神社の境内
シダレウメ 咲きかけ
白梅 満開 赤いガク
白梅 これは緑色のガク 雌しべは見えず。
ウメは雄性両全性同株とも聞く。
紅梅 雌しべが2本見える花。
ソシンロウバイは満開
雌性先熟 下の花は雌期 上の花は雄期で花粉を出していた。
ソシンロウバイの冬芽 2つ並んだ仮頂芽 かわいい。
いつも花ばかりに目がいき、冬芽を見たのは初めてだ。
内側の花被片の赤い ロウバイ
ロウバイ 花弁がたくさん散っていた。
サンシュユ まもなく開花
モクレンも毛皮のコートを脱ぎたそう。
寒がりの私。暖かい春が待たれる。
2月は早くも最終日。
2月は逃げてゆく。そして、春は行きつ戻りつ・三寒四温
今日は快晴で曇りない青空。日差しが暖かい。
下見でコース確認のために歩いた。
・・なのに、熱心に?見過ぎて時間超過。
でも何とか行けそうで良かった。
だいぶ先の本番で見られそうにないものを記す。
石舞台公園の紅梅 白梅
遠くに見えるセンダンの木の枝先が赤い。??もう芽出し?
後で近づいてみると、赤く見えたのは、実の落ちた果柄だった。
アオキ 雄花のつぼみ(花序)が覘いている。
虫こぶらしい赤と緑のグラデーションの果実もあった。
葉を掻き分けるとジャノヒゲのコバルト色の実が出てきた。
果皮は早くに落ちて種子がむき出しで成長する。
これは種子だ。
コバルト色の種皮を取り去ると、半透明の胚乳が出てくる。
休憩の時に、石のベンチに落として遊んでみた。
スーパーボールのようによく弾んだ。
ハイキングの会に直前申し込んで参加。
今日は一気に春が来たような陽気。さわやかな青空でした。
畝傍御陵前駅から香久山を目指す。
本薬師寺跡
持統天皇の病気平癒を祈願して天武天皇が建立に着手された。
完成を見ずに天皇が崩御され、持統天皇が意思を引き継いで完成。
平城遷都に伴って西ノ京へ移築され、ここは元薬師寺と言われる。
(そのまま移設されたのではないとの説もあるらしい)
今まで気が付かなかったが、今ある建物は「白鳳山 医王院」という額がかかっている。
「白鳳山 医王院」の境内に 本薬師寺の金堂の礎石が残る。
・・といえばいいのかな?
東塔跡 心礎 立派な塔だと分かる大きさ。
西塔跡も残っている。
上飛騨町? 岡の麓の鳥居 神社名は書いていない。
近くの道端にあった石。「イナイツカ神社」と読めたので、この神社名かと思ったが、調べても出てこず、地図にあった「八幡神社」がこの神社名なのか?
「イナイツカ神社」って何だろう?
紀寺跡
平城京の紀寺の前身なのか?
紀寺跡から見た香久山
香久山は多武峰、音羽山と続く龍門山塊の一部。
尾根の先端部だが、ここからは独立峰のようなきれいな円錐形に見えた。
法然寺近くのお家の庭先で
満開のソシンロウバイ 紅梅
天岩戸神社 天照大神を祀る。
拝殿のみで、神殿はなく、岩戸隠れの場所といわれる巨石の岩穴をご神体とする。
毎年7本ずつ生え変わるという「7本竹」の伝説もある。
香久山へ。
ここから登るのは初めて。
香久山頂上(152m)に建つ「国常立神社」と境内社 「高龗神社」(竜神)
途中にあった「下の御前 伊弉冊(イザナミ)神社」、そしてもう少し上にあるという「上の御前 伊弉諾(イザナギ)神社」は末社だそうだ。
香久山は「天から降ってきた」という伝承があり、「天」を付けて「天の香久山」と言われる。
万葉集で「天」の美称がつく山は 香久山 だけだそうだ。
下って、万葉の森へ。
梢に白い花?と見えたのはスダジイの葉裏だった。
右、ダイオウショウ 3葉の長い落ち葉があたり一面に散り敷いていた。
先日見ごろだったマンサクは咲ききっていた。
ユリノキやツガなどの木や、万葉歌碑などを見ながら、古池へ。
水が抜かれた 古池
山を抜け、ぐるりと回りこんで・・・
天香山神社(天香山坐櫛真命神社)
御祭神は櫛真命 占いの神
「 波波迦の木(ウワミズザクラ)」
古代より「太占」に使用され、平成・令和の大嘗祭にも、斎田を決める「亀卜」に、この木を献進されたという。
舒明天皇の「国見の歌碑」(やまとにはむらやまあれどとりよろふ・・)」を見て下る。
麓には昔、埴安の池という大きい池があったという。
畝尾都多本神社
哭沢の神社(もり)ともいう。
祭神、哭澤女神は、イザナミの命が火の神 迦具土神を産んで亡くなったのをイザナギの命が悲しんで泣いた涙から生まれた女神だという。
玉垣で囲んだ空井戸をご神体とする。
香久山のあたりはどっぷり神話の世界だ。
藤原宮跡へ。
木立のあたりが藤原宮大極殿跡 そばへ行ってみる。
玉垣があった。
右の石柱には「鴨公神社」、左の石柱は「大禮記念」と読めた。今日初めて気づいた。
「鴨公神社」って何だ? ネットで調べると、ちゃんと出てきた。
「かつて藤原宮の大極殿跡に鎮座したとされる社・・・高殿村にあり、今、大宮と称す。またの名を 鴨公森」との記述があった。へえ~~。
その後、醍醐池の横から耳成へ。
耳成 古池の歌碑を見て、1次解散となる。
ここで帰るつもりだったが、行こうよと誘われ、それじゃあ登ろうか~。
耳成山口神社の参道を登る。
いつも登る楽な道に比べれば距離が短い分、急だ。
耳成山口神社 高皇産霊大神 大山祇大神を祀る。
子連れ狛犬があった。
もうひと登りして・・
三等三角点だ。139,7m
耳成山は畝傍山・香久山と共に、大和三山の1つ。
畝傍山と耳成山は元死火山 浸食や陥没などを経て現在の形になった。どちらも独立峰。
「香久山は畝火ををしと耳成と相争ひき ・・・」の妻争いと言われる中大兄皇子の歌も残っている。
下って、耳成井へ降りてきた。
耳成井(大師井戸)平安時代に空海によって掘られたという。
手前の井戸の蓋を開けるときれいな水が湧いていた。
ここから歩いて八木駅で解散。24312歩 最近では一番歩いた。
ちょっときつかったが、いつもなぜか筋肉痛にはならない。
何度も行っているし、何度も書いているので、だいぶ端折って書いた。
何度も行っている、とはいえ、いくつかの発見もあったので良かった。
天武天皇8年(679)
今日もいろいろと勉強しましたが・・むつかしい。
興味のあった所だけ自己流で・・
前回出てきた「大殿」について、注によると、内裏の正殿で、後の紫宸殿に相当するものか」と。
京都御所では南庭に続く橘・桜のある建物 紫宸殿がそれにあたるようだ。
飛鳥京では?遺構の南のあたり?エビノコ郭ではないような・・
よく理解できなかった。
6月1日「氷ふれり」氷は雹(ヒョウ)のようだ。
「大きさ桃子(もものみ)のごとし」 なんとデカい。
「雹」で思い出すのは、橿原市にある瑞花院(元 吉楽寺)の瓦の刻銘
吉楽寺は棟木銘より1443年上棟がはっきりしている。
刻銘は、建設中に瓦職人によって刻まれたもの。
落書きではあるが出来事がわかる貴重なものだ。
2005年に1度だけ機会があって、瓦を見せてもらったことがある。
瓦の刻銘「嘉吉元年5月1日 サルノトキニトクリホトナルアラリフルナリ
ヒツシサルヨリウシノハウヘフリイクナリ」
(1441年5月1日 15時~17時頃 徳利ほどの雹が降った 西南より北北東の方へ降り進んで行った)
現在でも、雹による農作物の被害などのニュースを聞くこともあるが、昔の記録にも残っているのは興味深い。
10月と11月に地震の記録もあり。
8月1日 詔して高官達におっしゃる「女人(おみな)を貢れ」と。
女人とは13歳~30歳ぐらいの女性らしい。容姿も教養も求められたのだろう。
8月11日 また、「乗馬の外に更細馬(またよきうま)を準備しておくように」と詔。
次々と要望がだされる。
かと思えば・・
10月2日 「この頃巷に悪事を働くものが増えていると聞く。それはお前たち高官の責任である。悪事を働くものがいると聞いても手を打たず、見ぬふりをしているからだ。すぐに正せば乱暴や悪事を働くものはいなくなるだろう。」
「これからは上のものは下のものを指導し、下の者は上のものを諫めて職務を務めれば、国は自然と良くなるだろう」と正当なお言葉。
また、10月「僧尼は常に寺で仏道を守るべきであるが、年老いたり、病気になったものが、僧房で暮らすのは大変だろうから、別に建物を建ててそこで暮らし、養生し薬も服用するようにせよ」と慈悲深いお言葉。
貢物も多い。
10月17日、新羅より遣いが来て、金・銀・鉄・鼎(カナエ 三本足の鉄の釜 )・錦・絹・布・皮の他、馬・狗(小型犬)・騾(ラバ)・駱駝(ラクダ)などを献上。
ラクダやラバにはびっくり。それらはどうされたのだろうか?
8月22日、国内からも「嘉禾(よきいね)」が献上された。
「畝異にして穎(かび)同じ」「嘉禾(よきいね)」とは・・
思うに、粒が揃った品質の米のことか?
この献上に関連して、12月死罪以下の罪人がすべて許された。
11月23日、初めて竜田山・大坂山に関所を置き、難波に城壁を築いた。
もう一人の講師の方からは、特別史跡のお話を聞いた。
風も冷たく、小雪ちらつく寒い日。
昆虫館のあたりから歩く。
本番があるので、簡単に。
今日一番の見どころは・・
満開のマンサク
細いリボンが可憐 ガクの濃い赤で引き締まってますね。
リボンのような花弁が解けていく様子は、まるでおもちゃの「吹き戻し」のよう。
本番にはまだ見られるでしょうか?
仮雄しべを確認したい。
冬芽 「オニグルミ」って言ったけど・・
畑地の端に、3本並べて植えてあることを思うと、テウチグルミ(カシグルミ)かも?と、帰ってから思った。
冬芽の違いはわからない。
本番の日にはもう少し気温も緩んで、ツバキやウメも咲いているかな?
今日の例会は集合場所も近く、散歩コースのようなところ。
とはいえ、深く知らないで歩いているので、いろいろ教えてもらえるのは楽しみだ。
①宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)(曽我町)
祭神は宗我都比古大神と宗我都比宗我都比売大神
蘇我氏一族につながる神社
蘇我馬子が社殿を造営して始祖夫妻をお祀りした。また、石川宿禰・竹内宿禰を祀る と記すものもある。
延喜式神名帳「宗我都比古神社2座」に比定されている由緒ある神社だ。
以前は境内には木が茂って蒼然としていたが、台風でずいぶんさみしくなった。
明るくなった境内には花木が植えられ、それはそれで楽しみである。
今はロウバイが満開だ。
拝殿前の擬田 稲に見立てた松葉 お田植え祭はもう終わったのか?
案内会員のお1人から、千葉にも「蘇我」という地があり「蘇我ヒメ神社」があり、蘇我大臣の娘を蘇我氏の祖として祭神としている。・・など、千葉と大和蘇我のつながりを思わせるようなお話も聞いた。
別に、ネットで、小田原市にも曽我神社があり、祭神は宗我都比古神社から分霊し祀った。の記事もあった。
拝殿・本殿・稲荷神社など境内社あり。
地名「真菅」の由来となる万葉歌碑も建てられている。
「真菅よし曽我の川原になく千鳥 間なく我が背子 吾が恋ふらくは」作者不詳
②曽我川
先の万葉歌にも出てきた曽我川が近くを流れる。
県内の川は、条里制が敷かれるまでは水の流れに任せて曲がりくねっていた。
条里制以後は南北の道路に合わせ、南から北へと流路を付け替えられていった。
上流で高取川が流入し、水かさが増し、この辺りは水漬きやすいそうだ。
私が知っている被害は、30年ほど前?台風と秋雨前線の影響で、曲川大橋から上流あたりで、西側へ水があふれた。
その後、洪水調整のため、曲川大橋下流の川の蛇行を直線化し、蛇行跡を曽我川緑地公園とし、川の水量が増えた場合、越流堤を超えて水が流れ込む 遊水地ができた。(2002年?)
普段は公園・運動場・体育館として使用。
左の切れ込みが「越流提」
2020年10月、大雨で曽我川が増水し、多量の水が初めて遊水池に流れ込んだ。(数日後に撮った池のような写真がある)
しばらくの間公園は使用不可となったが、遊水地が役に立った出来事だった。
少し上流の水中にある「堰」のことは知らなかった。よく歩いているのに気が付いていなかった。
③曽我遺跡(曽我町)
今、橿原バイパスのそばで、京奈和自動車道の工事が進められている。
以前、橿原バイパスの建設に伴う発掘調査で、大規模な玉造遺跡が見つかり、日本列島各地から集積された琥珀・翡翠・碧玉・水晶・・などが大量に出土。
ここで、管玉や勾玉・・など様々な製品に加工されていたらしい。
鉄の錐や砥石など加工道具も出土。
5世紀の玉作り工房としては日本列島では質・量ともに最大規模という。
曽我周辺は古代から人が住んでいたところなのだ。
このあたり、これからの道路工事でどのように変わるのか・・
いつも観察しているウマノスズクサ自生地も消えそうな・・ジャコウアゲハはどこへ? いつもドキドキしながら工事の行方を見ている。
④天高市神社(あめのたけちじんじゃ)(曽我町)
祭神は事代主・品陀別命(応神天皇)・息長帯姫(神功皇后)・比売神の4柱。
遅くとも貞観元年(859)以前に存在した神社。
式内大社に比定される格式高い神社
日本書紀によると「天照大神がお隠れになった時、全国の神々がこの地にお集まり相談された」という伝承地の1つ。
夏越の大祓などの行事もされるらしい。また来てみよう。
⑤多賀氏陣屋跡(曽我町)
今は曽我地区公民館と陣屋会館が建つこの場所は、江戸時代の初め、旗本多賀氏が、2000石を拝領して、陣屋を構えていたところ。
陣屋の周りは薮と掘を巡らしてあったらしい。
今から50年ぐらい前までは、この辺りは「陣屋の薮」とよばれる薮が残っていたらしい。
今は説明板があるだけで陣屋の面影はない。
⑥首落橋・オッタ屋 (曽我町)
横大路に出る。昔は道幅20mもあったらしい大道。
難波から飛鳥へ、賓客や文化を運び、江戸時代にはおかげ参りで栄えた伊勢街道として大勢の旅人が通った街道。
大きい太神宮灯籠が建っている。
かつての大道は今では車の行き違いも精いっぱいの狭い道路だ。
乙巳の変(645)で、蘇我入鹿は飛鳥板葺宮で中臣鎌足らに暗殺された。
それにまつわる蘇我入鹿の首伝説の1か所。
この辺りに昔あった「首落橋」(今はない)の近くの家に蘇我入鹿の首が落ちてきた。
その家を「オッタ屋」と言った。
⑦入鹿神社と大日堂 (小綱町)
昔、この辺りは蘇我一族の領地で、蘇我入鹿の母が身を寄せた家があって入鹿はそこで育てられたとも言われている。
文化財保存会の会長さんが説明してくださった。
*入鹿神社
入鹿神社は、今は廃寺となっている普賢寺の鎮守社であったと伝えられる。
祭神は蘇我入鹿と素戔嗚尊
全国で唯一「曽我入鹿公」をお祀りする神社
日本書記では蘇我氏は大逆臣。でも小綱町の人たちは「入鹿公」と敬愛する。
明治22年?橿原神宮の造営にあたり「神武天皇を祀る橿原神宮の近くに逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪い」と祭神を素戔嗚尊にし、社名も改めるように政府から言われたのを、地元住民は拒んだという。(拍手)
素戔嗚尊も祀っていたので許されたそうだ。
入鹿にまつわる伝説。
・入鹿は鶏鳴を合図に首を刎ねられたので昔から小綱町では鶏を飼わなかった。
・小綱町で生まれたものは入鹿を暗殺した中臣鎌足を祀る多武峰とは縁組をしない。また、多武峰へ参ると腹痛を起こすと参拝しなかった。
・鎌足の母の出生地の小原と小綱は縁組をしない。
・・など多くの伝説があるそうだ。
入鹿の首落ち伝説では
・飛鳥寺近くの「入鹿の首塚」
・明日香村「もうこの森」(入鹿の首に追われた鎌足がここまで逃げれば「もうこんだろう」といったとか・・)
・先に書いた「首落ち橋 オッタ屋」
・桜井市談山神社 絵巻が残る。
・さらに、三重県飯高町舟戸 首塚と呼ばれる五輪塔がある。・・・など。
入鹿神社に首が飛んできたという言い伝えはないそうだ。
極悪人と言われてきた蘇我氏。最近ではその功績を見直されつつある。
蘇我氏こそ改革者だったなどという人も。
「今までの濡れ衣 どうしてくれるの・・」と思っているかな?
入鹿神社拝殿 千鳥破風の棟に「龍の瓦」どういう意味があるの?
入鹿神社本殿 朱塗り 檜皮葺の立派な社
江戸時代の建物で、昭和61年に解体修理も行われた。
鳥居は珍しい西向き。
蘇我氏の始祖の地、蘇我(曽我)に向いて立っているとか。
*正蓮寺大日堂
正蓮寺大日堂 入鹿神社と同じ境内に建つ。
廃寺普賢寺の本堂だったらしい。
創建年代は不明だが、再建年代(文明10年)が書かれた棟札が2枚ある。
明治の廃仏毀釈により普賢寺は廃絶。
大日堂は競売に出されたそうだ。
それを、地元住民がお金を出し合って金13円50銭で落札。
隣接する正蓮寺の名を借りて正蓮寺大日堂とし、地元自治会が管理している。
保護活動と、情報発信は小綱町文化財保護会が担当。
宗教行事はされない。
大日堂(室町時代)と、本尊 大日如来坐像(鎌倉時代)は共に重要文化財
橿原市内で重要文化財の仏像はここと、国分寺の十一面観音立像の2体だけだという。
本尊大日如来坐像は一昨年金箔の剥落止めやほこりの除去などをおこなわれ、きれいなお姿になった。
去年できなかった修復記念式典が5月に行われるそうだ。
入鹿神社・正蓮寺 地元愛あふれる社寺だった。
⑧最後に 柿本人麻呂神社 (地黄町)
新庄町の柿本神社から分祀された。
柿本人麻呂を祀る。
本殿は棟札4枚(康永4年の墨書あり)と共に重文に指定されている。
八木駅へ向かう会員と分かれ、もう一人の方と西へ帰る。
曽我周辺、素晴らしいところだと改めて思った。
そして、又行ってみたいところもできた。
いろいろ調べている中で、わからなかった橋の名がわかったり、地蔵さんの行方がわかったり・・おまけもあった。
しっかり案内していただいてありがたかった。
コロナ拡大が続き、自由に野外観察会もしにくいこの頃。
午後から昆虫部会の講演会がリモートで行われ、今日は家にいたので参加できた。
講師先生は高校の先生。
生徒に初虫体験を聞くと、幼い頃にはセミを捕まえた。アリに餌をやった・・などの体験を持つが、大きくなってくると、もちろん虫好きな子はいるが、だんだんと虫が苦手になって、虫を触れない。写真も見られない子が出てくるという。
昆虫を扱う授業にはご苦労があるようだ。
今日面白かったのは(たぶん生徒による)「書籍の中から昆虫採集」を試みられたこと。
主に児童書から「虫を採集」
虫がたくさん出てくる本は何か? 何目の虫がよく出てくるか?
などを調べられた。
ドリトル先生のシリーズは出現が多いよう。
チョウ目・ハチ目・ハエ目・甲虫目などが多い。
3大益虫と言われるのはミツバチ(蜂蜜)・カイコ(生糸)・カイガラムシ(ラックカイガラムシから赤色染料)
昔は、カミキリムシやタマムシなど、木に住む昆虫の幼虫を食べる習慣があった。
時代と共に、20世紀前半以降は記述がなくなる?ノミ(ノミ目)・シラミ(咀顎目=そがもく=カジリムシ目ともいうらしい)
虫が苦手といえば、友達にも「虫の写真は載せないで」と言われたり、「虫はいいわ(いらん)」と言われることも。
あんまり気持ちの良くないものは断り書きをかいたりするが、だんだん慣れてきたかな?
私は虫に詳しいわけではないが、教えてもらったりしてよく見ると、きれいだったり不思議だったり興味がわく。
本の中の植物の記述を探してみるのも面白いだろうな。(根気がないが)
前に植物好きでもない友達と歩いている時「ハリーポッターに出てくる魔法の杖だよ」とニワトコを紹介したら、すごく興味を持たれたことがあった。
興味は人それぞれだ。
今の季節に咲く「さきくさ」の歌
「さきくさ」はジンチョウゲ科のミツマタのこと。3つに分かれた枝が特徴 早春に咲く。
①「春されば まづ三枝の幸くあらば 後にも逢はむ な恋ひそ我妹」柿本人麻呂
「さきくさ」が詠まれたもう一つの歌も紹介された。
②銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも。と、子を思う歌を詠んでいる山上憶良の長歌にも「さきくさ」が詠み込まれていると紹介された。
「古日」という男の子を亡くした時の悲しみを詠んだ長歌
朝に夕に一時もそばを離れず一緒に過ごし遊び、夜になると「一緒に寝ようよと手を引っ張りにきて、お父さんとお母さんの間に(さきくさのように川の字で)寝たい」と可愛いことをいう。
成長を楽しみにしていたが、突然病気になり、なすすべもなく天の神、地の神に祈るばかり。
だが日に日に衰えて、ついに命が絶えてしまう。
地団駄踏んで泣き叫び、胸うち叩いて嘆き、悲しみのあまり、亡骸を落としてしまうほどの嘆き。
歌を読んでいるこちらも胸が痛くなる。
反歌
「子供はまだ若いので旅の仕方も知らない。贈り物をするので黄泉の死者よ背負って行ってください」
「布施をささげてお願いするので、迷うことのないように、どうぞまっすぐに天国への道へ連れて行ってください。天への道を教えてやってください」
親に共通の思い。
*「我が子古日」と歌われているが、七十を超えた憶良の子にしては年少にすぎる。幼児を失った知人になりきって詠んだのであろう。というネット記事もあった。
藤原宮の歌。
①藤原宮を作る時に集められた役民が作る歌として、朝廷を讃える長歌
その中には、藤原宮を作るために近江の田上山(たなかみやま)から切り出した檜材を宇治川に流し、それを引き上げるために役民は鴨のように水に入って働く様子も詠われている。
材は巨椋池で筏に組まれ、木津川~~藤原の地へと運ばれたらしい。
②つ目の歌も、最初の部分は同じ言葉。こちらは完成した藤原宮を讃える歌のようだ。
大和三山の中央に位置し、藤井の井泉があり、元は「藤井が原」と呼ばれていた地。
短歌「藤原の 大宮仕へ 生れつくや 娘子がともは ともろしきかも」
藤原宮に仕えるために生まれついた釆女たちをうらやむ歌。都ほめの歌。
作者は未詳となっているが、柿本人麻呂ではないかとも言われているそうだ。
今日は休養日。
ゆっくりしようと思っていたが、昨日息子が「いる方はどうぞ。と書いてあった」と持ち帰ったカリンの始末をせねば・・
カリンは子房下位で偽果
先端にはガク片やしべの名残がついている。
2つ割りにして、きれいなのを選んだ。(これは✕ですね)
果芯の部分が子房由来 子房は5室に分かれている(左のように4室のもあり)
なんぼほどたくさんの種をつけるのか? ぎっしり詰まった種
きれいなのを選んだ後、細かく切り・・
種に薬用効果があるらしいが、取り除いて、皮のまま圧力鍋で煮た。
その後、ミキサーにかけて鍋に戻し、砂糖を加えて煮詰める。
大きいジャム瓶1杯できた。
少し渋味 口触りザラザラ・・絞り汁を濾して作れば滑らかになるだろうが・・
手間を省いたのでしかたないか。上出来とは言えない。
少し癖があるので家族は食べない。
私の朝のヨーグルトのお供にする。
昨日と重なる部分はあるが・・今日は健脚ぞろいの仲間入り?
裏道が多くて「列が長くなると道がわからなくなる」というので、ちょっと緊張。
同じ市内なので、どうにかなるか・・と心の中で思いつつ・・
行ったことのないところもいくつかあった。
牟佐坐神社の下にこんな歌碑があったとは知らなかった。
・・というのも、ここから南の方へ歩いたことがなかった。(いつも橿原方面へ歩く)
この歌は柿本人麿が妻を亡くした時の長歌だそうだ。
歌とはいえ、妻を思う人麿の気持ちが胸に沁みる。
「柿本人麿は火の神さんって知ってますか」え~知らない。
「火気の元 火止まる」え~っ。またまた冗談を。
「ほんまやで」あははは・・これだけ覚えたわ。
・・帰ってどこまでほんとなのか調べた(笑)
すると「火の用心」の札に、柿本人麿の絵、その横に「火気の元 火止まる」と書いた札を出しているところがあるじゃないか。へ~~。
ダジャレに乗せられたかと思ったが、そんなところもあるのか~。
しばらく行って、山への長い階段を登る。
中大兄皇子の三山の歌。こんな所にも三山の歌碑があったのか~。
「香久山は畝火ををしと耳成と・・」
額田王を巡って、中大兄皇子と大海人皇子 兄弟による妻争いの歌といわれるが、
これには他にも説があるという。
沼山古墳 ここも来たことがない。
石室を覗く。片袖式の石室。
玄室は正方形で、天井はドーム式の石積みになっているらしい。
副葬品も出土しており、渡来系氏族の墓?とのこと。
山を下って・・
また山への階段 そこから山道・・
益田岩船に到着 花崗岩の巨大石造物
この上部には大きい四角い孔が2つ開いている。
横口式石槨を作りかけて放棄したものとか、占星台、他、諸説あるが、誰が何のために造ったかわかっていない謎の巨石。
以前2回ほど、機会があって石の上に上ったことがあるが、今は「登らないでください」の立て札が・・
下部の切り込みは成形跡らしい。
山を越えて山あいの田んぼに降りた。ほっ。
紅梅が満開だ。
山裾から少し登ったところにあった「梵字阿弥陀如来碑」
新しそうな説明板によると、これは北越智村と西隣の村との境に、江戸時代以前からあったらしく、昔はここに1本松が生えていたそうな。
ここも知らなかった。
長法寺?山門
長法寺? 右手前の石灯籠は鎌倉時代後期のもので「重要美術品」とのこと。
境内はボタンが植えられて花の頃にはよさそう。
わからないのは、ここは「旧長法寺・今は浄国寺」なの??
境内には「天満山長法寺」の説明板がある。 どうなってるのか??
ここは以前来たことがあるが、長法寺としか思っていなかった。
お墓のところを登っていくと・・新沢千塚古墳群に出た。
昨日も来た新沢千塚古墳群
石室を復元したところもある。
ポコポコとこぶのような古墳が連なっている。
600基もあるそうだ。
弁当の後、少し登ってみたが、キリの木の葉痕と冬芽が見れたぐらい。
午後、帰り道、益田池堤跡を見る。
益田池堤跡の上。
平安時代に高取川をせき止めて造られた巨大な溜池は、埋め立てられて白橿ニュータウンが造成され、堤の一部が残っている。
植え込みの中にスズメバチの巣が見えた。
堤跡を出て橿原神宮駅へ。
今日は、知らないところがたくさんあった。
登り下りの多い道を18000歩(昨日は16000歩だった)上り下りが昨日とは段違い。
皆さん平気な顔で歩かれていたけど・・
私、健脚さんについてよく頑張りました。パチパチパチ・・(自分に拍手)