みどりの野原

野原の便り

2月28日 橿原神宮 深田池 ヒドリガモ トモエガモ 今井町 蘇武エノキ

2017年02月28日 | Weblog
橿原神宮の探鳥会に参加

 
   橿原神宮そばにある深田池     向こう岸の木はカワウの糞で真っ白。


ヒドリガモやオオバンが人懐こく寄ってきた。お天気が良く間近ではっきり見れる。


水鳥の雌はわかりにくいが、ヒドリガモの雌は頭の黄色い帯はないがくちばしの先が黒いのでわかりやすい。


トモエガモがいるという。中央のがそうらしいが、木陰で色がよく見えない。
南の山裾に遊歩道が付くまではオシドリの姿も見たけれど、最近は見なくなった。

他にはカワウとマガモぐらいだった。

休憩所の屋根にイソヒヨドリ。あっちへ行ったりこっちへ行ったり。きれいな色。

1890年(明治23年)に創建された橿原神宮
橿原神宮拝殿では、日本書紀や古事記を参考に描かれた神武天皇一代記絵巻が展示されていた。
大昔からあるように見える神宮の森は、神武天皇即位から2600年にあたる昭和15年。その記念事業として神域の拡張整備が行われ、その一環として全国からの献木と動員で植栽された。75年の森。
     
ノスリがゆうゆうと頭の上を飛んだ。アオジが地面で何かつついていた。

私は、若桜遊苑の近くにあるイトクの森古墳(池田神社)へ、ちょっと寄り道。
全長約30メートルの前方後円墳だったが、現在は後円部だけがわずかに残っている状態。
古墳時代前期の古墳と推定されているそうだ。

 
その後円部の上に建つ池田神社

 
塀の内側の狛犬を確認したかった。 右の狛犬の台石に「石工・サクラ井 平井庄造」の刻字がはっきりと読めた。 
明治25年(1892)2月の建立らしい。(ネット記事による)

平井庄造は先日の広陵町の記三上神社の灯篭にも書かれていた名。
時代を見ても櫛玉命神社の狛犬の作者「桜井駅石工 平野屋庄蔵(信繁)」とは別人ですね。


 神武天皇陵 文久3年(1863)今のところを天皇陵に定める。 

 
2代天皇とされる綏靖天皇陵 明治11年(1877)  高いところにヤドリギが見えた。

お昼前、橿原神宮の森を出て、今井町へ陸橋を渡る。


 今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」

その前の飛鳥川沿いに近年整備された公園でお弁当を食べた。

公園には「蘇武井(そぶのい)」や「子安地蔵」の復元されたものがあったが、弁当を食べた後、用事があるので皆さんと別れ、公園の端に昔からある本物を見て帰った。

 
これが、元からある「蘇武井」良質な水がこんこんと湧いたという。朝の水汲みのつらさを唄った碑が公園に建っていた。右横のお堂が「子安地蔵」   右)「蘇武橋のエノキ」
聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ通われた途中、愛馬「黒駒」に蘇武井水を飲ませたという伝説もあるという。

皆さんは午後から寺内町として栄えた今井町の歴史的建造物の残る町並みを見学される予定だそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月27日 下見

2017年02月27日 | Weblog
変わりゆく町、ともに周囲の田園風景も変わっていくのは仕方のないことだろうが・・

あれもこれもなくなってちょっとさみしい。

 
       オオイヌノフグリ         ホトケノザ


今まで見かけなかったフラサバソウが出てきた。
前はここにイヌノフグリがあった。


日だまりの中にテントウムシ もうすぐ春だね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月25日 長居公園・植物園 カワヅザクラ ヒヨドリさん空腹なのね。

2017年02月25日 | Weblog
長居公園

 
       ジュウガツザクラ           カワヅザクラ 見ごろ。

 
 ハルニレの芽はまだ小さく固い。     マテバシイ 春を待つ去年のどんぐり
後、ローズマリーが咲いているぐらいで、春はもう少し先の感じ。

植物園

今日は鳥と木の実をテーマに園内を歩いた。
 
高い枝に付いたフウの果序をアトリが盛んについばんでいた。 
     右)地面に落ちた果序には種子はほとんど残っていない。1個残っていた種子。
木の上にはまだ種子が残っているのかな?


地面一面に落ちたカンレンボクの果実 種子が入っているようなのもある。
アトリやカワラヒワには大きすぎて無理だが、ハトやカモなら食べられそうなのに、他に食べ物があるのか、それとも気付いていないのか? 誰も食べに来ている様子がない。

ヒヨドリは夏は虫、秋冬は果実を食べる。
木の実が少ない今の季節はヒヨドリは落ちた実やクローバー・スミレ・アブラナ科の草などを食べているらしい。
クローバの葉にもちぎられた跡があった。ツバキのつぼにも齧られた跡があった。
こんな時期は畑や菜園の野菜は狙われる。家もベランダのブロッコリーの葉をやられた。

 
ヤブランの種の混じったヒヨドリの糞。 しわしわに干からびたエンジュの実までつついているようで、相当お腹を空かせているように見えた。
今年はセンダンの実も早くになくなったし、あまり好まないと聞いていたムラサキシキブも今年は実がまったく残っていない。

そんなにひもじいなら家のブロッコリーの被害も許してやるしかないか・・と思ったが・・

 
満開のウメやマンサクはお口に合わないのかヒヨドリは食べないらしい。
コブシやツバキやバラなどの花は好んで食べるのに、ロウバイなども食べに来ているのを見たことがないと言われた。何か理由があるのかな? 聞かせてちょうだい。

葉や花や虫の出てくる春を一番待っているのは鳥たちかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月24日 山田池公園 オシドリ ハシビロガモ ナラ枯れ・カシナガ捕獲

2017年02月24日 | Weblog
京阪枚方市からバス山田池公園へ。 バス利用は初めて。

開園当初からのことをご存知のS先生から当時のお話を聞く。
公園の中央部にある山田池は1200年前に築造された溜池だった。
北地区から整備が始まり、続いて南地区も整備され山田池公園としてS54年開園
池や公園の中を流れる川の水質は今より悪かったらしい。

公園を歩く。


山の中に「竹屋峠」の石碑、古道が通っていたのか?

山田池

 
向こう岸近く マガモに混じってオシドリがたくさん泳いでいた。
 右)ハシビロガモの番が仲睦まじく。 へら状のくちばしの形から雌でもわかりやすい。

 
動かないアオサギのそばの水の中に、カモらしい死骸が見えた。
 それを狙ってかカラスが少しずつ近づいてきた。
もっと近づきたいけどそばにはゴイサギがいるし・・みたいにちょっと離れてはまた近づきしていたが、あきらめたのかどこかへ飛んで行ってしまった。
            右)アオサギがズラリ。中に1羽のチュウサギ?が混じる。

 
梅林近くでお昼 まさに満開 ほのかな香りが漂う。

 
   マンサクも満開          開く前の丸まったリボンが可愛い。


    アカバナマンサク

午後は山田池公園で「KSS]というグループが取り組んでおられるナラ枯れ対策、カシノナガキクイムシ(略称カシナガ)捕獲の活動のお話を聞く。
カシナガ捕獲の方法はいろいろあるらしい。がここではペットボトルトラップ使用。

 
午前中に見た防除ネットを巻いた木    フィルムを外したらしい跡?の残る木も見た。

ここではラップのようなフィルムではなくネットが使用されているのが目についた。
フィルムよりも通気がよくて、木に優しそう。


ネットから出て成長したキノコ

「カシナガトラップ(ペットボトルトラップ)」を見せてくださった。

 
ペットボトルの再利用かと思うような形が連なったトラップ。
トラップは別注で外国で作ったものらしい。
     右)トラップの下に捕虫器を付け、下のエタノール入りの容器に落ちる仕掛け。
この仕掛けだけで9000円ぐらいかかるとか。

トラップを幹の4方に取り付ける。トラップにあたったカシナガが、じょうごから中に落ち、下の捕虫器に。暗いところから明るい所へ出る性質を利用してエタノール入りの瓶に落ちる仕掛け。 なるほど。

ビンの蓋を開けて見せてくださったものは・・

h26年11月から1年間に公園内の樹木57本に仕掛けた160基のトラップで捕獲したカシナガ346642頭の半数がこの瓶に入っているという。ワオ~!まるでチリメンジャコの佃煮みたい。カシナガは「匹」ではなく「頭」と数えるのか?
取り出しと、カウントの方法を聞いてなおびっくり。

捕獲機を外して回収。カシナガをザルに入れてアルコールを抜き、10頭単位に分けて頭数を数えて瓶に入れる。 あの細かいカシナガの数を数える・・大変な作業をH25年からされているとのこと。
そして、この効果か? カシナガ捕獲数は年々減少しているという。
カシナガ被害終息に近づいているのか? 
この捕獲対策が有効だとすれば今後各地へ広がっていくのかな・・

帰りは歩いてJR藤坂駅から帰る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月23日 シランの無菌培養 経過 芽が出た?

2017年02月23日 | Weblog
去年11月26日に 「シランの無菌播種」というのをやった。(11月26日ブログ)


ラン科植物の種は細かくて栄養をほとんど含んでいないので、そのまま普通の用土に蒔いてもほとんど芽がでないらしい。   写真はシランの種子
それで発芽させるには無菌培養ということが行われる。

その時、培地(寒天に肥料やグラニュー糖やキッチンハイターや水などが入ったもの)にシランの種子を播種した容器は窓辺に置いたままほおってあった。
春までそのままでよいとは聞いていたが、すっかり忘れていた。


今日、ふと見ると緑色のものか・・カビが生えたかと思った。

消毒殺菌を繰り返して行った培地作りと播種 この緑色のものはきっとシランの芽にちがいない。
もう少し観察が必要だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月22日 外鎌山~忍坂周辺 石位寺・赤坂天皇山古墳・忍坂山口神社クスノキ巨樹

2017年02月22日 | Weblog
朝倉駅から登山口へ緩やかな登り。
 
外鎌山(とかまやま)登山口 前に登った時にはなんともなく登ったように思うが、ふうふう。

外鎌山頂上に到着。標高292.5m
万葉集で「忍坂の山」と詠まれたのは外鎌山のことらしい。
また高円山・恩坂山・小倉山とも言われていたそうだ。


見晴らしがいい。 大和三山がはっきり見えた。あべのハルカスが見えるというが、大阪はかすんでいる。

ここは南朝ゆかりの地で、山上には多武峰の力を得て築いた砦・外鎌城があったらしい。


「南朝忠臣 西阿」と書かれた墓碑があった。枯葉の中に横たわって?いた。
「西阿(さいあ)」初めて聞く名。楠木正行について四条畷で戦い、討ち死にしている。
楠木正行一行は戦出発の前、吉野・如意輪寺に詣で、正行が矢じりで扉に辞世の句を刻んだ。その扉を過去帳に見立てて一族郎党が名前を刻んだという。その中に「西阿」の名前もあるという。
そんな緊迫した過去は全く感じない静かな山上だ。

反対側、忍坂(おっさか)へ下る。(「忍坂」は「押坂」と表示されている時もある)

 
鏡女王押坂墓(談山保存会が管理) 
        右)細い谷川に鏡女王が天智天皇の歌にこたえて詠んだ歌碑が建つ。
「秋山の木(こ)の下隠(したがく)り行く水の我れこそ増さめ思ほすよりは」 
(こんな熱い時もあったのに後に天智天皇は中臣鎌足に鏡女王を下賜するなんて・・個人的感想・・)  
  
舒明天皇押坂内陵(段ノ塚古墳)の前を下る。
  右)神籠石(じんごいし) 神武天皇東征の折、この地にいた八十建(やそたける)を討つ際にこの石に隠れ石垣を巡らし盾にしたという大石。火の見櫓は昭和に移設されたもの。

高円山 石井寺
今は無住寺で地域の方が管理しておられる。

 
        本堂       その奥にある収蔵庫の扉を開けていただいて拝観。
白鳳時代に製作された薬師三尊「石造浮彫薬師三尊像」と伝わる。
「日本最古の石仏」といわれ重要文化財に指定されている。

かつてあった粟原寺(廃寺)の三重塔の四方仏で粟原川の氾濫で流れ出た。という伝承があるという。


本殿のこちら側からなら撮影してもよいとのことでデジカメで写す。
石仏はきれいで色白、汚れもなく彩色が少し残っていた。

 
               境内には石仏が多い。
忍坂街道の碑のある道を下る。

赤坂天王山古墳

       説明版がある。


左へ入って3号墳 小さい入口から中を覗いた。開口部に残る閉塞石は1枚の石ではなくて小さい石を積み重ねたものとのこと。
石が小さければ盗掘しやすそうと思ったが、そうでもないらしい。

続いて1号墳へ。ここは中へ入った。

   一号墳 狭い入口からもぐり込む。

  
玄室でやっと立ち上がれた。縄掛突起のある家型石棺が見えた。 天井石(手前の2石)
他の人の灯り頼り、しかも暗いので写真は無理。

 
       出口へ向かう人        中から這い出してきた人
探検気分で面白かった。

ずっと下って忍坂山口神社へ。

 
 忍坂山口神社のある森が見えてきた。     
 
忍坂山口神社は奈良の山口神社14社の内、特に重要な山口神社(大和六所山口神社)の1つ。            右)遠目からもそびえていたクスノキの巨樹 デカい。 
説明版によると「初代クスノキは金閣寺の天井板に利用されたと言い伝えあり、今あるのは2代目のクスノキ」とか。

これで今日の予定は終了。朝倉駅へ戻る。

外鎌山登山、石井寺の石造浮彫薬師三尊像、赤坂天王山古墳、忍坂山口神社の巨樹、など変化に富んで見どころいっぱいのコースだった。     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月21日 広陵町周辺ぶらり 高田川合流 ケヤキ巨樹 小島屋半兵衛狛犬

2017年02月21日 | Weblog
午後から広陵町ぶらり歩き。

 
車を止めて、高田川堤防へ。

高田川の東側を並行して流れる川がある。尾張川というらしい。初めて聞く名。
高田川の支流(基点は神楽あたりとのネット記事あり)
この先に合流点が見られるという。

 
笠橋から見た高田川(左)と尾張川(右)の合流点 
    右)南を向けば2つの川の内側の堤防がつながって馬蹄形の面白い形になっていた。

 
下街道から1つ東側の、村の中を通る自然なカーブの道。下街道が付くまではこの道が主な道だったのではないかな?という。     右) 角に役行者を祀ったお堂があった。

  
火の見櫓もあった村の中心部を通る道。   向こう突き当りに八坂神社が見えてきた。

 
八坂神社 大木が多い境内の中でもひときわ大きいケヤキの巨樹 説明版には「幹周4.3m 樹高25m」とあり。葉が繁っていればさぞ貫禄があるだろう。

 
  境内の端に小さい丸い池。そばに「大杉神社 祈雨」の石標 謂れはわからない。

 
八坂神社境内から門をくぐれば正楽寺 ちょっと入ってみよう。正面は観音堂   
        右)お堂の横に小寺公民館。昔の小学校のようなノスタルジックな建物 下駄箱も懐かしい感じ。

その横に「木造11面観音立像」の説明板があったので見に行ってみよう。

 
観音堂は格子戸が閉まっていて、小さい小窓が付いていた。覗いたが暗くて何も見えず。
横にスイッチがついているが・・押したら「ビィ~~~」と鳴り響くんじゃないの?
こわごわ押してみたらパッと中に電気がついた。すご~い。良く見える。
「木造11面観音立像」はヒノキの寄木造 鎌倉初期の作と考えられている。奈良県指定文化財 平成7年の解体修理中に墨書銘が発見されている。照明はありがたい。

隣のお堂は薬師堂 
 
薬師堂の格子戸の小窓にはスイッチがなくて見えない。「あんた懐中電灯持ってるのとちがうの?」「そうや忘れてた」、ミニの懐中電灯の威力で薬師如来(右)もばっちり見ることができた。


八坂神社を出た東の3差路になったところに太神宮灯篭と道標があった。
 道標の3面には 「こふ里やま なら 京」「たつた ほふ里ふじ」「こうや 山上 たかだ」「みわ はせ よしの」などが記されて、やはりこの道は主要道路だったに違いない。

 
村の中を通った時も環濠の名残が見えたが、小寺は環濠集落で、この近くにも3面張りになった環濠が残り、環濠の位置はよくわかる。


太くてまっすぐな下街道を北へ。

 
「小北稲荷神社」の鳥居があった。名前を聞いたこともない。向こうの森がそれらしい。

  
 小北稲荷神社  狐はお稲荷様のお使い。阿吽ではなく、巻物をくわえた狐(もう1方には玉を加えた狐)が両側を守る。 舒明天皇の頃の創建という。
稲荷って何? よくわからない。
 
境内には灯籠や狛犬もある。狛犬を見ていて・・あら半兵衛さん・・こんなところで・・
 
台石に「大阪西横堀 石工 小島屋半兵ヱ」半兵衛は江戸後期の石工で当時人気の石工だったらしいと聞いている。後ろ脚あたりがちょっと手抜き?
            右)柵に囲われた「千本カシ」株立ち状になったアラカシ
高田川 赤部橋を西へ。

 
ここは何神社なのか?鳥居にも拝殿にもどこにも神社名が書いてない。
「蓮台寺」の説明板があった。読んでももひとつ理解ができない。
ネットで見ると『旧蓮台寺(廃寺)」跡に建つ「記三上神社(きさんじょうじんじゃ又はきみがみじんじゃ)』だということがわかった。         右は拝殿 新しい。
記三上神社は『舒明天皇が百済宮に坐した時の創祀と伝わり・・元は讃岐神社の摂社だったそうです』とのこと。

 
境内に建つ小堂が 宝陶山「蓮台寺」(廃寺)のものとのこと。 そばには石仏も。
                          右)お堂の中の地蔵菩薩
そして、鳥居を出るとき・・太神宮灯篭を見る。

 
      太神宮灯籠      台石に「石工 當村 平蔵 桜井 庄造」
えっ?あの「しょうぞうさん」?

飛鳥の櫛玉命神社に私の好きな狛犬「桜井驛石工平野屋庄蔵」信繁の花押(慶応年代)がある。
この灯籠を作った石工は同一人物かと思ったが・・名前の字が違う・・
ネットで調べると「桜井 平井庄造」なる石工もいるらしく、明治35年ぐらいの狛犬もあるようで時代も少し違うかな? 残念。

3時間ほどのウォークだったが、そんなに遠くないのに知らない所や知らないことがいっぱいあって面白かった。
まだまだ案内したい所があるらしいが又今度連れて行ってもらうことにして帰路につく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月18日 丹羽佐吉 参道狛犬 水分神社 奈良カエデの郷ひらら(旧宇太小学校)

2017年02月18日 | Weblog
知り合いからの情報で丹波佐吉と狛犬のお話を聞きに行ってきた。

会場は「奈良カエデの郷ひらら」廃校になった旧宇太小学校を活用している。
校舎や教室の雰囲気もよく残されている。

 
            昔懐かしい木造校舎

 
許可を得て教室も少し見たが、時間不足 またゆっくり来たい。
               右)世界のカエデが1200種 3000本もあるとか。

さて、今日の講演は「参道狛犬文化の中の丹波佐吉」

日ごろ、神社などに行った時見る狛犬。写真は撮っている。
子連れの姿も様々で可愛い。1つの石から台も子獅子も彫り出されているもの。銘の残るものは親しみがわく。彫刻の模様がいいもの。シンボルを見つけてわいわい言ったり・・
自分なりに楽しんでいる。
狛犬の他、道標や石仏なども丹波佐吉のは何か惹かれるものがある。

でも、狛犬のことも佐吉のことはあまり詳しくは知らないので、今日の機会はうれしい。
(以下、聞き違い勘違いあるかも。お許し下さい)

「参道狛犬」とか「浪花狛犬」という言い方は知らなかった。

「浪花狛犬」は、関西に多く見られるもので、蹲踞の姿勢のものが多い。
「参道狛犬」とは「拝殿内や神域」以外の「参道や拝殿前に置かれたもの」をいうらしい。

狛犬は仏教伝来とともに伝わり、はじめは仏像と共に内部に置かれていたらしい。
金属・木・石・陶器など材質もさまざま。

佐吉については記録が残されている。
佐吉は5歳で孤児になり、旅の石工難波伊助に引き取られ、石工の道へ。
20歳の頃、旅の石工となり各地で修行、腕を上げる。
最初に佐吉の銘の入った狛犬が奉納されたのは弘化4年(1847)(東近江市佐野・天神社)32歳の時。ちょうど、江戸中期以後ブームになった浪花狛犬がその流行のピークを迎えた頃。
その後、佐吉はあちこちで素晴らしい仕事をして名声を得る。

宇陀の地へ来たのは37歳の頃。依頼を受けて宇陀の大師山の四国88ヶ所石仏群制作のため弟子達10人と3年かけて石仏群を作っている。
(狛犬はピークの後、徐々に形式化 大量生産の時代になってくる)

佐吉は48歳の頃病を得て、後、丹波大新屋で最後となる不動明王を制作(慶応元年・1865)した後、ひっそりと姿を消したそうだ。もうすぐ明治になる少し前、51歳だったという。

宇陀大師山(平井大師石仏群)は前に行ったことがある。
h26年9月25日 ブログにも書いているはずだが、他所へ行った帰り、偶然「石仏群」の矢印を見つけて細い道を入って行った所、そこは四国88ヶ所霊場巡りになっていた。
信仰心のない私は「なーんだ 霊場巡りか」と思ったが、少し歩いてみることにした。
山道の傍らに「○番○○山○○寺 大日如来」とかの札があり、他にも石像や石塔などがある。何となく見ていたが「これちょっとすごくない?」と目に留まるものがあり、その中に佐吉の銘の入ったものもあった。「来てよかったね」となったわけだ。

狛犬の設置場所・石材・全体の形・顔・耳・目・鼻・あごひげ・たてがみ・脚・奉献の文字・銘や奉納年月日 奉納者・世話人など・・・見方を教えてもらった。
台座と言っていた部分は「州浜」という名があることも知る。 

佐吉の狛犬にも変遷があること。
佐吉の狛犬は彫りの深さ・力強さ・州浜の枠線など特徴があるが「短絡しないでください」と先生のお言葉。「こうなっていれば佐吉作」とは言えないということだ。
村上源照信・村上佐吉・照信の銘のものもある。

丹波佐吉の石造物はどこか違うところがあり、前にも通りかかった布袋像に妹が目を止めた。そして後ろに回って佐吉の銘を見つけたことがある。後で有名なものと知る。

佐吉作でないが、好きな狛犬もいる。地元の人らしい石工銘があるのもうれしい。

狛犬など、それを目的とせずに歩くので、ゆっくりとは見れないかもしれないが、少し見方がわかった分、見る目も違って楽しめるのではないかと思う。

講演の後、近くの宇陀水分神社中社へ。
水を守る神で、別に下社と上社がある。

水分神社中社へは前に夫婦杉を見に来たことがある。

鳥居の前の狛犬は丹波佐吉の作。

 
左の狛犬(吽)は耳と州浜の所がちょっと欠けていた。 
        右)尾の形で時期が分類できるらしい。合わせてみると第3期の尾 かな?

 
右の狛犬(阿) 上記(左の吽像)とはたてがみの流れ方が違う。
                  右)奉献の字の深い彫り。手がすっぽりと入る。
石の色が薄赤いのは「阿蘇の赤石」という石材を使っているからという。

「阿蘇の赤石」どこかで見たぞ。阿弥陀如来だったかお地蔵さまだったか・・・薄赤い色をした確か立像だった。過去のピクチャーを検索してもでてこない。 ま。いいか。

「阿蘇の赤石」、阿蘇=熊本ではなく、大師山近くの阿蘇の山の石だということ。
ええ~っというほど驚いた。
赤いのは水銀を含むからとか。確かにこの辺に水銀鉱山があったことは聞いたことがある。
佐吉は地元の石を使って制作したわけだ。

そして、弟子10人と言っても彫り手ばかりでなく、石の採取や他の作業に関わった人も含むというのは参加者の方が言っておられた。
参加者には相当詳しい人もおられるようだった。狛犬を彫っているという他府県からの方も。講師先生は「狛犬でこんなに集まるとは思わなかった」とおっしゃってた。

  
3棟が並ぶ「本殿」は鎌倉時代の建築で国宝に指定されている。 
        右)本殿前の両脇に建つ永世燈 これも佐吉の可能性ありとか(無銘)。

もう少しゆっくり見たいところはまたの機会に。いろいろ勉強になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月17日 大阪府庁・正庁の間 府公館 前期難波宮遺跡 見学

2017年02月17日 | Weblog
大阪府庁などを見学
 
大阪府庁本館は1926年(大正15年)の竣工         玄関 

 
玄関ホールと階段のある中央ホールの間のガラスに映った大阪城。
やっと中へ。       右)中央ホールは3階まで吹き抜けになって、広い階段がある。
イタリア産の薄いピンクベージュ色の大理石が用いられ、暖かい感じがする。

5階、正庁の間へ。
正庁とは「正面の大広間」という意味だと説明あり。
『かつては年末年始の行事や人事発令などの式典に使用していた。近年は庁舎が手狭になったため執務室として使用していた』時期もあったとのこと。 
執務室にするにはシャンデリアでは光量が不足のため、天井の低い位置に蛍光灯を取り付けたという。
ずらりと蛍光灯が並んだ正庁の(味気ない)写真を・・見せてもらったんだか。隣の資料室で見たんだか・・。
その後、復元改修が行われ、一般公開をはじめたとのこと。

 
正庁は5階・6階の2層分のスペースを使った大広間で7.3mの高さ。天井のステンドグラスは国内最大級だとか。

 
装飾レリーフが随所にほどこされている。     窓のステンドグラスもきれい。


地味だけど「寄木の床」がいい感じ。広間全体が一様ではなく変化をつけてある。

「窓から大阪城が見えます」といわれた。

 
「近くから見ると小さく、窓から離れると大きく見えますよ」 ホントだ。

隣の資料室も見学して階段を降りる。


南玄関の内側の壁の大理石の中にアンモナイトのような化石が見えた。

通りに出た。


       大阪府庁内郵便局

 
大阪府公館 大正12年に知事の住まいとして建設された建物  
                 右)普段は会議や式典等に使用 ここは小サロン
大サロン・大阪の物産が並ぶ、広報担当副知事「もずやん」の部屋なども見学した。

大阪歴史博物館へ。

大阪歴史博物館 中でNHK(右の建物)と繋がっている。
近くで飛鳥時代(前期難波の宮 孝徳天皇の難波長柄豊崎宮と推定される)と奈良時代(後期難波の宮 聖武天皇の宮)の2つの時期の宮殿跡が見つかっている。
 
博物館内ホールには「前期難波の宮」の建物跡を示す円印(柱跡) 
 右)床下の柱穴をガラス越しに見る。柱穴は「焼け土」などで埋められ、建物が焼けたことがわかる。
前期難波の宮はすべて掘っ立て柱の建物で、倉庫群が並んでいたらしい。
ビルの外にも倉庫群の柱跡や塀の跡が示されていた。さぞかし壮観だっただろう。 

 
地下に残る倉庫群の遺構 灯りの円柱は柱跡を示している。反対側には塀の遺構もあった。 

これらの遺跡は地下に作った「コンクリートの箱」の中に保存されているそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月16日 西吉野のフクジュソウ自生地 雪 

2017年02月16日 | Weblog
バスで西吉野へ。
近づくにつれ道端に雪が見え始め、フクジュソウ自生地近くは雪景色。

 
    自生地へ。雪の坂を登る。         遊歩道も雪景色で美しい。

「フクジュソウは日本に4種が自生している」と説明があった。え~っ初めて聞いた。
今日見るフクジュソウはどれなのか・・
と言っても、この雪の中、フクジュソウは咲いているのか?

 
雪の溶けた所に何株かが花を咲かせていた。 まだ出たばかりで黄色がまぶしい。

4種はガク片の長さ・茎に付く花の数・葉裏の毛・花色・・などで見分けるらしい。
顔を近づけたりしてよく見ようとしたが、まだ葉も開いていなく、よくわからなかった。

 
まだ枯れ木状態の木々の中、ソシンロウバイは花盛り。 
              右)ハクモクレン?の枝に苔で作られた鳥の巣があった。 
帰って友達にメールで尋ねた。たぶんメジロの巣だろうとのこと。
細かいコケを小さいくちばし1つで、よく作れるものだ。
人間が両手を使って、同じ材料で同じように作れるものだろうか? 誰かやってみて~。

帰りは下まで歩いて降りる。

 
        雪の積もった道     溶けかけて凍ってツルツルの所。用心用心。

途中、後醍醐天皇勅願所となったという「圓光寺」へ立ち寄る。


圓光寺 境内には大きい枝垂桜が2本 咲いたらさぞ見事だろう。
現在の堂宇は、天保年間に再建されたものらしいが、右)軒下の木鼻の彫刻や、山門の扉にもカラクサの中にキリ、もう1方はキクの彫刻があった。

下って、賀名生の皇居跡まで降りた。

後醍醐天皇が吉野へ逃れる途中に寄られたという皇居 
後、南朝が正当と認められ「願いが叶ってめでたい」と、元「穴生(あなふ)」と言われていたこの地を「叶名生(かなふ)」と名づけ、後に「賀名生」に改めたという。
読み方を元の発音に近い「あのう」に変えたという。
賀名生の地名は町村合併でなくなったそうだ。歴史のある名を残せなかったものか。


この辺りで少し散策。スズシロソウが咲きはじめ。

 
タチシノブ(左)とホラシノブ(右)を見比べ。ホラシノブは赤く紅葉していた。

 
近くには「恋風トンネル」「結晴橋(むすばればし)」の名
町おこしで付けた名らしい。 若い観光客が増えたのかな?
ここからバスに乗った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする