みどりの野原

野原の便り

5月31日 うちのツバメの記録①(5月6日~5月31日)どうなってるのか?

2020年05月31日 | Weblog

2009年、初めてうちのガレージの中にツバメが巣を作り、ヒナを2羽育てた。
それ以来、家の前の電線に止まったり、時にはガレージの中へ出入りはしても、子育てには至らないという状況だった。

それが、今年の5月初めからツバメが出入りするようになった。
今年は卵を産んでヒナを育てるかしら・・楽しみにしている。

 
①5月6日 朝9:20 1羽、巣の下のコンクリートに下りていた。巣にも止まっていた。 
                 ②5月7日 昼だから? 姿は見えない。

③5月10日 夜 2羽、巣に止まっていた。(娘写す)
いよいよ卵を産むかな?

それからしばらく、昼間、電線に止まったりしているのは見ているが、巣は見ていなかった。

娘・夫が言うのには、
「夜に1羽又は2羽 毎晩帰ってきて朝にはいなくなる。寝るためにだけに巣に帰ってくるんじゃないの?」
(この間の巣の写真は撮っていない)

鳥に詳しい何人かの人に尋ねてみたが「寝に帰るだけというのは聞いたことがない。そのうちに産むのでは?」との答えだった。

その後、2.3日は帰ってきていないようだった。
どこかへ行ってしまったか?と思っていたら、また、夜に巣に戻ってきている。

 
④5月25日夜、2羽、巣と下の金具(前に巣を作った時に作った棚の金具 「止まり木」ということにする)に。           
             ⑤5月26日 真夜中、1羽だけ巣の縁に止まっていた。

 
⑥5月27日 夜 金具に1羽だけ 止まっていた。


⑦5月28日 夜 帰ってきていないよう。


⑧5月29日 夜、8時頃にはいなかったが、真夜中 2羽 巣の縁に止まっていた。

 
⑨5月30日 夜 いない


⑩5月31日 いない

初めて見てからほぼ、1か月になる。いよいよどこかへ行ってしまったかなあ。

博物館の学芸員さんにもお尋ねてしてみた。(25日)
「巣で子育てしている間、巣か、近くで寝ることはあるが、離れた別の巣で寝ることはないと思う」
「巣を作ってから産卵まで結構日数が空くことはあるが、20日も空くのは空きすぎのように思う」
「写真で成鳥と確認。複数の巣を作ってその中から産卵する巣を選ぶことはある」
「しばらく来なくて又2羽来るようになるのは、理由はわからないが、産卵できずにいるのかも。まだこの巣で産卵する可能性もあるかも」とのこと。

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5月30日 人麿神社 入鹿神社  鷺栖神社 畝尾都多本神社 他

2020年05月30日 | Weblog

橿原・飛鳥あたりは古事記・日本書紀・万葉集などに関係するところが多い。
今までに行ったことはあるが、この機会に何か所かもう1回歩こうと思った。
人麻呂神社 入鹿神社  鷺栖神社 畝尾都多本神社が主目的地で、家から歩いて行けそうと思った。

でも、通り道、気になるものがあると引っかかる。


久しぶりで通った「蛇巻きの木」毎年変わらずお祀りされているんだなあ。

 
家の子供がその形からパンツ池と言っていた桜池 周辺はきれいに整備された。
 右)池の北側は変わりないが、道の横の高みに社だの石だの灯籠だのいろんなものが祀られている。

 
   クロガネモチ 雌花       別の場所に 雄花


   ヤブニッケイ 花 

「人麿神社」
飛鳥時代の歌人 柿本人麻呂を祀る。
以前にはよく前を通っていたところ。
ケヤキ・ムクノキ・クスノキなどの大木 ムクロジもある。木が繁っていい雰囲気。

 
    柿本人麻呂を祀る         本殿は檜皮葺 重要文化財  
ちょうど周辺の皆さんの清掃日らしい。2人3人と集まってこられた。こうやって美しく守られているのだ。
「秋山の黄葉(もみじ)を茂み迷いぬる 妹を求めむ 山道(やまじ)知らずも 柿本人麻呂」の歌碑あり。

細い道を小綱町へ。

  
鳥居を入ると正面に「入鹿神社」     本殿は檜皮葺 重文指定 そばまで行ける。   
祭神は蘇我入鹿と素戔嗚命  
明治時代、皇国史観という考えの元「逆臣蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪い」と、祭神を素戔嗚に、神社名を小綱(しょうこ)神社(地名)に変更するよう政府から働き掛けがあったらしい。
それを地元住民はきっぱりと断ったという。  パチパチ 👏 

  
 サカキ 咲き始め   イヌビワ 小さい果嚢 枝をひっくり返してみたら、去年の果嚢がたくさん残っていた。


同じ境内にある「正蓮寺 大日堂」
文明10年の上棟札が残され、室町時代の小規模な仏堂として貴重であるとして、また本尊「大日如来坐像」は鎌倉時代の作で、共に重文に指定されている。

大日堂・本尊は元は仏起山普賢寺にあったもの。明治の廃仏毀釈により、普賢寺は廃寺となる。
大日堂も解体が検討されたらしいが、地元小綱町自治会が落札して保存された。 またもパチパチ 👏
今は正蓮寺の管理になっている。

廃仏希釈でどれだけの文化財が壊されたことか・・

 
大日堂を出て、ふと見ると立派なお寺の屋根が見えた。
正面に回って見た。これが、大日堂・大日如来を管理している「成等山正蓮寺」なのだった。知らなかった。

横大路を越えて今井町へ。今井町の街並は今日はパス。

今井まちなみ交流センター「華甍」
 
明治36年の竣工(棟札あり)美しい建物だ。奈良県指定文化財
説明板によると、大正天皇ご成婚の時、畝傍御陵に参拝され、その時の下賜金によって「教育博物館」として建設された。
その後、今井町役場となり、現在は、今井まちなみ交流センターになっている。
        右)東隅に「谷三山」顕彰碑が建つ。
子供の時、聴覚を失いながら勉学に励み、私塾を開き、有能な門下生を輩出した江戸時代の儒学者 八木に生家が残っている。以前のブログ参照 2020.01.19 こちら 

橿原警察の横を東に行ってみようとしたが、線路に突き当たって、戻る。

1つ南の道を東へ。
図書館で本を2冊借りて、リュックへ。

「鷺栖神社(さぎすじんじゃ)」

 
式内社 鷺栖神社に比定される古社。創立年は不詳だが、藤原京以前に創られたらしい。
天児屋根命 譽田別命 天照皇太神を祀る。
古事記 垂仁期に『皇子 本牟智和気王(ほむちわけのみこ)が成人しても言葉を発せず、夢のお告げで、出雲大神の祟りであることを知り、出雲へ参拝する前に霊験を確かめるため「もし、霊験があるならば鷺栖池の鷺よ落ちよ」と言うと鷺は池に落ちて死に「生きよ」というと、生き返ったとか。 (ここがその鷺栖池のあった所だという)
その後、出雲大社へ参り、大国主の宮を立派に立て直したところ、言葉を発するようになった』
   右)万葉歌碑「ひさかたの天知らしぬる君ゆえに 日月も知らず恋ひ渡るかも」柿本人麻呂


    藤原宮跡 広い。
西面大垣のあたりを通り、臨時駐車場になっているベンチでお昼にする。

 
「畝尾都多本神社(哭澤の神社 なきさわのもり)」 
                右)神殿はなく、玉垣に囲まれた「空井戸」がご神体。
古事記で、伊弉冉が火の神カグツチを産み亡くなった時、死を悲しんだ伊弉諾の涙から生まれたのが「哭澤女神(なきさわめのかみ)」
境内は薄暗く湿っぽく、メマトイがまとわりついてきた。


   境内にある八幡神社

「伊弉冉 伊弉諾はアメノヌボコでどろどろを掻きまわし、引き揚げたヌホコの先から落ちた雫がオノゴロ島という最初の大地になった」とか「結婚してたくさんの子(島)を産んだ」「伊弉冉が亡くなる前に吐いたものから・便から・尿からも神が生まれた」とか「刀で伐られたカグツチの血や手や腹や・・ 亡骸からも神が生まれた」・・
稗田阿礼はどこからそんな話を仕入れてきたのでしょうかねえ。

帰路
 
カルガモが2羽飛んできて田んぼに下りた。 水路にヤナギモ?の花(花序)

 
   藤原宮跡 発掘工事中 

 
ガーベラ 綿毛のある種子 初めて見た。     正福寺 薬師堂

八木の町中も色々見どころがありそう。どこを通って帰ったかわからないけれど・・(笑)
近鉄百貨店に立ち寄って買い物 ボールペンの芯3本のみ(しみったれ)目の保養もなし。

今月末まで電車自粛中。だけど八木から電車に乗ろうかと思ったが、あいにく出たばかり。

しゃあない。歩いて帰ろ。

歩数25400歩 息子に「無理するな」と叱られた。

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5月28日 近くで

2020年05月28日 | Weblog

気になっていた髪をやっとカットしてスッキリ。
ぶらぶら歩いて往復。

近くでもちょっと違うところを入ると目新しい。


今日も初めての道を歩いていると十一面観音さまを祀ったお堂があった。
どこを歩いても、お地蔵さまや小さな社などがあり、昔の人が残したものを今の人も受け継いでお祀りしておられる。

田んぼは田植の準備万端。


水路と水門 吉野川分水の通水は6月1日から始まるらしい。(9月20日まで)
田植が始まるのももうすぐだ。

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5月27日 もうひとつの子部神社(スガル神社)を探しに。

2020年05月27日 | Weblog

先日(5月20日)行った飯高町の「子部神社」 
近くにもう1つあるという同名の「子部神社(蜾蠃神社)以後スガル神社」を探しにウォーキング。

まっすぐ行けば大して時間はかからないので、遠回りで磐余神社あたりからのルートを想定。
一応地図を見ていったが・・迷った・・。そして、スガル神社 わかりにくい。

2つの団地(住宅地)の中をジグザグ・・


公園にアオギリがあった。
コース中、4つぐらい公園を通ったが、遊んでいる子供は皆無で静まり返っていた。

 
磐余橋近くを北へ。通ったことのない住宅地を歩いて・・岩神社 ここは知ってる。

そこから東北に向かって歩くが・・距離感がつかめなくてグルグル・・方向音痴を発揮?・・


やっと先日行った子部神社(東隣りに吉楽寺(瑞花院))
探す「スガル神社」はここからすぐ近くのはず。しばらくその辺を探索。

先ずは落ちつこう。子部神社の横の公園の滑り台の端に座って簡単お昼ご飯。

再び探索。このあたりに間違いないのに・・・ないなあ。

 
西に行ってみると小さいお堂が見えた。あれか?近づいたら地蔵堂。この前、ここ通ったなあ。違う。
       右)違う筋を西へ行くと突き当り。右手に小高い場所があるが、何もなさそう。
外に出ていた人に尋ねたが、ご存じないようだ。なんで?


歩いているうち、あれかも? でも入口はどこ? また集落をまわる。

 
集落の端。この土手のような道を行くと・・やっとあった。神社より説明板が目につく。

 
     こじんまりした拝殿          正面
 
  後ろに本殿の屋根が見えた。    境内には中ほどから伐られたクスノキの幹
手前にも 大きな切り株が2つあった。なぜ伐られたのか?


先日の子部神社には説明板らしいものは全くなかったが、ここは立派な説明板がある。

それによると、
・ここは「子部神社」俗に「小子部神社(ここべじんじゃ)」又は「スガル神社」土地の人は「軒の宮」とも呼び、少子部蜾蠃を氏神として祀る。「育児の神様」として崇められている。
・飯高町(ひだかちょう)は昔は飯豊郷(おふごう)と言ったが、飯武(おぶ)と書くようになり、後に飯高と書くようになった。
・飯豊郷(おふごう)すなわち多村は、多神社とも関係が深く、「新選氏録」には少子部宿禰は多朝臣と同祖であると書いてある。
・飯高・小槻(おうづく)は多村の一部で「子部の里」と言われる。
・延喜式神名帳には「子部神社2座」とあるが、多神宮注進状では子部神社と別にスガル神社1座とあることから、当神社は式内社ではないとの説もある。
・スガル神社の氏子は少子部蜾蠃の子孫とされている。
・スガル神社はスガルに育てられた人々がお祀りした神社ともいわれる。
など書いてある。詳細は実物を見てください。

社殿もこじんまりで、拝殿も新しそうだったが、境内に残されたクスノキの大木や切り株を見て昔をしのぶ。

もう一つの子部神社(スガル神社)を探せて目的は達成。
迷って歩き回った分、歩数計も稼げて、14000歩
帰りは最短コースでちょっと買い物もして帰る。

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5月25日 高田 住吉川 近辺 あまり成果なし ソクズ シャクチリソバ タチアオイ

2020年05月25日 | Weblog

葛城川沿いを歩くつもりで・・

 
曽我川緑地の西から橋を下る。
    右)西へ西へと行けば葛城川に出るはずだが、うまくいかない。

 
初めての道を上がると住吉川に出た。予想外。葛城川に出るつもりだったのに・・
住吉川は葛城川の支流らしい。
  右)長谷街道に出て、すぐに左へ下ってJR の下をくぐる。この右側は葛城川

そして、高田クリーンセンターに出た。いつも見ている焼却場の煙突がある。
国道に出た。

信号を渡って葛城川の右岸を南へ歩こう。・・と思ったが・・


右に木立の涼し気な道に入って歩くうちに、葛城川はどんどん遠くなっていく。
そして、思うような道がないままにコの字型に歩いて、国道のさっき入った所からわずかに東に寄ったところに出てしまった。
 
国道沿いの「住吉橋」の所を南に入る。
ちょっとあやしげなところもあるが、右に桜並木、その向こうに住吉川の細い流れに沿って南へ。

少し行くと左向こうにイオンモールが見えた。すぐに行けそうだがこのままではあまりなので、もう少し南まで行ってからイオンの方に歩く。トイレを兼ねて1つ予定の買い物をして、帰り道はいつも通る道。

 
   シャクチリソバ         ソクズ 葉先が黄色くウィルスに侵されているかも。

 
  イオンのそばでシモツケ 白       シモツケ ピンク

 
     ネズミモチ             タチアオイ

気温は高くなかったが、汗ばんだ。17000歩。
寄り道して見るところがあればいいのだが、あまり変化のないコースだった。

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5月24日 うちの庭 マルバストラム サラサウツギ ゼニアオイ ヒメヒオウギ タマサンゴ ゼラニウム

2020年05月24日 | Weblog

 
     マルバストラム       ゼラニウム 他に白とピンクも

 
   サラサウツギが満開           ヒメヒオウギ  


    ゼニアオイ

他、タマサンゴも満開 撮りにくい。

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5月23日 小杜神社 皇子神命神社 多神社 古代祭祀址 クワの実

2020年05月23日 | Weblog

買い物ついでに、車で、先日行きそびれて気になっている所へ寄ってもらった。

田原本の多神社の近く。

 
多神社から南へ入った西側にある皇子神命神社(みこのかみのみことじんじゃ) 
多神社の摂社らしい。社は小さいが境内の森は広い。
                  右)元は湿地だったかと思うような場所もあった。 


通りに面して新しい碑が建つ「古事記献上1300年記念 太安萬侶卿」

 
東に入った森の中に赤い鳥居と社。小杜神社(こもりじんじゃ)ここも多神社の摂社
           右)東に出たところに鳥居がある。こちらが正面のようだ。

東を見ると、黄金色の麦畑の向こうに小高くなっている所が何か所かある。
あれらも多神社に関係するものかもしれない。また次の機会に行ってみたい。

 
多神社(多坐弥志理都比古神社 おおにいますみしりつひこじんじゃ)
                          右)祭神は4座 
神倭磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと 神武天皇)・神八井耳命( かんやいみみのみこと 神武天皇皇子 多氏一族の祖神)・神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと 綏靖天皇 神八井耳命の弟)・姫御神(玉依姫  神八井耳命の祖母)(以上ネットから)神様の名はむつかしい~。 4神とともに古事記の偏さんをした太安萬侶を祀る。


マスコットキャラクター「まろちゃん」

息子が「社殿の後ろの森、木が高いだけじゃなしに地面が高くなってるような気がする」というので、森のなかへ。

 
       ナギ          アスパラガス?花が咲いていた。

 
     薄暗い森に入っていくが平地だ。「平らやねえ」


打ち捨てられたような説明板があった。所々土に埋もれて読めない部分があるが・・
どうやらここは古代多神社の祭祀跡「神武塚」と言われるところらしい。

 
社は後で建てられたものだろう。
説明文によると「我が国に仏教が伝来するまでの古代、(神?)道のまつりは(ひもろぎ・祭式)といって(斉場)場所に(さかき ひもろぎ)を立て、神の降臨を願い祀??・・・
古代史書に・・略・・
当多神社の縁起に「祭神 神武天皇御子 神八井耳命 ?? この地に降りて。天神地祇を祀る」とあり、この小さい丘も古代祭祀の場所であったと思われます。北側が円丘、南側がかすかに方丘の面影をとどめています。飛鳥川の清流で沐浴祓い(みそぎばらえ)をして、この清浄な場所においてよもすがらとりおこなわれたであろう古代祭祀の厳粛で素朴な姿を想像してください」・・と。


すぐ横に飛鳥川の流れ、昔はどんな流れだったのか、ここで禊ぎを行っていたのか・・想像してみる。
息子が言い出さなければ絶対入っていくこともなかっただろう森に入って、知らなかったことがまたわかって面白かった。


川のそばのクワの木、熟して落ちた実で地面は真っ黒。
高い枝を引き寄せてもらって、黒く熟した実を採った。
これ食べられるの?と言うので「昔の子供のおやつだったよ」こういうことは教えられる。
黒くても少し酸味のあるものもある。やわらかくなっているのは甘かった。
「2つ目は甘かったわ。でももういいわ」だって。結局私のお口の中へ。

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5月22日 飛鳥川左岸をお房観音までウォーク おふさ観音 大木 橋 

2020年05月22日 | Weblog

明け方、この間(5月11日)の続きを歩こうと思いついた。
(*5月11日は飛鳥川の左岸を北へ、田原本町の福祉センターあたりまで下り、旧の村の中を歩いて帰った)

今日は、5月11日と同じところを出発点とし、飛鳥川の左岸を上流へさかのぼることにした。
10時家を出発

  
家から歩いて飛鳥川へ。先日の同じ場所から反対向きに上流(南)へ。
              中)よく見れば、ネズミムギも花盛り。番茶も出花?
右)ゆったりとした大和中央自転車道はここで途切れ、ここからは車1台通る狭い道となり近鉄大阪線をくぐる。

  
こんなところに堰があったのか。知らなかった。
             中)向こうに見えるのは「高橋」古代の官道「横王寺」が通っている。
今日はたくさんの飛鳥川に架かる「橋」を見た。いつも何気なく通る橋にもみんな名前がついているのだ。
地黄橋・春日橋・高橋・蘇武橋・金鵄橋・神道橋・藤原京橋・・名のない橋もいくつか。
     右)左岸を直進。桜がたくさん植えられ花見の頃は提灯が吊るされ華やかになるところ。

今井町の入り口「蘇武橋」のたもとに出た。
中世末期に寺内町として成立、江戸時代は商業都市として「大和の金は今井に七分」と言われるほど繁栄。
重要伝統的建造物保存地区に指定されている。(伝統的建造物約500件)


「蘇武橋のエノキ」推定樹齢420年 今井町のシンボル的な木。
この付近は昔の「高市郡遊部郷」にあたる地域で、「蘇武」の地名は「あそぶ」が転訛したとの説もある(説明板)
また、「聖徳太子が斑鳩より蘇武の橋を渡り、八木の里を経て橘京へ通う」と書かれた書物もあるようだ。
付近は「今井蘇武橋公園」として整備され、東屋やトイレも設置されている。 

   
「蘇武の井」かつて、蘇武井からは良質の水が沸き、汲めども尽きず、日照りにも涸れることがなかったという。
聖徳太子もここで一休みして蘇武井で水を飲まれ、愛馬黒駒に水を与えられたと伝わるとか。
その頃の朝の水くみの厳しさを唄った歌もある。     
右)飛鳥川はカーブして東へ。近鉄橿原線をくぐり、国道24号線から東へと続く。

 
エノキの大木があった。(階段を下りて撮った) ここから細い地道の堤防になる。
いろいろ木や花が植えられている。ブドウやミカンやビワやモモなどの果樹も混じる。
物干し竿が有ったりもする。

  
   ホシミスジ モモイロヒルザキツキミソウにもぐりこんでいるのはコアオハナムグリ
右)斜面に一面オオキンケイギク 特定外来生物だが、ここまでくるときれいとしかいえない。

  
 地蔵堂や庚申さんが祀られていたり・・ 手入れされた地道は人も通らず、隠れスポット。

  
八幡神社 祓戸大神や神功皇后灯籠 南京陥落祈念の石標もあった。   
     右)クスノキの大木やセンダンの大木 センダンの花は比較的低い枝で見れた。 

センダンの下でお弁当を食べた。バナナとリンゴとグラノーラ2個の簡単昼食

ここからすぐにある橋は「神道橋」よく知っている橋だが、初めて名前を知った。ここは小房町。
神道橋を渡って下り少し右に入ると「おふさ観音」

 
おふさ観音 春はバラ 夏は風鈴 花の寺として有名 塀からこぼれ咲くバラ

  
   
     
境内はバラで埋め尽くされている。鉢植えで、季節が終われば移動されるそうだ。
日頃のお手入れも含め大変なお仕事。
例年なら人があふれていそうだが、参拝の人は数人。私にとっては良かったが・・
本堂裏手にある千手観音様(北向き観音様)は「ひとこと観音」ともいい、一言の願いをよく聞いてくださるとか。
ちゃんとお参りしてきましたよ。

ここから神道橋に戻ってもう少し左岸をさかのぼる。

 
神道橋たもとの大神灯籠から入り、赤い鳥居を進むと間もなく木立の中に「小北稲荷大明神」の小さな社。

  
その先に見える大木。近寄ってみるとエノキだった。
草むらの中の黒い穂、触ると黒い粉が落ちる。花粉なのか?黒穂病? 1本だけでなく他のもみな同じ。
何でしょうか?

しばらく行くと大きい橋「藤原京大橋」今日はここを渡って引き返すことにする。

小房町から八木へ通ったことのない道を選んで歩く。
試し履きの靴も足を圧迫して痛くなっている。ちょっと疲れてきた。

 
JR畝傍駅も過ぎた北八木のあたり「国分寺これより東・・」の道標あり。
  右)国分寺 思ったよりこじんまりしたお寺だった。本堂も新しい。2003年火事があったらしい。

 
すぐ前にあったお寺「金臺寺(こんたいじ)」本堂の大きい屋根は江戸時代のものらしい。
                   右)ソテツ 雄株

横大路に出た。八木駅もすぐだ。電車に乗りたいところ、まだ電車は自粛中・・
頑張って家まで歩こう。 通り道にあった「内膳大師」へも立ち寄り家に向かう。

平地ばかりの5時間ウォーク ちょっと”お疲れ” 靴は慣れないし。 

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5月20日 曽我川~高田~広陵町散歩 百済寺・子部神社・瑞花院

2020年05月20日 | Weblog

思いついて、前に家族でも歩いた広陵町百済寺を目指す。
思いつくまま、大体方角はわかるので、右へ左へと・・
もしたどりつけなくてもウォーキングにはなるので、その間で何か見れればラッキーぐらいに思って。
帰り道に遠回りになって余分に歩いたりしたが、私にしては上出来のコースだった。
4時間ほど歩いたが、試し履きのスニーカーはちょっときつかった。

 
曽我川緑地公園から下って近鉄の下をくぐれば、大和高田市。 曽我川下流を見る。

 
    カキノキ 雌花       これはマメガキ? 小さいが雌花だった。


おいしそうに色づいているビワ    
           右)良い香りを振りまいていたミカンも花弁が落ちてミカンの赤ちゃんが見える。  

遠くで工事中らしい曽我川堤防を行ってみる。
もし、叱られたら、謝って戻ることにしよう。でもかなりの距離。
いづれは向こうに抜けられるようになるのかな?

 
ナヨクサフジはまだまだきれいだ。モンシロチョウが吸蜜に。
                右)早くに咲いたものは薄っぺらい鞘ができていた。
セイヨウカラシナはすっかり実になって、中の種子は茶色くなっていた。
この種をつぶして作った辛子粉、去年もらったものがもう少し残っている。

見るものの少ない堤防はウォーキングに最適??
幸い、工事場所の手前に下りる道があった。

 
まもなく田植えの時期を迎える田んぼ。 稲苗の詰まった育苗箱が並んでいる所もあった。

 
真西に二上山 周りは田園地帯だ。 黄金色に実った麦畑もあった。
裏作の麦を刈り取った後は稲を植えるのかな?
               右)ウサギアオイ(と思っている)がところどころに花を咲かせている。
珍しくはないが、うちの近くでは見ない。

百済の集落

 
 旧家のお庭にブラシノキが満開  道端にはオオキンケイギクが群生していた。

百済寺に到着。
 
百済寺の鳥居・・これは春日若宮神社の鳥居だった。百済寺はこの境内にある。
              右)三重塔 鎌倉時代中期の様式で重要文化財に指定されている。
寺の創建時期などは不明だが、熊凝精舎を引き継いだ「百済大寺」の故地と言われている。
前に、桜井の吉備池廃寺が百済大寺の可能性が高いということも聞いたことがある。
 でも、そんなことは忘れさせる。堂々とした姿。

 
たくさんの境内社が並ぶ(肝心の春日若宮神社が写ってない)
                 右)山部赤人の万葉歌碑 梵字「バン」の形の梵字池もある。

鳥居のそばに開花中のセンダン 残念ながら高くて花を間近で見ることはできない。

ここから戻り。

集落のはずれの家と家の間にある空き地の隅に自然石の石碑。何だろうと近寄ってみる。
「当村伝道起源 明治18年・教会堂建築 明治30年・牧師館建築 明治32年」と書いてあった。
明治の頃、ここにもキリスト教の布教の波がやってきたんだな。
こんな何でもないものを見つけるのも楽しみ。

 
広い広い田園 大和の国中と言われる平地  田んぼの横の小さい水路にメダカがいた。シジミの殻も。

行けるかと思った道はコの字型になっていて振り出しの位置に戻る。

うまい具合に子部神社に出た。何回か来たことはあるがもう1回行きたいと思っていた。

 
    子部神社 拝殿      本殿 主祭神は小子部命(ちいさこべのみこと)
日本書紀に、雄略天皇に「蚕」を集めるよう命ぜられたのを”音の同じ”「子」を集めて来たスガル。
天皇はスガルに「子」の養育をさせ「小子部の連」の姓を与えられたことが記されている。


そばに橿原市飯高町児童公園がある。スガルが集めてきた「子」もこのあたりで遊んだのかなあ。


子部神社に隣接して瑞花院(ずいけいん)がある。裏手から見る本堂の大屋根
本堂は棟木の銘から、室町時代中期の上棟年月がわかっている。
橿原市に現存する「最古の仏堂建築」とのことで、重要文化財に指定されている。
寛文5年の修理の際に戯画や落書き?のある瓦が見つかっている。
もうだいぶ前だが、その瓦も見せていただいたことがある。

今日は表の通りには行かなかったが、通りの角に石標が建つ。


側面には瓦に刻まれていた文が書いてある。
「嘉吉元年五月一日 サルノトキニ  トクリホトナルアラリフリナリ ヒツシサルヨリ ウシノハウエ フリイクナリ」 瓦師が「どんぐり大のヒョウが降った」というその頃に起こった出来事を刻んだ落書き(落彫り?)。

お陰で、その頃の出来事がわかる立派な?落書きだ。

ここからは迷わず帰れた。

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5月17日 掖上周辺 クサイチゴ ひよこ豆 ハカタカラクサの仲間

2020年05月17日 | Weblog

午後から掖上周辺を歩く。

 
「國見公会堂」旧字体で右から左へ書かれている。 説明板もないけれど、ちょっとノスタルジックな建物。
         右)屋根棟の端の瓦には「國見」の字。その下には「亀?」の瓦

お寺の多い所だ。通りかかった神社やお寺はいつも覗いてみる。


楽音寺さん。ちょうどご住職さんがおられて本堂に招き入れてくださった。
ご本尊薬師如来にお参り。

 
   立派な妻飾りの屋根        大きいむくり屋根   大きいお家が多い。

 
自家用なのか?畑にオオムギがひと畝とコムギが2畝 小麦はそろそろ収穫時期か?
子供の頃は家でもムギもコムギも作っていた。
モミを取り除いたコムギはくちゃくちゃ噛んでいるとガムになった。コムギ餅にも使っていたなあ。

 
鳥居を国見神社へ登る。 境内で久~しぶりの知人にあった。お掃除のご奉仕中だった。
神社は国見山の山麓に建つ。主祭神は瓊瓊杵尊
日本書紀に橿原の地で即位された神武天皇が国見をされ「なんと良い国を得たものだ」と言われた「腋上の嗛間(ほほまの丘)は、国見山だと言われる。
国見山は何度か登っているので、今日は別ルートへ。

 
少し下った山すその道を歩く。木蔭で気持ちの良い道だ。峠に出るとさわやかな風が吹き抜けた。

里の道に出る。

 
気づかず通り過ぎそうだったが、説明板があり、掖上鑵子塚古墳(かんすづかこふん)と知る。
前方後円墳 墳長150m 前方部の短い前方後円墳らしい。
田んぼに周濠の跡をとどめる。  

 
道路横の草むらに完熟クサイチゴ。おいしい。甘い。満開のモチツツジも見逃しそう。

 
大型で緑色のタイプ(ミドリハカタカラクサ?) 
     右)小型で茎は紫、葉裏も紫がかったタイプ(ノハカタカラクサ トキワツユクサ?)
広義にはどちらもノハカタカラクサ(トキワツユクサ)でいいらしいが、だいぶ印象が違った。

満願寺霊園から山に登る。

 
途中で右に登ったところに、考安天皇社 らしい(表示なし)
             右)さらに右へ少し登ったところに金毘羅神社があった。

 
足元に花びら。見上げると高いところにエゴノキが咲いていた。
                   右)登ってきたところと反対側へ下る。

 
分岐を左へ、苔の生えた石畳を登っていくと・・考安天皇玉手丘上陵
考安天皇は6代目、欠史8代の一人とされている。

 
金剛山 葛城山がよく見える。石畳の道を麓まで降りる。
          右)石畳の階段の端に段を埋めるように石が組んである。
作業用の1輪車のため? 初めから作られていたのか?途中で付けられたものか? 目的は?

集落に入って畑に見慣れぬマメ科 つるではない。

 
わあ。何やこれは!(こういう瞬間が一番好き)小さい白い豆の花がポツポツと。
 右)よく見ると、鞘ができていた。可愛い!ぷっくりと膨らんだ小さい豆(この中に1~2個の豆ができるらしい)
押すとパチンと音がしそうな、風船みたいな・・写真は撮りにくい・・
隣の畑のおじさんが「ひよこ豆」と教えてくださった。初めて植えてみられたとか。
へえ~~これがあのひよこ豆。料理の中の豆は食べたことがあるが、植えてあるのは初めて見た。

帰ってから、育て方とかを調べてみた(植えもしないのに)
やっぱり、育てるのはむつかしいらしい。
乾燥した冷涼な気候を好むらしく、日本の高温多湿は栽培には最も適さないと書いてあった。
北海道で栽培されている方もなかなか収量は安定しないようだ。
それに、乾燥しても自然にはじけないので、脱穀には手間がかかるらしい。

あの畑のひよこちゃん、うまく育つかなあ。
豆の若い時に枝豆のようにして食べられるらしいので、それでもいいよね。・・と食べる心配などして・・

この後、八幡神社などに寄り、駐車場所へ戻る。

コメント (2)
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