か?
そのことははっきり書かれていないが、(自分の罪を自覚し、許しを請いながら)神様から与えられた使命に従う自分、ということなのだろう。
難解だけど、かなりグッとくるものがある書であった。
1813-1855に生きたデンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールの代表作。
結論としては、「真のキリスト教信仰」(心の底から自分の罪を自覚し、神とともに生きる)を持てば絶望から解放される、ということ。
ちなみに、死が終局であるような病が「絶望」なのだが、悪いことばかりではなく、人は絶望を通してでないと、絶望から解放されない。
「自己は、ひとたび絶望の経験を通じて自己自身を自覚的に神のうちに基礎づける場合にのみ、まさにそのことによってのみ健康であり絶望から解放されてありうるからである」(p. 57)。
なお、ここでいう絶望は、我々の人生に降りかかってくる不幸や災害による絶望とは異なり、「永遠的なるものを喪失すること(p. 102)」である。
だから、自分としてはハッピーな生活を送っていると思っている人でも、実は絶望していることになる。
「我々の絶望者は自分を非常にうまく閉鎖しているので、自分に関係のない人(したがってすべての人)を全て自分の自己に関することから遠ざけている—しかも外面上は彼は完全に「実際的な人間」である。彼は教養ある紳士である、夫であり父である、特別に有能な官吏、尊敬すべき父でさえある、愉快な交際家であり、自分の妻に対してもきわめて親切で子供の面倒さえもみる」(p. 128)
「自分をうまく閉鎖している」という表現が絶妙である。
本書では「自己」という概念がやたら出てくるが、キェルケゴールは、自分がなりたい自己と、神につながった自己を区別し、後者を重視する。
「けれども自己は、それが神に対して自己であることによって新しい性質ないし条件を獲得するのである。この自己はもはや単に人間的な自己ではなしに、神学的な自己ないしは神の前における自己(この意味が誤解せられることのないように祈る)とでもなづけらるべきものである。自分が神の前に現存していることを自己が意識するに至るとき、自己が神を尺度とするところの人間的自己となるとき、それはどのような無限の実在性を獲得するであろう!」(p. 159)
では、神の前における自己とは何か?
そのことははっきり書かれていないが、(自分の罪を自覚し、許しを請いながら)神様から与えられた使命に従う自分、ということなのだろう。
難解だけど、かなりグッとくるものがある書であった。