田原本は近くでもあるし、縁のある町なので今日のウォークは楽しみ。
①本誓寺
本誓寺の元は鎌倉時代に創建され「本覚院」といい、95代花園天皇の勅願所として創建。ここより北にあった。
賤ヶ岳7本槍として名を上げた平野権平長泰が豊臣秀吉から田原本を拝領。田原本領主となり教行寺に寺内町を築かせた。
2代目長勝の時、教行寺との間で紛争が起こり、本願寺門主の採決で、教行寺は箸尾へ追いやられ、その跡地に本覚寺と円城寺(現 浄照寺)が移転。
平野権平長泰は本覚寺の復興を命じられ、伽藍整備の完成を機会に本覚寺を「本誓寺」と改め、平野家の菩提寺とした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/57/9fa9abeb974ee6f5ebea6c5bb709e434.jpg)
門を入って左側に「領主平野霊廟」と書かれた門がある。いつもちらっと見て通り過ぎている。
今日は住職様からその奥にある2つの廟の説明を受けた。(門の後ろに屋根が見える)
2つのお堂は2代目領主長勝公と9代目領主長発(ながゆき)公の御廟。
(こんなところに御廟があるのを知らなかった)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/18/deccb466300187487044d0e64972d3f6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/89/9add5a8eb2605411bebe2f2864497f29.jpg)
南側 2代目領主長勝公の御廟 4代領主長英公によって建てられた。ケヤキ造り・廟の柱は丸柱・石碑は断面正方形・石材は基部は地元のものだが、角柱は神戸の御影石で、上部には紋が2つ浮紋という手の込んだもの。
北側 9代目長発(ながゆき)公の御廟 10代目領主によって建てられたもの。(写真ナシ)
外見は同じように見えるが石材の厚さ、木材も違い、紋はひとつ・・と簡素な造りとなっている。
度重なる火災を免れ、当時のまま残っているという。
奈良に残る霊廟は他に筒井順慶の廟があるらしい。
本誓寺は明治の火災でも全焼しその後に建て替えられた。それまでは西側にあったという門は跡型もない。
平野藩は5000石の小藩で、大名にはなれなかったが、江戸時代を生き抜いた。なぜか?
寺川・中街道と交通の要衝で町が豊か。やりくりが大変だった平野家は豪商から金を借り入れて上部へつけ届け? 豪商にはお金を返す代わりに平野家の家紋(五瓜唐花紋)を与えた。だから田原本の旧家では先祖からの家紋と、藩からいただいた五瓜唐花紋を組み合わせた家紋がたくさんあるという。
返金の代わりに名誉(家紋)を受け取ったということか?それで不満もなかったのは商人にそうとう余裕があったからかな?
②奈良中央信用金庫 通りがかりに外観のみ見る。
(吉野銀行田原本支店~田原本信用金庫~現名に)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ed/baef59943c52d76d015a5ae29eb4ec48.jpg)
昭和8年の建築 岩崎平太郎が設計
岩崎平太郎は登録有形文化財に指定されている畝傍高校の設計も行っている。
③田原本聖教会(日本聖公会)
昔、恩師のお葬式来て以来。 今は「まっさん」のロケ地として有名
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/82/f32a44910d37a42b85743b89d3b229d9.jpg)
外観は日本家屋 木造平屋 屋根の端に十字架が付いていなければ教会とはわからない。
今は月1回 いくつかの教会を受け持っておられる司祭さまが来られミサが行われる。
今日は司祭さまのお話も聞け、見学もできてうれしい。
奈良県にも大阪から宣教師がやってきて高田・八木・桜井・田原本など、賑やかな町を選んで布教。
田原本では明治16年(1883)三浦○○が自宅を開放して夜の集まりを持ったのが始まり。
「八木から提灯を持って田原本まで話を聞きに来たという話も聞きました」
妨害や嫌がらせもあったが西洋文化をもっと知りたいという人たちもいた。
教会の建物は昭和8年の建築。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/ff/1612c3684071b294635f2623445bbe01.jpg)
内部はシンプルで木の構造が目立つ。
祭壇手前に今はカーテンがかかっているが、引き戸がしまわれており、ミサの後、引き戸を閉めて、お茶交流タイムになったらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/9c/00358f5516df3d408a6cad37f12515a4.jpg)
ガラス窓は色ガラス(黄色っぽい)が使われている。
「照明器具以外はほとんど当時のままです」とのこと。
そんなクラシックな教会はNHKのドラマ「いもたこなんきん」や「まっさん」のロケにも使われた。
この2つで大満足だが・・
この後、平野氏の陣屋跡だった町役場を通り「唐古 鍵ミュージアム」へ。
途中の花
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b0/4bcc57a75174464eb69b2193da0cd3c0.jpg)
ギョリュウの仲間(多分ギョリュウ ロゼア) ギンコウバイ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/49/df61bf2d04d9076d85ba89e65b5408be.jpg)
ハナショウブが満開 他の人は花に関心なさそう・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/06/bb7e9baadba429965755aea9bfdf6a11.jpg)
④午後から「唐古 鍵ミュージアム」を見学
弥生時代の環濠集落 「唐古 鍵遺跡」の出土物など多数展示
土器・石器・埴輪など
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/cb/d840c1429d7ebea91d0c9f94e047a20a.jpg)
ヒスイの勾玉 勾玉が入っていた褐鉄鋼の容器
この硬いヒスイに弥生人はどうやって穴をあけたか・・竹串と研磨砂で?(6月7日ブログ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/67/8f2ee22c718b127ad8882236eabc541f.jpg)
棟持ち柱のある大型建物のミニチュアや木や石を細工しているところをミニチュアの人形で再現したり、
石器を使って木器作りをやってみたビデオもあり、展示方法は見てわかりやすく、弥生時代のイメージがわきやすかった。
唐古 鍵の弥生集落は洪水によって崩壊したと言われる。
それと入れ替わるように纏向が中心地となることから、唐古の人が纏向へ移動した?それならひょっとして卑弥呼もここ唐古 鍵で生まれたのかもしれない・・など・・ロマンのある話も聞けた。
⑤最後に津島神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/47/44ac75a81bb122d45ab8766cbd50b73f.jpg)
神仏分離までは祇園社と呼ばれ、平野家も崇めていたという。
夏祭り「祇園さん」には子どもを連れて何回か来たことがある。
なじみのある田原本の知らないことがいっぱい聞けた。
①本誓寺
本誓寺の元は鎌倉時代に創建され「本覚院」といい、95代花園天皇の勅願所として創建。ここより北にあった。
賤ヶ岳7本槍として名を上げた平野権平長泰が豊臣秀吉から田原本を拝領。田原本領主となり教行寺に寺内町を築かせた。
2代目長勝の時、教行寺との間で紛争が起こり、本願寺門主の採決で、教行寺は箸尾へ追いやられ、その跡地に本覚寺と円城寺(現 浄照寺)が移転。
平野権平長泰は本覚寺の復興を命じられ、伽藍整備の完成を機会に本覚寺を「本誓寺」と改め、平野家の菩提寺とした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/57/9fa9abeb974ee6f5ebea6c5bb709e434.jpg)
門を入って左側に「領主平野霊廟」と書かれた門がある。いつもちらっと見て通り過ぎている。
今日は住職様からその奥にある2つの廟の説明を受けた。(門の後ろに屋根が見える)
2つのお堂は2代目領主長勝公と9代目領主長発(ながゆき)公の御廟。
(こんなところに御廟があるのを知らなかった)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/18/deccb466300187487044d0e64972d3f6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/d5/ad13938911cf90cd3b064e149a62ca88.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/89/9add5a8eb2605411bebe2f2864497f29.jpg)
南側 2代目領主長勝公の御廟 4代領主長英公によって建てられた。ケヤキ造り・廟の柱は丸柱・石碑は断面正方形・石材は基部は地元のものだが、角柱は神戸の御影石で、上部には紋が2つ浮紋という手の込んだもの。
北側 9代目長発(ながゆき)公の御廟 10代目領主によって建てられたもの。(写真ナシ)
外見は同じように見えるが石材の厚さ、木材も違い、紋はひとつ・・と簡素な造りとなっている。
度重なる火災を免れ、当時のまま残っているという。
奈良に残る霊廟は他に筒井順慶の廟があるらしい。
本誓寺は明治の火災でも全焼しその後に建て替えられた。それまでは西側にあったという門は跡型もない。
平野藩は5000石の小藩で、大名にはなれなかったが、江戸時代を生き抜いた。なぜか?
寺川・中街道と交通の要衝で町が豊か。やりくりが大変だった平野家は豪商から金を借り入れて上部へつけ届け? 豪商にはお金を返す代わりに平野家の家紋(五瓜唐花紋)を与えた。だから田原本の旧家では先祖からの家紋と、藩からいただいた五瓜唐花紋を組み合わせた家紋がたくさんあるという。
返金の代わりに名誉(家紋)を受け取ったということか?それで不満もなかったのは商人にそうとう余裕があったからかな?
②奈良中央信用金庫 通りがかりに外観のみ見る。
(吉野銀行田原本支店~田原本信用金庫~現名に)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ed/baef59943c52d76d015a5ae29eb4ec48.jpg)
昭和8年の建築 岩崎平太郎が設計
岩崎平太郎は登録有形文化財に指定されている畝傍高校の設計も行っている。
③田原本聖教会(日本聖公会)
昔、恩師のお葬式来て以来。 今は「まっさん」のロケ地として有名
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/82/f32a44910d37a42b85743b89d3b229d9.jpg)
外観は日本家屋 木造平屋 屋根の端に十字架が付いていなければ教会とはわからない。
今は月1回 いくつかの教会を受け持っておられる司祭さまが来られミサが行われる。
今日は司祭さまのお話も聞け、見学もできてうれしい。
奈良県にも大阪から宣教師がやってきて高田・八木・桜井・田原本など、賑やかな町を選んで布教。
田原本では明治16年(1883)三浦○○が自宅を開放して夜の集まりを持ったのが始まり。
「八木から提灯を持って田原本まで話を聞きに来たという話も聞きました」
妨害や嫌がらせもあったが西洋文化をもっと知りたいという人たちもいた。
教会の建物は昭和8年の建築。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/ff/1612c3684071b294635f2623445bbe01.jpg)
内部はシンプルで木の構造が目立つ。
祭壇手前に今はカーテンがかかっているが、引き戸がしまわれており、ミサの後、引き戸を閉めて、お茶交流タイムになったらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/b8/a1c0eef149350b84e71290627837817a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/9c/00358f5516df3d408a6cad37f12515a4.jpg)
ガラス窓は色ガラス(黄色っぽい)が使われている。
「照明器具以外はほとんど当時のままです」とのこと。
そんなクラシックな教会はNHKのドラマ「いもたこなんきん」や「まっさん」のロケにも使われた。
この2つで大満足だが・・
この後、平野氏の陣屋跡だった町役場を通り「唐古 鍵ミュージアム」へ。
途中の花
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/d6/78778ae7291299ee793eafd55862fbca.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b0/4bcc57a75174464eb69b2193da0cd3c0.jpg)
ギョリュウの仲間(多分ギョリュウ ロゼア) ギンコウバイ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/49/df61bf2d04d9076d85ba89e65b5408be.jpg)
ハナショウブが満開 他の人は花に関心なさそう・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/06/bb7e9baadba429965755aea9bfdf6a11.jpg)
④午後から「唐古 鍵ミュージアム」を見学
弥生時代の環濠集落 「唐古 鍵遺跡」の出土物など多数展示
土器・石器・埴輪など
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/c1/8a8aa4478c053123ba6fab2edf04c01a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/cb/d840c1429d7ebea91d0c9f94e047a20a.jpg)
ヒスイの勾玉 勾玉が入っていた褐鉄鋼の容器
この硬いヒスイに弥生人はどうやって穴をあけたか・・竹串と研磨砂で?(6月7日ブログ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/d3/611fa68c65e02d68a114b944060b0538.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/67/8f2ee22c718b127ad8882236eabc541f.jpg)
棟持ち柱のある大型建物のミニチュアや木や石を細工しているところをミニチュアの人形で再現したり、
石器を使って木器作りをやってみたビデオもあり、展示方法は見てわかりやすく、弥生時代のイメージがわきやすかった。
唐古 鍵の弥生集落は洪水によって崩壊したと言われる。
それと入れ替わるように纏向が中心地となることから、唐古の人が纏向へ移動した?それならひょっとして卑弥呼もここ唐古 鍵で生まれたのかもしれない・・など・・ロマンのある話も聞けた。
⑤最後に津島神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/47/44ac75a81bb122d45ab8766cbd50b73f.jpg)
神仏分離までは祇園社と呼ばれ、平野家も崇めていたという。
夏祭り「祇園さん」には子どもを連れて何回か来たことがある。
なじみのある田原本の知らないことがいっぱい聞けた。