みどりの野原

野原の便り

1月31日 オオジュリン 

2020年01月31日 | Weblog

東大阪で探鳥
 
川の砂地にはセイヨウカラシナの大群落。栄養抜群の立派な葉 降りるところはない。
        川では今年もヌートリアが泳いでいた。
コガモ・アオサギ・マガモが見られた。


オオジュリンがいた遊水地のヨシ原 オオジュリンの写真は撮れません。
最初は教えてもらって見たが、後で、自分でも2度見つけられたのがうれしかった。
前に来た時に見つけたタシギは今年はいなかった。

池のそばにはいかなかったが、ハシビロガモやコガモが見えた。

 
センダン まだたくさんの実が残っている。  センダン幼木の葉痕
ケリ・ベニマシコの飛び立ったところ・ホオジロなど。
帰りにビルの換気口に降り立ったチョウゲンボウがおまけだった。


  遊歩道のシャリンバイ

早めに終わって室内で食事・歓談

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1月30日 桜井周辺 ヤドリギ 大和鉄道跡 イタビカズラ オオイタビ ワイヤープランツ花・果実 自然護岸

2020年01月30日 | Weblog

思い立って桜井周辺を歩くことにした。ボディーガード(息子)が付いてきた。

面白かった所・もの。

①ヤドリギ
 
川沿いの桜にヤドリギがいっぱい。 これだけ付かれたら桜もタジタジだろう。
弱らねばいいが・・  

 
木の高いところ、川中に付きだした枝、届きそうなところには全然ない。
             右)よく見ると、果実がたくさんついていた。

「ちょっとこっちへ行かへん?」というので付いていくと・・
②大和鉄道痕跡
 
 大和鉄道の痕跡があるという。  
近鉄線のガードの下に残ったコンクリート片は、大和鉄道の橋台の跡(基礎部分)らしい。

 
橋台跡から川の向こうを見ると・・向こうにもコンクリート片が残っていた。
  右の写真の向こう側の黒っぽい所(→)「川の中のあれは?」(→)橋脚の跡。

大和鉄道とは昔、田原本から桜井まで通っていた鉄道。
1918年新王寺ー田原本(後西田原本)営業開始。
1923年田原本ー桜井町まで延伸
その後、周辺の鉄道の整備が進み・・
戦中、休止になっていた田原本ー桜井町間は、1958年廃止となった。      
そして、その付近の建物や民家に、言われてみれば、廃線の跡がわかるような斜めになったところが見えた。

③イタビカズラ 大木
 
前に教えてもらったことがある春日神社 
イチイガシに取りついたイタビカズラの大木?その幹の太いこと。
             右)イヌマキの大木

④三十八柱神社
 
三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)  ここも大木が多い。

ショートカットして戻り道・・
⑤オオイタビ
 
家の塀や庭木の姿が見えないぐらい繁ったオオイタビ その近所の家にもオオイタビが何か所かあった。
果嚢は全然ついていなかった。     右)キダチアロエ満開

⑥殖栗神社
 
殖栗神社(えぐりじんじゃ)初めて来た。拝殿  右)本殿

⑦ワイヤープランツ

荒地の隅にワイヤープランツがふた山(何かに絡んで山状に)無数の花と果実があった。

 
    花も残り          果実がたくさんあった。
半透明に肉質化して目立つガクの中に黒い果実がある。
花や果実は見たことはあるが、こんなにいっぱいの花や果実は見たことがない。

⑧自然堤防

 

自然護岸・・我が家では、土手が土のままの堤防をそう呼んでいる。
だんだん少なくなってきているので、見つけるとうれしい。
ここはきれいな水がサラサラと流れ、木の橋など架かり、今までで一番きれいな自然護岸。

ショートカットした帰り道は一人では同じ道を通れないかも。でも面白かった。

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1月26日 長居公園 エリカ ギョリュウバイ &講演

2020年01月26日 | Weblog

お昼前に長居に付く。

 
  タイワンツバキが満開     タラヨウ 果実はすっかりなくなった。

 
   エリカの仲間      ギョリュウバイ 中央の色の濃い花盤が目立つ。

午後からは写真家の方の講演

講師は世界各地で、いろいろな生物の写真を撮っておられる方。
アフリカや南米のジャングル 東南アジア・世界各地の奥地まで旅し、出会った菌類・昆虫・魚・鳥・獣など生き生きした生活を描写。
又、それらの死に向かい合うこともある。「生命をめぐる旅」

そんな旅の中で撮影された「ラフレシア」は名前を聞き洩らしたが、初めて見る形だった。
こんな形のラフレシアがあるのか。見たい。
オサムシタケ・ヤンマタケ・ハエヤドリタケも初めて見た不思議な形。

山に行くと目の周りにまつわりついてくるメマトイが涙を吸っている写真とか、撮られている人はよく我慢しているなと笑えるような写真もあった。

アマゾンやパプアニューギニア 若ければ行ってみたいところだ。

今日も「講師の言葉を文字に変えて写す装置」が準備されていた。(何という装置なのか・・)
前回もこの装置が準備されていた。

人が聞いて、手書きで要約したものをスクリーンに映す「OHP」は以前からある。

今日の装置は、要約ではなくて、すべてを文字に変えてくれるので、完璧ならは言うことはない。
聞こえの悪い私にはありがたい装置だが、誤変換が多くて、それに頼るのはまだ無理がある。

機械がどれだけ言葉を理解して変換できるようになるのか? 固有名詞や初めて聞く言葉を変換できるのか?
難しいことはいっぱいあると思う。
でも、この装置の進歩を望んでいる人は他にも多いと思う。

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1月25日 手すき和紙の文化 表具

2020年01月26日 | Weblog

午後から手すき和紙を使った表具や修復のお話を聞いた。

講師は国内外で文化財の修復なども手掛けておられる伝統工芸士の方。
主に表具に関するお話だった。
今の家には掛け軸も襖や屏風もなく、初めて聞くことが多かった。

表具(表装)というのは『紙や布を貼ることによって仕立てられた掛け軸や巻物・屏風・襖・衝立・額・画帖など。
またそれらを仕立てること』

主に掛け軸のお話
平安時代頃から始まり、元は宗教に関する経巻や仏画などの保護や保存のために始まった。
表具の時に定規を使うやり方は昔も今も同じだそうだ。

宗教関係のものと、生活の中で楽しむものに分かれる。

掛け軸の上から垂れている2本のリボン上のものは「風帯」、その他の部分も一つ一つ名前がついている(なじみにくい)
本紙と縁などのバランスなどにより、真・行・草 などの格式が違ってくるという。(それぞれ細かく分かれる)

表装で使われるのは和紙と裂(きれ)と糊

表具の材料として主に使われる紙の原料は、ガンピ・ミツマタ・コウゾ。
その内、ガンピは人工栽培ができないそうだ。初めて聞いた。(実験的な試みがなされている所もあるとか)
原料によって漉き方も違い、それぞれ紙質に特徴がある。


代表的な和紙として、石州紙・雁皮紙・三椏紙・三栖紙・美濃紙・宇陀紙 の6種類の紙片が配られた。
説明を聞いて触ったりして確かめプリントに貼り付けた。
原料は同じ楮でも手触りや風合いは随分違う。
三栖紙・宇陀紙はどちらも吉野で生産されている。

紙の張り・艶・強さ・薄さ・・など特徴があり、表具の裏打ちや修復・書道用紙や建具の下張りなど使い分ける。


糊も回ってきた。「ふのり」と「古糊」
古糊は寝かせたもの。粘く、少し色がついていて匂いがする。接着力が強い。 用途によって使い分ける。

なじみのない表具の話は難しかったが、いくつかわかったこともある。

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1月25日 京都植物園 スノードロップ ロウヤガキ カナクギノキとオオカメノキ冬芽 

2020年01月25日 | Weblog

午後からの講演の前に、京都植物園を一回り。
春に向けて、植物たちも目覚め始めている。

 
  スノードロップ 雪の雫   セツブンソウ 小さくて見過ごしそう。


ヤマアイ 雄しべの目立つ雄花

 
カナクギノキ冬芽 コブシを突き出しバンザイ。
     右)オオカメノキの冬芽 私は「バルタン聖人のよう」と思う。

 
ロウヤガキ ランプのような果実が鈴なり。   侘助椿


植物園会館前のソテツ 毎年 薦巻きで冬越し。

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1月19日 橿原が生んだ偉人「谷三山」と「石河正道」

2020年01月19日 | Weblog

今日は谷三山を研究しておられる先生の講演。谷家の子孫の方も来ておられた。
h29年(2017)には没後150年の催しもあったらしい。
その時は谷三山について詳しく話されたようで、今日は三山の話と、その門下生の石川正道の話をされた。
私の関心は「谷三山」なので、そのお話を主に書く。

幕末の大和を代表する儒学者 森田節斎の一首に「高取に過ぎたるものが2つあり、山のお城(高取城)に谷の昌平(谷三山)」が残る。
聾の学者として「谷三山」の名前は随分前から知っていたが、それほどの人だったのか。

谷三山は享和2年(1802)~慶應年(1867)没
高市郡八木村(現橿原市八木町)生まれ、10代半ばで聴力を失った。

生家が米穀商を営む裕福な家で、父や兄も学問に理解があり、ほとんど4畳半1室で、読書三昧で過ごした。
国内外の書物(蔵書のリストは残っているらしい)を読破し、世界の動きも見つめていた。
又、兄とともに京都に遊学し、猪飼敬所に学んだ。

三山が20歳になった頃から、三山に学ぼうとするものが出てきて、私塾「興譲館」を開く。
門下生は、武士・百姓・町人・医者・僧侶・神主など多様で、名前のわかっているだけで50人を超すという。

儒書や詩経の素読・講義・質問や訳文に力が注がれ、段階的に学問を進める方式になっていた。
そして、読書・作詞・作文とともに討論というのを大切にしていたという。

聾の身で、どのようなコミュニケーションでそんなに深く関われたのか?

また、門下生の個性や主体性を尊重し、秀でた部分からは学び、自らの世界を広げ、見分をさらに深めようとした。

三山を訪れた吉田松陰に「三山は師の師たる人」「日本一の大学者」と言わしめた。
蝦夷地を「北海道」と名付けたことで知られる松浦武四郎も三山を訪ねて、北方問題について意見を交わしている。
筆談でいろいろ質問をしたらしい。

三山の高弟の多くは各方面で活躍。久保耕庵(名前は知っていた)兄弟や、(今日初めて聞いた)石川正竜など多くの門人を輩出した。
三山は、高取藩に仕え、意見書なども出す。
その中で尊王攘夷の立場をとることを表明するようになる。

三山が、開国期・開港後、尊王攘夷の立場をとるに至った背景についてのお話があった。
最初から尊王攘夷の考えを持っていたわけではない。
欧米諸国のアジアへの進出状況に、防衛の必要性を説く一方、その負担が民衆にかかることに異を唱え、一貫して「民の立場」ということを主張している。
開国後、幕府は通商条約に調印し、欧米諸国との通商が始まるが、不平等な条項を含むもので、物価高騰を招き、生糸や茶などが輸出される一方、大量に流入する綿製品が在来の綿業に打撃を与えるなどで、窮民が満ち溢れるようになる。
そういう社会状況の変化などがあり「民生の安定」を図るためにも「攘夷」が必要との考えに至る。
強兵論も民生の安定を考えてのことで、いつも三山の頭には「民衆の暮らし」があった。
尊王攘夷の立場とはいえ、天誅組による反幕府武装蜂起には異を唱えていたらしい。

今日の表題の「石河正竜」も谷三山の門下生の一人だった。

高市郡石川村(橿原市)生まれで、三山に学んだ後、苦学しながら江戸や長崎で蘭学を学び、石河確太郎と改名、島津斉彬によって薩摩藩士として召し抱えられ、薩摩藩の殖産興業政策に大きく貢献した。

石河は「物産交易構想」をもち、薩摩の物産を和州(大和の国)へ販売するために、南部と北部に交易拠点を作ることを考えた。
大和の北方の拠点として、南都(奈良)ではなく郡山を推し、南方の拠点としては高市郡曽我村(旗本多賀氏の陣屋所在地)に設ける準備を進めていたが、難航し、結局、北部に「奈良産物会所」・南部には葛下郡高田村(現大和高田市)に「高田産物会所」が設けられることになった。

残念。曽我に産物会所ができていれば、橿原市はどのように発展していたのだろうか?

大和から薩摩へは綿や綿種・籾稲・茶種子・稲扱き(機械)、硝石(火薬の材料)
薩摩から大和へは石炭・海産物・肥料・生蝋・菊油(シマカンギクの油)・すわひら織(周防平織り)などが取引されたそうだ。

薩摩藩に紡績機械を輸入し操業することを提言したのも石河正竜で、鹿児島紡績所を開設した。
紡績機械の購入には五代友厚らをイギリスへ派遣している。
堺にも紡績所を開設。

石河正竜は明治に入ってからも紡績業育成に力を尽くし、わが国の基幹産業「綿糸」紡績業の発展の礎を築き「近代紡績の父」と称された。

橿原市住人として誇りを感じる谷三山、石河正竜であった。

谷三山の顕彰碑は今井町まちなみ交流センター「華甍」の前にあるそうだ。

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1月18日 葛井寺(ふじいでら)初観音 本尊千手観音 開扉 人の列にびっくり 

2020年01月18日 | Weblog

友達と打合せを今日に約束をしていた。
今日、国宝のご本尊が開帳になるらしいとの情報を得た友達の誘いで、午後、藤井寺駅で待ち合わせることになった。

駅から歩いて商店街を抜けると左に葛井寺(ふじいでら)の西門が見えた。

葛井寺は聖武天皇の勅願で、行基による創建と伝わる。
西国33ヶ所巡礼の第5番札所になっている。
今日は初観音の日。秘仏であるご本尊の今年初めての御開帳の日だ。


 
         四脚門(西門)の前に花屋さん。

 
    境内にも屋台           本堂前は人が多い。
久しぶりでこんな賑々しい所に来た。(うちの初詣は人のいないところが多い)

「本日、初観音法要 14時~15時までは拝観できません」の立て札が。
あら~。今ちょうど14時 しばらく境内を見て回ろう。

南大門を見に行く。
 
立派な南大門(楼門)本当はここから入るべきだった。 
             右)南大門から本堂の方へ続く列は何だろう。

南大門の外には井真成(いのまなり)の記念碑が建っていた。

井真成は阿倍仲麻呂らと共に唐に渡った遣唐留学生。36歳で唐で亡くなった。
玄宗皇帝に仕え優秀な人材だったしく。現地で葬られた。
その墓誌が中国の西安で見つかったのだそうだ。
井真成の本拠地は藤井寺と考えられているらしい。

境内に戻る。


南大門からの行列は「ご朱印帳」の記帳をしてもらう人達の列だとわかる。すごい!
友達もご朱印帳を持ってきているので、列に並んで待つことにした。

15時前、法要が終わったようだ。
待っても一向に列は進まない。もっともだ。1人1人に記帳されるのだから。
いつになるかわからない。


藤棚がある。フジの花の咲くころはきれいだろうな。

しばらく列に並んでいたが、友達もご朱印は後日に来ることにして「拝観」の方へ。


そのころには「拝観」の方も西門(四脚門)から長い列ができていた。

最後尾に並ぶ。
列の進行は遅い。暇にまかせて屋台の店を覗いていて、帽子を買ってしまった。

 
ようやっと本堂の廊下へ上がり、本堂に入る。(撮影禁止)

ご本尊の「十一面千手千眼観世音菩薩(国宝)」は穏やかなお顔で迎えてくださった。
千の手、千の眼で迷える衆生を救ってくださるありがたい観音様。
千手観音と言っても実際に千本の手を持つ観音様は少ないのだそう。
葛井寺の仏様は大きい手、小さい手を合わせると1040ほどの手があるそうだ。
掌には眼が描かれている。
『日本の千手観音としては最古の1つ』とのこと。
秘仏だが、毎月18日には開扉される。
ビデオで細かい部分もよくわかった。

本堂から出てきても、まだ南大門近くまで列が続いていた。
今日の参拝者の多いのにはお寺の方も驚いておられたそうだ。
なんでも、暮れにテレビ?か何かで放送があったらしい。マスコミ効果か。

 
紫雲石の灯篭(レプリカ) 旗掛けの松 楠木正成と3人の息子に因む。
2葉の中に3葉が混じると聞いて探してみたが見つけられず。拾った人もいたらしい。

葛井寺を南大門から出る。

近くの辛国神社にお参り。ここでご朱印の記帳をしておられた。ここはひっそりと静かだった。

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1月17日 こんなところでヤドリギを見た。

2020年01月17日 | Weblog

打合せ会があって出かけた大阪の町中で・・


店の前にヤドリギが飾ってあった。 果実が付いている。

高い枝についていてなかなかよく見られないヤドリギ。こんなに近くで見られた。

 
丸い果実の先に可愛い5個の点 真ん中に柱頭の跡 周りの4つは花被片の落ちた跡
        右)これは雌株なので、この先のは春に咲く雌花のつぼみかも。

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1月14日 狛ネズミを見に。伏見から京都トレール歩き 久しぶりに3万2000歩

2020年01月14日 | Weblog

「狛ネズミ見に行かない?」「伏見駅8時50分集合ね」友達に誘われて「はーい」
家を7時過ぎに出発。電車は超満員。集合地に着くまでに疲れた~。

9時前、3人が集合。
 
駅のすぐ前に伏見稲荷大社の大鳥居。
笠木の下の柱の部分に輪があり「台輪鳥居」というそうだ。

 
参道左に3社があり、中央の末社、藤尾社の祠(重文)には舎人親王が祀られている。

 
第2鳥居から楼門を見る。楼門の左右には阿吽の随神像があった。
  右)本殿(重文)にお参り。「鈴の緒は外しております」の表示あり。

 
奉納された千本鳥居が延々と山の上まで続く。分岐もあり。登りが続く。

今日は稲荷山巡拝道~清水山山頂~東山山頂公園~蹴上(ここまで京都1周トレイル 東山コース道)
ここからコースをそれて~哲学の道~大豊神社「狛ねずみ」のコースを歩く。


 
京都トレイル東山コース2-1(1は駅前に)  四ツ辻あたりからの景色

 
だいぶ登ったところから・・伏見稲荷大社の境内を出て下る。  
               右)コース表示に従って階段を下る。

 
  御寺 泉湧寺に出た。素通り。     前方の一番高いのが愛宕山らしい。
愛宕山は前に登ったがきつかった。 京都タワーが見えたところもあった。


円通寺橋に被さるようにシダレザクラ。花の頃は見事だろうと想像しながら・・。

 
    歩きやすい道          根返りした木

 
  ビロードイチゴ?           これは何イチゴ?


清水山の山頂に到着 252.5m 三角点にタッチ。

 
 シロバイ 小さなつぼみあり  
 右)タマミズキ このあたりに何本かあったが、実はついてなくて残念。


高台寺山国有林を通って 東山山頂公園に到着
ちょっと遅くなったがお弁当タイム。

下って

 
  尊勝院    アリドオシが実を付けていた。(1両と言われる縁起植物)

蹴上に下りてきた。

琵琶湖疎水は琵琶湖の水を京都に流すために作られた水路。
明治23年(1890)5年間かけた工事が完成し、通水が始まる。
この水で水力発電し、それによって、電車やいろんな産業が盛んになる。
インクラインを使った舟運なども盛んになる。

このあたりには琵琶湖疎水関連の見どころ満載 
今日は時間不足だがまたゆっくり来たい。

     蹴上発電所

 
上をインクラインが通る「蹴上トンネル」強度を上げるためにトンネルをインクラインに対し、斜めにしてある。
 右)内壁のレンガも斜めに積んである(ねじりまんぽという)中へ引きこまれそうな錯覚を起こす。

「ねじりまんぽ」はずいぶん昔に娘から教えてもらい、何か所か見ているが、古くなって壊されたりして少なくなっているらしい。

 
   永観堂も外から。

 
若王子橋 哲学の道はここから始まる(南端) 銀閣寺橋までの約1.5㎞の散策路。 
元は疎水の管理用道路だったのだとか。思索に耽りながら歩く。(ほんまかいな)

 
  目的地 大豊神社に到着      狛ねずみのある大黒社

 
 玉を持つねずみ 吽像       巻物を持つねずみ 阿像

 
愛宕神社の「狛たか」日吉神社の「狛さる」 右)「狛巳」など参拝した。

町に出て、バスで京都駅に出て解散。
山ガールの2人につられて山を登ったり下ったり。今日の歩数は32000歩。がんばった!    

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1月13日 大とんど

2020年01月13日 | Weblog

成人式の今日、曽我で大とんどがあると聞いて、見に行った。

懐中電灯を忘れて、少し暗い所もあった。
もう少しで豊津橋に到着という時、火の手が上がった。ちょうど6時だ。
高取川が曽我川にそそぐ地点の川の中の砂地が大とんどの火床だった。

豊津橋に到着。見物の人は多くはない。
特に有名なものでもないので、見に来ているのはご近所さんだろう。

 
     暗い夜の火は幻想的だ。見飽きずにしばらく見ていた。


   水に映る火もきれい。

子どもの頃の大とんどを思い出す。大とんどの前になると子供たちは山へ杉葉を拾いに行った。
とんどに習字の練習した半紙を燃やして高く上がれば字がうまくなると言われたこと。
火をいただいて帰ってお餅を焼いたこと。 なつかしい。

 
提灯を持って向こうから歩いてきたのはここを教えてくれた友達だった。
とんどから火をもらい神棚へ供えるのだそうだ。 
とんどに点火する火は宗我神社と八幡さんから1年交代でいただいて、とんどに点火する。
今年は八幡さんからだと思うとのことだった。
点火する方角も決まりがあるそうだが、今年はどっちなのかわからなかった。

ところで、八幡さんというのは、天高市神社とは違うの?と聞いてみたら「同じだけど、この辺では八幡さんて言うわ」とのこと。
何だ。やっぱりそうなのか。先日来の疑問が解けた。

あることで「天高市神社?」と聞いたら「いいやうちは八幡さんの氏子や」というので、別の神社なのかとなっていたのだった。地元の人は「八幡さん」なのだ。

高い竹が崩れてきて、だいぶ終盤になってきた。初めての大とんど見物だった。

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